Trick and Treat
「竜崎さん。今日は何の日でしょう?」竜崎の私室にやって来た史香は、唐突にそんなことを問うてきた。
いつだったか自分も同じことを尋ねたな、と考える。今日――十月三十一日が何の日か、答えとしては一般的なものと個人的なものの二つが浮かんだが、史香が後者を知っていようはずはない。竜崎は世間一般に通じる回答を口にした。
「ハロウィンですね」
「はい、正解です。というわけで、トリックオアトリートです」
ずいと右の手を差し出してくる、笑顔の史香だ。
「……私としても、史香のお願いを叶えてあげたいのは山々ですが」
自然と、声が低いものになる。
「駄目です。どれもあげられません」
竜崎の目の前のテーブルには、クッキー、マフィン、タルト、パウンドケーキ、ワタリに用意させたさまざまな種類の洋菓子が並べられている。すべて鮮やかなオレンジ色をしているのは、今日にちなんだものゆえだ。いずれにもまだ手をつけてはいない。これらを食事とするのには断固反対するも間食としてならいくらでも腹におさめられるという史香に、蹂躙を許すわけにはいかなかった。
すると史香は「何を見当違いをしているのやら」とでも言いたげな、心底呆れ返った表情になった。そして実際に「何か勘違いをしていませんか、竜崎さん」と言った。
「これはお願いではありません。お菓子はもらいます。そして悪戯もします」
「…………どこが『or』なんです」
「あら? ええと……お菓子はもちろんもらいますが、ついでに悪戯もさせてもらいます」
「言い直されても。それに、何も変わっていないじゃないですか」
「もうっ、わがままですね、竜崎さんは」
理不尽な言を吐き、史香は口を尖らせる。
どうあっても引くつもりはないらしい……仕方がない。竜崎は史香への反論を諦め、ソファーの端に移動してもう一人分の空間を作ってやった。こちらの意図をすぐさま悟り、史香は意気揚々と竜崎の隣に腰を下ろす。
「史香は、こういう行事には興味がないと思っていましたが」
せめてもの抵抗として、そう尋ねてみる。あまり効果はなく、史香は遠慮する素振りなど一切なしに、洋菓子の山からかぼちゃプリンの容器を取り上げた。頷いて答えるまでにも、スプーンは容器と史香の口との間を何往復もする。
「ないですよ。でも、ワタリさんが」
「ワタリが?」
「竜崎さんのところにお菓子をたくさん用意してあるので、お二人でどうぞ、と」
そこで、ようやく略奪は中断された。史香は手にしたスプーンの先を揺らし、宙で何かの輪郭をなぞるようにする。
「私からのプレゼントですって……やだなあ。何か、変なふうに気を回されちゃってますよねえ」
「…………」
再び黙してしまう竜崎である。史香はちっとも気付いていないようだが、後半のワタリの言葉は、史香越しに竜崎に向けられたものに違いなかった。どうりで、小言の一つもなくこの量を用意してくれたわけだ。
「まあ、理由がどうあれ、いただけるものはいただきますけど」
と、しれっとスプーンの運びを再開する史香。思わず溜息が漏れる。
「まったく……史香。あなたのそういうところが、」
「はいはい、何ですか」
「――本当にかわいいと思っていますよ」
「!!」
ちょうどスプーンを口に含んだところだった史香は、ぐっと喉を詰まらせて軽く咳き込んだ。それから、唖然として竜崎を見やる。
「は、はあっ? そっ、竜、えぇ……」
今度は効果抜群だった。この程度のことで面白いくらいにうろたえている史香に、つい口元が緩む。いつもくだらない冗談を発する史香の気持ちが、今ばかりはわかったような気がした。竜崎が口にしたのは冗談ではなく、本心だけれども。
「……あ、あのですね、竜崎さん。二人の時にそういうこと言うの、やめてもらえませんか?」
「わかりました。史香がそう言うなら、他の皆さんがいる時にします」
「言ってませんから!! そんなこと言ってませんからね、絶対やめてくださいよ!?」
珍しく大声を上げてから、史香は自分がからかわれていることに気付いたようだった。史香らしからぬ失態だ。その自覚もあるのか、ますます笑みを深くする竜崎を一瞥して、居心地悪そうにソファーに座り直す。
「そういえば――ソファー、新しくしたんですね?」
「ああ、はい。一人がけに二人で座るのは嫌なんでしょう」
「…………」
史香は突然に押し黙った。不可解なことだ。露骨な話題逸らしに大人しく乗ってやっただけであり、別に、今の台詞には揶揄も何も含まれてはいないのだが。
「史香? どうしたんですか?」
「……それで、買い替えたんですか。その理由だけで?」
「そうですよ。家具の類に、特にこだわりを持ってはいませんし」
「じゃなくて、だからっ……」
史香はじれったそうに言いかけたが、最後まで言葉を続けることなく、やがて上半身を捩じるようにして向こうを向いてしまった。それでもプリンの容器は放さないところは、何と言うべきか。
「……を連れて来なくてよかった……」
史香は独りでぶつぶつ呟いている。髪の合間から覗く耳の端が赤くなっているのを見ると、何か照れているのだろう。
内心、首を傾げた。昨日、史香がこの部屋を訪ねてきた際に、竜崎は当然ながら自分の脚の間に座るか、もしくは腿の上に乗るように促したのだが、大変に激しい抵抗(数日前はそうしたくせに、なぜ今さら抵抗するのか竜崎には理解できない)の末に彼女は向かいのソファーに落ち着いた。そういうことがあって、妥協案としてペアのシングルソファーは撤去し、このダブルソファーと取り替えたのだ。それが、そこまで恥ずかしがることだろうか。
「今日は、私の誕生日でもあるんですが」
「えっ?」
竜崎がポツリとこぼすと、史香はやっとこちらを振り返った。虚を衝かれたような、気の抜けたような顔だ。
「あ、そう、だったんですか。……それは、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「えっと。それじゃ、プレゼントとか用意した方がいいですよね」
「そんなことは気にしないでください」
竜崎は史香が先程やったように半身をねじり、片手をソファーの背に置いて座面に膝を突いた。そうしてにじり寄られて、史香はたじろぐ。昨日みたいに暴れ出したりはしなかったので、竜崎が史香の向こうにある肘かけにもう一方の手を突くと、史香はソファーと竜崎の間に簡単に閉じ込められてしまった。
「……な、何なんですか、さっきから?」
史香は竜崎を見上げ、早口でまくし立てる。
「言っておきますけど、悪戯は私がする側ですからね、私の専売特許なんですからね」
「わかってますよ。口実は、何でもいいんです。お菓子でも悪戯でも、プレゼントでも。何にしても、同じことですから」
正直なところを告げると、史香ははたと口を噤んだ。
「……史香?」
一瞬、泣き出してしまうのかと思った。
顔を寄せて瞳を覗き込めば、素直に見返してくる。嘘だとか、口実だとか、そういうごまかしがなければ、史香は竜崎に触れようとはしてくれない。彼女にそうさせるのが何であるかは、竜崎にはいまだ明確にはわからないけれど。
それなら口実を用意するまでだ。竜崎が、史香に触れたい分だけ。
不意に、史香は視線を落とし、まだ手にしたままだったプリンの残りを食べ始めた。
「……史香」
さすがに憮然とする。この状況で、体勢で。第一、竜崎だってまだ一口も食べていないのに。
咎める声にも構わず史香はさっさと食べ終わって、竜崎の脇の下から器用に腕をくぐらせ、スプーンと空の容器をテーブルの端に置いた。それから、ちょっと摘むように竜崎のトレーナーを掴んだ。俯いた史香の額が、竜崎の胸に当たる。
「私も……」
ふっと消え失せそうな、か細い声だった。やはり、今にも泣き出しそうな声だと思う。
「何でもよかったですよ。お菓子でも悪戯でも」
「史香」
指の先で頬を撫でるようにすると、史香はゆっくりと顔を上げる。まなじりに涙が滲んでいるでもないし、頬に涙の跡があるでもない。史香は泣いてはいない。にもかかわらず、竜崎は何と応えるべきか悩んでしまう。
長い思考の後に行われたのは、結局いつものような応酬だった。
「きっちり食べ切ってから言うことですか」
「それはそれです」
あまりにいつもどおりだったので、二人して顔を見合わせ、笑ってしまう。
ふっと、甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。テーブルの上の色鮮やかな洋菓子からか、あるいは史香の唇からか。竜崎にはわからない。それは、今から確かめればいい。そう思った。