神様は叶えてくれません

「というわけで……」
 理奈は言った。
 黒贄礼太郎探偵事務所は、今日も濃厚な血の臭いに包まれていた。それもそのはずで、床には一面に赤い液体がぶちまけられている。いや、それどころか、理奈が向かう机の下からは、肌色のストッキングに包まれた細い両足が覗いていた。ピクリとも動かない足からしてもこの出血量からしても、もはや生きてはいまい。
 理奈は溜息をこらえて正面に向き直る。
 死体の潜む机にかけた礼服の男、この事務所の主である黒贄礼太郎は、どこか眠たげな切れ長のまなざしと、何かを面白がっているような薄い微笑でもって理奈を迎えていた。いつも理奈と最弱争いを繰り広げている助手は、今日は畑に行っているようだ。探偵事務所には、黒贄と理奈の二人だけであった。足元の死体を除けば、だが。
「私はあと三時間以内に好意を寄せている相手と合意の上でキスしなきゃ、死んでしまうんです」
「ふうむ。その話でしたか」
「えっ。黒贄さん、何かご存知なんですか」
「いえまったく存じ上げません」
 彫りの深い美貌が満面の笑みで答える。目を輝かせ、色褪せた木製ベンチから勢いよく立ち上がったところだった理奈は、がっくりと肩を落とした。
「あのですね、私、ほんっとーに困ってるんですよ。もっと真面目にやってくださいよおっ」
「そう言われましても。事情もよくわからないまま解決を求められても、真面目に取り組みようがありませんなあ」
「事情なんてどうでもいいんですっ。書きたいのはその後の展開なんですよ、いえ私には何のことだかわかりませんけれど」
「ほほう、それで本家のやり方を模しているわけですな、いやいや私にも何のことだかさっぱりわかりませんが」
 黒贄と理奈は互いに顔を見合わせ、乾いた声でひとしきり笑いあった。いったい二人は何の話をしているのだろうか。何事もなかったかのように、あるいは話題をすり替えるように、黒贄は頭をかく。
「しかし、好意を寄せている相手、ですか。高埜さんのお気持ちは大変嬉しいのですが、私にはほら、すでに瑛子さんという人が……」
 黒贄の視線が理奈から外され、隣の革椅子へと向けられた。彼の瞳には心からの愛情がありありと映し出されている。理奈もつられてそちらへと目をやると、そこには、丁寧に繋ぎ合わせられた一体の骸骨が座しているのだった。
 うわあ、大曲さんから聞いてはいたけど、黒贄さんついにそっちの道にいっちゃったんだあー。いやっでもそもそも白骨死体に負ける女子高生って何よ。私だよ。
 と、理奈の胸にいろんな意味で残念な思いが去来すれど、ともあれまっさきに誤解を解くことにする。
「あはは、やだなあ黒贄さん、変なこと言わないでくださいよお。毎日のように私を殺しまくってる殺人鬼に惚れるとか無理ですから本当たとえいくらお金を積まれたとしてもまじ勘弁で」
「おっと、そうだ、名案を思いつきましたよ。キスできないと三時間後に死んでしまうというなら、その前に死んでみてはいかがでしょうか。ややっ、こんなところにちょうどよく凶器が」
 黒贄は気怠い仕草で右手を掲げると、まるでそれに初めて気付いたというような顔をした。右手に握られたゴルフクラブには真新しい血糊がべったりとこびりついており、グリップまで滴って黒贄の礼服の袖を濡らしている。
「あー、そりゃそりゃ」
「え゛っ、待って、くっ黒贄さん、あ、謝りますからあっ、生意気言ってごめぶべっ」
 気の抜けたかけ声とは裏腹に悪魔のような素早さと力強さで振りかぶられたクラブヘッドは、容赦なく理奈の頭にめり込んで頭蓋骨を突き破り脳漿を飛び散らせた。理奈は死んだ。


「あと一時間以内に好意を寄せている相手と合意の上でキスできなきゃ死んでしまうんですうーっ」
 理奈は出会い頭に土下座した。
 八津崎市内某所にある、廃墟ビルの地下である。小さな火を灯した蝋燭だけがこの場の光源であり、暗い部屋はその全容を誰しもに掴ませない。
 そんな暗がりに溶けるような黒い着物に身を包んだ闇の占い師、こと神楽鏡影は、己のアジトに突然現れた理奈を見るやいなや飛び退って構えたものの、侵入者の正体が理奈であることに気付くと着物の裾を払ってまっすぐに立ち上がった。
高埜さん、死に戻りを利用して入ってくるのはやめてもらえませんか。また結界を張り直さなくてはならないでしょう」
「はーい。次は気を付けまーす」
 まず神楽が言わんとしているのは要約すると「二度と来るな」ということなのだが、床から顔を上げた理奈は、まったくその気もなく頷いた。神楽はうんざりした表情を見せ、しかしすぐさま商売用の愛想笑いを浮かべて尋ねてくる。
「それで、私に何の用です」
「えーと、今お話したのがすべてなんですけど……」
「つまり解呪の依頼でしょうか」
 うちっぱなしコンクリートの冷たい床に座り込んでいる理奈を、神楽は微笑んだまま同じくらいに冷たい眼で見下ろした。そして、右の手のひらを広げて見せた。
「五百万で請け負います」
「ごっ……」
 理奈は絶句した。神楽がそれを意図したのかはわからないが、提示された値は第一回世界殺人鬼王決定戦と同時期に行われた、チワワのクッキーちゃん捜索依頼料と同じ金額であった。
「な、なんなんですか。花の女子高生が唇を捧げようと言っているんですよ、こっちがお金をもらってもいいくらいですよっ。し、しかも、好意云々とまで言わせておいて……せめて無料で受け取ってくださいよおー」
「そんな情念がこもっていそうなものは、なおさらいりません」
 涙目で縋りつく理奈を、神楽はばっさり切り捨てた。
「呪詛返しにはそれなりの準備が要ります。さらに呪詛の媒体に直に触れなければならないとなると、相応の危険があるのですよ。……そもそも高埜さんは死んでも生き返るのですから、無理に解呪する必要はないのではないですか」
「こんな非モテっぽい死因はやだああ」
 理奈はわっと泣き伏した。
「私には神楽さんしかいないんです、お願いしますうっ」
 泣き落としにかかった理奈の傍らに、神楽が膝をついた。目を上げればすぐ近くにある神楽の顔、その唇が僅かにめくれ、隙間から尖った犬歯が覗く。
「……ひっ」
「おい、理奈
 本能的に何かを察した理奈が悲鳴を漏らして頭を仰け反らせるその寸前、浅黒い手が理奈の顎を掴んでそれを押し止めた。先まで営業モードだった神楽の口調ががらりと変わる。
「おまえや黒贄のような不死身の化け物どもと、俺を一緒にしてくれるなよ。俺は死んだらそれっきりなんだ、そんな馬鹿げた理由で命が懸けられるか。どうしてもと言うなら、五百万、持ってくるんだな」
「は、はい……」
 野獣めいた精悍な顔つきに間近で凄まれては、引き下がるしかなかった。
 理奈が首肯したのを見届けてから、神楽は理奈を解放する。あんまりぞんざいな手つきだったので、理奈は床を転がり、そしてそのままアジトから叩き出された。


 八津崎市黄泉津通りから脇道に入り、理奈は探偵事務所のあるビルディングに戻ってきた。
 今日は晴れている。一階、雨の日にしか主が現れない草葉陰郎探偵事務所の墓を通り過ぎて階段をのぼり、しかし四階の黒贄礼太郎探偵事務所までは向かわずに二階の黒い扉の前で立ち止まる。
 扉の札には剣里火探偵事務所とある。理奈は躊躇なく中に足を踏み入れた。
 無人の部屋の中には最低限のものしか置かれていない。理奈は自分が持ち込んで、寝床代わりにもしている三連のパイプ椅子のひとつに座り、力なくうなだれた。
「や、やばい。まずいよ。このままじゃ、私の人生史上最悪の虚しい死を迎えてしまう……」
 期限まで、残り十分を切っていた。
「わあーっ、やだあー、愛がほしーいっ」
 理奈が頭を抱えて叫んだとき、ヒュールルルルと口笛にも似た澄んだ音が響いた。理奈はハッと顔を上げて辺りを見回す。向こうの壁際、あたかも陽炎のように忽然と男が現れていた。
 ダークグレイの鍔広帽を目深に被り、同色の薄汚れたロングコートの襟を立てている。その隙間からさえも素顔は窺えない。この事務所の主、剣里火であった。
「あ、剣さんっ、お帰りなさい」
「……うむ」
 ざらついた声で短く頷き、剣は帽子の鍔を摘まんで少し引き下げた。それが彼の挨拶だった。理奈は跳ねるように椅子から立ち上がり、剣に駆け寄った。
「どうした。何かあったのか」
「剣さん、私とキスしてください」
 沈黙。
 やがてヒュールルー、美しく澄んだ音色が再び響く。剣の全身の輪郭がじわりとぼやけはじめる。理奈は慌てふためき、ロングコートの裾に取り縋った。
「わーっ待って待って行かないでください、これには深い事情があるんです、かくかくしかじかというっ。なので、あと五分以内に相手と合意の上でキスできなきゃ、私、死んじゃうんですよお」
 洗いざらいを説明すると、口笛のような音はようやく止まった。剣の姿もはっきりとこの次元に固定されている。そうして長い長い静寂の後で、
「……おぬしの事情はわかった」
 剣はそう答えた。錆びた金属のような声音には、困惑が色濃く滲んでいる。
「しかし、何もわしを選ぶことはなかろう。わしは人であるとは言い難いし、それに理奈さん、おぬしとは歳も離れている。……まあ、他の相手を探すには、あまり時間が残されておらぬようだが」
「うーんと、でも、黒贄さんには即行で殺されちゃいましたし、神楽さんには五百万円を要求された挙句に断られましたし、草葉さんは出てこれないし、大曲さんは既婚者だし、さっき城さんにも殺されてきたところだし」
 指折り数える理奈を前にして、剣は少しも歪んでいないのに帽子の鍔をなおした。表情どころか顔立ちすら見えないにもかかわらず、ものすごく同情されている空気が伝わってくる。わ、私、かわいそうな子なんかじゃないやい。
「いやっ、だいたい好意を寄せている相手じゃないとっていう前提が……」
「ならば、わしは余計にふさわしくあるまい」
「そんなことないですよ、私、剣さんのこと好きですもん。あ、別に変な意味じゃないんですけどー。……って、やば、時間がっ。剣さん、私こんな虚しい理由で死にたくないんです。どうか後生ですのでお願いします、土下座でも何でもしますっ」
「そんな真似をすることはない」
 本日二回目の土下座に取りかかろうとした理奈を、剣が止めさせた。
理奈さん、目を瞑っておれ。わしの顔を見て、わざわざ不快な思いをせずともよいだろう」
 と、帽子の鍔に触れながら言う。
 別に、不快になんてならないけどなあ。理奈は思ったが、黙って言われたとおりにすることにした。初めて見たときにはさすがにびっくりしたし、もし八津崎市に来たばかりの頃だったなら泣いて怖がったかもしれない。そんな理奈が何と慰めたところで剣は傷つくだろうと考えたからだ。
 革手袋に包まれた剣の左手が理奈の肩に乗る。その重みに、なんだかどきどきしてきてしまう。この三時間、半ば以上意地なって駆けずり回っていたのだが、いざこういう展開になると、やはり恥と緊張が上回ってしまうらしい。
「む」
 急に剣が焦ったように呻き、肩から手が離れた。
 理奈はつられて瞼を持ち上げ、それから眼前の光景にあっと声を上げた。空中に、剣の腰から上だけが浮かんでいる。その上半身も頼りなく揺らめき、薄れ、向こうの壁が透けて見えていた。
「ぬう……すまぬ、離れろ。巻き込まれるぞ」
 理奈から離れるまでもなく、そう告げた剣の存在はすでにほとんど別の次元にずれてしまっている。長らくひとところに留まれない次元放浪者は、一瞬でどこかへと消え去っていった。残された理奈は呆然とするしかない。
「え、ええーっ、剣さん、ちょっ、ブラックソードさーんっ、やっぱりこういうオチですか、もうやだあーっ」
 理奈は死んだ。