いわば深い溜息
大学での講義を終えて捜査本部へ赴くと、はしゃいだ様子の松田に迎えられた。「あっ、月くん、テレビ見たよ! おめでとう!」
「テレビ? ああ――ははっ、参ったな。大学でも冷やかされてきたところですよ」
適当に愛想よく応じる。多少うんざりした気持ちが湧きもするが――こういった手合いへの対応には慣れているのだ。ところが間の悪いことに、冬眠後の熊よろしくこもっていた自室から出てきた史香が、月に続いてフロアに入ってきた。
「テレビって、何かあったんですか? イケメン東大生特集?」
「…………」
明後日の方を向いた史香の発想に、月は思わず閉口した。代わりに、松田が当事者でもないのに何故か揚々と答える。
「それがさ、さっきテレビ見てたら、ミサミサが――」
「……松田おまえ、仕事中に何やってるんだ?」
「えっ! いやっ休憩時間にですよ、休憩時間に!」
相沢にとっちめられる松田の口からそれ以上の詳細が語られることはなかったが、テレビ・ミサという単語からおおよそは察せられたのだろう、史香は月に向き直ってにっこりした。
「それはそれは……人生詰みましたね、月さん。ご愁傷様です」
……果たして笑顔で人に言ってのける台詞だろうか。
「人の人生を勝手に詰ませないでくれ」
「あらっ、おめでたい話でしたか。それでは改めまして、おめでとうございます」
「……どうもありがとう、史香」
まったく彼女は……祝いの言葉くらい、普通に言えないものか。別にめでたい出来事でもないし、祝われたい気などもこれっぽっちもないけれども。
「うんうん、おめでとう。本当によかったよ」
どうやってか相沢の説教から抜け出した松田が、何やら感慨深げに頷いている。
「史香ちゃんと竜崎も、無事にまとまったっぽいし」
「――そうですね」
矛先が自分に向くとは思っていなかったのか、史香は一瞬、鼻白んだ顔をした。それは本当に一瞬のことで、次の瞬間には、月に嫌な予感を抱かせる種の笑みに変わった。自身の腹の辺りをそっと手で撫で、言う。
「おかげさまで、間もなく三人家族になれそうです」
フロア内が凍りついた。
片隅で作業をしていた父たちも、完全に固まった。巨大モニター前の定位置にいる竜崎はこちらには背を向けていて表情が窺えないが――彼の背に注がれるそれぞれの視線、流れる気まずい空気。
それらと、目と口がOの形になっている松田の顔にいたく気を良くしたようで、史香はふふんと笑う。
「松田さん、今日は何月何日でしょうか」
「……あっ、エイプリルフールってこと!」
そのやりとりがあって、ようやく止まっていた時間が動き始めた。
月は口元に手をやって、己の顔が引きつっていないか、さりげなく確かめなければならなかった。……やはり史香の冗談は、何と言うか、アレだ。いや、そもそも、今の冗談は洒落になっていない気がする。二人の関係上。
一時あらぬ疑いをかけられた竜崎が、
「史香の趣味の悪い冗談は、行事お構いなしじゃないですか」
と、椅子の上からチラッとこちらを振り返った。恨みがましい視線を受けても、史香は悪びれない。
「趣味が悪いとは、失礼ですね。初心に返って、オーソドックスに攻めてみたつもりですが……ちょっと捻りがなさすぎましたか」
「捻りも何も……」
竜崎は不機嫌そうに「有り得ないじゃないですか」とぶちぶち漏らしている。
――何とはなしに話がお開きになり、月は竜崎の隣にある専用のパソコンの前に腰を下ろした。松田も、元の作業に戻っている。
「竜崎さんってば、そんなに怒らないでくださいよ」
竜崎の後ろまでやって来た史香が、まだふてくされた体でいる竜崎の肩に手を置いた。
そういったさりげない接触は以前には見られなかったもので――月は二人から目を逸らすべきか迷う。見てはいけないものを見てしまったような、後ろめたさに似た感覚に襲われたからだ。
「怒ってはいません」
そんな月の微妙な男心など意に介さず、竜崎は肩にある史香の手を取って引いた。それから、自身の脚の間に史香を座らせる。されるがままに竜崎の胸に背を預けた史香だが、さすがに抵抗があるらしく抗議を口にしかけた。
「ちょ……」
「ただ、これまでのあなたの冗談を本当にしてみるのもいいかという気になりました」
史香は口を噤み、今日までの悪行を指折り数え始めた。両の手では足らなくなると、肩越しに竜崎を見やる。
「……どれを?」
「さあ、どれをでしょう」
表情少なながら、竜崎の声は楽しそうだ。先ほど機嫌が悪かったのは演技だったのか、史香の腰に手を回したりしているうちに機嫌を直したのか――うん、ものすごくどうでもいいな。
必死に見ぬ振りを決め込もうとしている父たちが哀れになり、何より己の心の安寧を守るために、月は皆を代表して言った。
「よそでやってくれないか……」