チョコレート・ステップ
眼前に差し出された、かわいらしいラッピングの小箱。「はいっ、史香」
「……何ですか? これは」
史香はそれをまじまじと見つめた後で、海砂に胡乱気な視線を送った。日が日なだけに予想はたやすいのだが、何しろ相手が想定の域を超えている。
笑顔の海砂は、アイドルらしく甘ったるい声を発する。
「友チョコ」
つい露骨に「いらねえー」という顔をしそうになった史香はしかし食べ物に罪はないなと即座に思い直し、口元に微笑を貼り付けると、粛々とチョコレート箱を受け取った。
「ありがとうございます、弥さん。もちろんのこと私からはありません」
「……ふーんだっ、いいもんね、別に。最初から期待してないしっ」
先程のアイドルスマイルはどこへやら、今度は舌を出してみせる海砂である。
「それよりライトは? ここに来てるんでしょ?」
「ああ、そのうち降りてくると思いますよ。私は、たまたま下の階にいたので」
第二のキラであるという疑いを払拭し海砂は晴れて自由の身となったが、代わりに捜査本部にはエントランスホールまでしか立ち入ることができなくなった。本部にいる人間とコンタクトを取るには、こうして相手が呼び出しに応じてやって来るのを待つしかない。
「月さんにチョコですか?」
そう尋ねると、海砂は胸を張り、手にしている大きな紙袋を掲げてみせた。
「とーぜんでしょ。あと、ついでに竜崎とかマッツーたちにも」
「あら、律儀なんですね。意外と」
「だってライトのお父様がいるんだもん、いろいろあったんだから、印象よくしとかなきゃね。……って、一言余計なんだけど。意外とって何よ」
「――ところで、」
海砂の抗議はさも聞こえなかったかのように、まるきり無視する。
「弥さんは、もし私が月さんにチョコレートを渡したとしたら、それをどうします」
「えっ? どうって……」
唐突な、それも脈絡のない問いかけに、海砂はいささか戸惑ったようだ。けれども、そう間を置かずに真剣な面持ちになり――と言うよりは目を据わらせて、きっぱりとこう言い放った。
「捨てるに決まってるじゃない」
「そうでしょう、そうでしょうとも」
史香は心から同意した。同時に両手は勢いよく海砂の紙袋の持ち手を掴み、海砂がぎょっと目を見張る。
「あっ! ちょ、ちょっと止めてよ、せっかく作ってきたのに!」
「手作りとは、ますます見逃すわけにいかなくなりました」
「はあっ!? 史香、あなたって……ほんっとうにめんどくさい子ね!」
「そういう台詞は鏡を見てから言ってください」
二人が仁義なき戦いを繰り広げていると、そのうちにようやく月がエントランスホールに姿を現した。なぜか竜崎も一緒だ。監視モニターで史香がいるのを見つけて、降りてきたのかもしれない。
「あっ、ライトー!」
途端に海砂はものすごい馬鹿力を発揮し、史香をぺいっと床に振り落として、脇目も振らず月のもとへ駆け寄っていく。それと入れ違うみたいにして、背を丸めた竜崎がこちらにやって来た。
「ま、負けた……」
「何をやっているんですか、史香」
床の上に膝をついたまま打ちひしがれている史香に、竜崎は呆れた様子ながらも手を差し伸べる。
史香はその手のひらを見て、次いで竜崎を見上げた。
普段の生活がアレなだけに、いわゆるお付き合いを始めてそこそこ経つにもかかわず、史香は竜崎と一緒に外を出歩いた経験がない。ぶちまけて言うと手を繋いだことがないのでこういう些細な行為も今さらながらに恥ずかしいものがあるのだが、竜崎の方は取り立てて気にした素振りもなく、すぐに手を取ろうとしない史香を小首を傾げながら見返している。
自分ばかりが意識しているという事実は正直なところ悔しい。史香は胸中の葛藤をおくびにも出さぬよう、差し出された手の上に己の指を乗せた。
「ね、ライト、今日くらいいいでしょ?」
「いや、僕は捜査が……」
その間にも、海砂は月にくっついてデートをせがんでいる。
「そうですね、月くんに捜査を抜けられるととても困ります」
竜崎は、史香の躊躇と体重をものともせずに軽々と助け起こしながら、二人の会話に口を挟んだ。
彼のいつものやり方からするに、月に助け舟を出したつもりなどではなく、単に竜崎自身の都合によるものに違いない。月にしがみついたまま、海砂がこちらを振り返る。手には、見せびらかすようにチョコレートの紙袋。
「竜崎さん、これバレンタインの義理チョコです。義理です。義理」
「ああ、はい、どうも」
「ライトと一日デート権と交換です」
「手を打ちましょう」
交渉は十秒足らずで成立した。
当事者をないがしろにした取引に、当然ながら月は異議を唱えようとする。
「おい竜崎、何を勝手に――」
「ちょっと待ってください」
月が不服申し立てを終える前に、史香はそれを強い語調で遮った。その場にいる全員の顔を見渡し、それから、憤懣やるかたなしにまくし立てる。
「交換ということは、もともとは竜崎さんが月さん一日デート権を所有していたということですか? どうして月さんは私を差し置いて竜崎さんにそんなものを握られているんですか? 反対に考えるなら、月さんも同じ権利を持っていて、つまり私が月さんを倒せば竜崎さん一日デート権が手に入ると、そういうことなんですね? はいわかりましたそうと決まればさあ月さん決闘しましょう」
滑らかな話しぶりに反して大きな穴が空きまくりの史香の理論に対して、
「史香、あなた、何を言っているのか自分でもよくわかっていないでしょう」
「何でまた僕なんだ……」
「またミサの月に変なことしようとして!」
三人は三様の反応を示した。
「何ですか、皆さん。申し開きがあるなら聞きましょう」
史香はあくまで横柄に応じる。「では史香」と竜崎が至ってあっさりと口を開いた。
「何も月くんを倒さなくても、その権利は一日分と言わず史香が専有していますから。もちろん、逆のことも言えますが」
「な……」
それまで淀みなく喋っていた史香は、急に言葉を詰まらせた。そして、しばらく視線をうろうろとさせ、しまいには俯いて口の中でごにょごにょ呟く。
「なっ、なら、いいんですけど」
「はい」
神妙に頷いたように見えて、竜崎の顔は心なしか楽しげだ。面を伏せる史香が知る由はなかったが。
海砂がついに堪えきれずに叫んだ。
「もー、ミサ付き合ってらんない! 行こ、ライト!」
と、月を引っ張っていく。渋い顔ながらも大人しく連行される月は、史香たちに当てられるよりは海砂に付き合った方が遥かにましだとでも考えたのだろうか。
エントランスホールに、史香と竜崎だけが取り残される。
「……取引条件を貰いそびれました」
ぼやく竜崎。
海砂はあの紙袋をそのまま持って行ってしまったのである。しかし案ぜずとも、捜査本部の皆には月の手を経由して行き渡ることだろう。考えて、むむと史香は眉根を寄せる。
そんな史香を、竜崎は指をくわえてちょっと見やった。そして言った。
「史香からはないんですか?」
「ええと、まあ、……ないですよ」
もともとこういったイベントに乗る質ではないし、自ら包み隠さず相手に好意を示すことも得意としない。加えて、今年は一言ではとても言い表せないいろいろと複雑極まりない事情があり、まあ要するにさっきのように妙な羞恥心が邪魔をするため、今日まで何もしないままだったのだ。にもかかわらず因縁を付けられた海砂は、このことを知ったらさぞや眉を吊り上げることだろう。
史香は海砂に貰ったチョコレート箱を手で弄びながら、適当に取り繕った。
「作るのは苦手ですし、でも買ってくるにしてもお金を出すのは結果的に竜崎さんになってしまうので、あんまり意味がないかなあって」
「意味はありますよ。史香が私のために選んでくれたものなら、嬉しいです」
「そ……」
――思わず史香が返答に窮して口ごもったところ、
「車を出しましょうか、史香さん」
「!?」
背後からワタリの声がしたので、飛び上がりそうにびっくりした。振り返った先に立っているワタリは、準備のいいことに史香のコートまで手にしている。
「ワ、ワタリさん、いつからそこに」
「いや、歳を取ると、どうも差し出がましいことばかりしてしまいます」
……わりと最初の方からということか。
いつもどおりの柔和な笑みを浮かべるワタリと、僅かながら口角を持ち上げている表情の竜崎(つまり今までのあれこれは全部、史香が遊ばれていたということだ!)を見比べて、史香は長いこと胸のうちで煩悶を繰り返し、しかる後に「わかりました」と腹を括った。
最近なぜか攻守が逆転しがちだが、そろそろ勝ちを取りにいかねばなるまい。こういうのは、竜崎ではなく史香の専売特許なのだから――
「いいですよ、竜崎さんの度肝を抜くものを用意してきてあげますから、覚悟しておいてください。そして来月には、私の権利を存分に行使させてもらいますから!」
史香は言い置いて、エントランスから一歩を踏み出した。