菓子を食らわば皿まで
如月史香は、天涯孤独の身の上である。正確を期するなら他の言い回しがふさわしいかもしれない。さておき、生まれ育った世界と離別を果たした史香は、財産や頼るべき親類を持たない。代わりに――と言っては何だが、三食おやつ昼寝つき生活をつつがなく送らせていただいている。それはもう力いっぱい寄りかかってお世話になっている。そう、史香は何も持っていないので仕方がない。まったくもって心苦しいことに、ひとは図太く逞しくあらねば生きていけないのだ。
そんな論法で、史香は食後のおやつを強奪するために竜崎の私室に襲撃をかけた。……なお、Lの左腕として遺憾なくその有能さを発揮するワタリが、どうにも素直になれない史香が逢瀬を重ねやすいようあえて各々に用意していないことを当人は知る由もない。
「竜崎さーん、お邪魔しますねー」
勝手知ったるなんとやら、返事を待たずにドアを開けた史香を迎えたのは、竜崎の丸まった背中だった。
竜崎はフローリングに直に座し、同じく直に設置されたパソコンに姿勢悪く向き合っている。周囲には散乱する書類と菓子が盛られた皿という、毎度のオプションつきだ。
史香は竜崎のそばに適当な空きスペースを見いだして、彼と同じく床に座り込んだ。仕事の邪魔をしてはいけないので(という建前で)、無言のままにさっと皿に手を伸ばす。けれども竜崎は、頭の後ろに目がついているのかというくらいに素早い動きで振り返りブロックしてきた。
「史香。これは私の分です」
「そうですか。でも竜崎さんのものは私のものなので、つまり私のおやつなのでは?」
「……わかりました」
史香の暴論に竜崎はだいたい「どうしてそうなるんですか」とぶちぶち言いつつ分けてくれたりくれなかったり、時には激しい抵抗を示して冷戦が勃発することもあるのだが、はて、今日はいやに簡単に引き下がるではないか。
多少の違和感に内心で首を傾げたものの、しかし戦利品の確保を優先しなければならない。と、手を伸ばした先に、一枚の紙切れが差し出された。
「では、合法的に共有化しましょう」
「…………」
史香は略奪を中断し、まじまじと紙面を見つめた。その用紙にはいくつもの記入欄があって、いずれもすでに文字で埋められている。目を上げると、黒い瞳とぶつかった。竜崎の無表情はいつもと変わらない、いや、いつも以上に捉えどころがない。
「あの、これって……本物ですか?」
「もちろんです」
「えっと、私の戸籍とか」
「大した手間はかからないので」
「それは、合法どころか違法なのでは……?」
そもそも国籍不明の竜崎に有効なものなのだろうか? ああでも、大学にもしれっと通っていたっけ。このくらいどうにでもなるのかも。些事に思考が囚われてしまうくらいには、史香は混乱しているらしい。これが冗談だったらいかようにも応じられるし、馬鹿馬鹿しい手間のかけ具合とかとても好きな類なのだが、史香ではなく竜崎のすることだ。冗談……じゃ、ないんだろうなあ。史香は竜崎の顔と紙片を交互に見比べた。
――何度改めても、用紙には「婚姻届」と記されている。
「史香の戸籍もそうですが、私も本名を明かせないので、どうしても多少の細工は必要になりますね」
いつまでも視線をうろうろさせている史香に何を思ったのか、竜崎はいつもの、彼の推理を披露する時と変わらない調子で、流暢に語り始めた。
「史香には都度、便宜上の名前を名乗ってもらうことになりますが」
「つまり、今までと変わらないということですね」
「私は記録媒体に映らないようにも心がけていますから、挙式などの婚姻に至る通常の手順を踏むことは諦めてもらわないといけません」
「まあ、いいんじゃないですか。お互い身内はいませんものね。私もそういうのに特に憧れとかないですし」
「『L』の身内となると、気軽に人に会ったり外に出かけたりするのは難しくなります」
「そんなに出かけることもありませんし、知り合いと言ったら夜神さんたちくらいですから、別に構いませんけど」
淀みなく問答をこなしながら、史香はだんだんと苛々した気持ちになってきた。竜崎が口を開く前に先手を取って、険を隠さない物言いでぶつける。
「竜崎さん、さっきからどうしてそう悪い方に悪い方に話を持っていくんです? どうせならメリットを挙げてくださいよ」
「そうですね――」
と、竜崎が頷いてから次に言葉が発されるまで、幾秒か間が空いた。
「私と一緒にいると毎日いろんな種類のスイーツ食べ放題ですよ」
「手を打ちましょう!」
「…………」
勢い余りある史香の即断に、竜崎はじとっと非難がましい目つきになる。
いや、竜崎からこういうノリに持って行ったのだから、史香が責められる謂われはない。と言うよりも、戸籍と記入済みの届けまで用意しておいて、アピールできるのはそこだけなのか。
いつもとんでもない行動力で我が道を突き進んでいるくせに、ほんのときおり、竜崎はこういった臆病さを覗かせる。私にだけだったらいいなあ、と思う。
……しょうがない。仕切り直しをさせてあげよう。
「食べ放題でもいいですけど。せっかくなので、言葉が欲しいですね、私」
「言葉、ですか?」
「竜崎さんは、まだ肝心なことを言っていないと思いませんか?」
訝しげな表情がよぎったのは一瞬のことで、世界の名探偵はすぐさま答えを導き出したようだった。片膝をついて、改めて史香に向き直る。そうして座っている史香の指先をそっと掬い上げた。
「史香」
散らかり放題の部屋で、竜崎はいつものくたびれた格好で、仕切り直したところでムードのかけらもない。でも、
「私と結婚してください」
「――はい。竜崎さん」
史香は笑って頷いた。竜崎はさらに続けて言った。
「それから、言葉だけではなく、私自身のことも望んでください。私には史香が必要です。これから先も、ずっとそばにいたいと思っている。愛しています、史香」
「……そ……そこまでは要求していませんが……」
「メリットは多い方がいいかと」
「そっ……うん。まあ。はい」
史香は早々に降参した。おかしい、今の今までイニシアチブは史香にあったはずなのに。しかし追撃はやまない。
「史香からはないんですか」
「私から……と言うと」
「私も同じものが欲しい」
……いきなり強気に出てきたな。思ったものの、呆れるよりも狼狽が先に立つ。
史香は逃げ道を探したが、もともとこの部屋には足の踏み場が少ないし、なんだかじわじわ距離が縮まっているし、添えられていただけの手はいつの間にか史香の指をしっかりと握っているしで、その場で身動ぎするしかできない。
「えーと、じゃあ、そのうち……」
「……わかりました」
予想外にすんなり引き下がる竜崎。
史香には、安堵する暇も嫌な予感を抱く暇も与えられなかった。握られていた手の力のベクトルが急に反転し、史香は綺麗に後ろにひっくり返る。
「今からゆっくり聞き出すことにします」
「しっ仕事は!? 竜崎さん、仕事をしてください!」
「特に急ぎの用件ではないので」
「嘘ばっかり――」
抗議の声も呆気なく吸い込まれてしまい、この日の史香は、人様の菓子に手を出すなら皿まで食らう覚悟をしておかなければならないということを大いに思い知った。