飼い犬の躾け方

 詩帆から田所を見つけたという報せを受け取ったのは、永至が彼女の現実での連絡先を聞き出した後のこと、つまり田所の捜索を打ち切ってしばらく経ってのことだった。
「ああ、ありがとう部長君! やはり君を見込んだ僕の目に狂いはなかったよ!」
 永至は秀麗な顔に笑みを張り付け、彼の利口な犬を褒め称えてやった。方針を切り替えたとはいえ、メビウスの中で片がつくのであれば、もちろんそちらの方が望ましい。
 夕刻、駅前の高架下。
 広場の喧騒は遠くにあり、加えてメビウスに電車は走らない。不自然な静けさの中で、永至の大仰な賛辞は壁にぶつかり僅かに反響して散っていく。
 当てもなく楽士を探して回るという生産性の欠片もない部活動を終え、部室でだらだらと過ごすかカフェかどこかへ繰り出す部員たちを横目に、永至はこの場所まで連れ出されていた。表面上は快く、内心では煩わしさを抱えてついてきたのだったが、田所の件であったのならむしろ気が利いている。IT企業の社長と称した永至の本当の経歴について、詩帆には「みんなには黙っていてくれ」と頼んだ、それを慮ってのことだろう。
「それで、」
 永至はにこやかに続ける。彼女が珍しくあの小煩い羽虫を連れていないことも、永至の機嫌を上方修正する一因だった。
「奴はどこに?」
「田所と話をしたの」
 詩帆が言った。
 質問を遮ったようにも、無視したようにも取れるタイミングの言明。永至は思わず眉根を寄せる。
「……だから何だ。まさか、奴に絆されでもしたんじゃないだろうな」
 己の言葉にぞっと不快感を煽られ、口が歪んだ。
「部長君、君は僕に協力すると約束しただろう。あれは嘘だったって言うのかい?」
「嘘をついているのは琵琶坂先輩の方でしょう?」
「おいおい……」
 言葉少なに語る彼女の物腰はひどくやわらかで、しかしある種の人間には抗いがたい何かがあるらしい。ある種――すなわち、帰宅部の部員たちしかり、他の吉志舞高校の生徒しかり、このメビウスに堕ちてきたような人間には。
 彼らはごく自然に詩帆に全幅の信頼を寄せ、秘していた心を打ち明ける。愚かしいことに、自らがそうとは気付かぬまま彼女に屈従している。
 だが、永至が素性を明らかにしたのはあくまで詩帆を利用する魂胆からだ。
「よしてくれよ。田所に何を吹き込まれたのか知らないが、犯罪者の言うことだぞ。真に受けない方が君のためだ。それに、僕たちは帰宅部の仲間じゃないか。僕のことが信じられないのか?」
 ことさら猫撫で声で語りかけても、詩帆は視線を揺るがせなかった。睨めているのでは決してない、穏やかなまなざしで微笑む。
「もうすぐ出所なんだってね、琵琶坂先生・・
「――殺すぞ」
 永至の決断は早かった。
 いっそ癇癪とでも呼ぶべきほどに。彼は現実においてはどこまでも異端であり、彼の主観では無論それは自身が悪いのでは断じてなく周りが無知無能であるゆえなのだが、他者からの否定にはいたく敏感だった。
 発現させたカタルシスエフェクトをしならせ、目の前の小さな身体めがけて振るう。
「ハハハ! オラッ、燃えろぉ!!」
 激情に駆られるまま笑い、叫んだ。
 己を理解せず排斥しようとする愚者は、当然ながら極刑に処されなければならない。怒りと殺意を表すかのように噴き上がった高温の炎が彼女の姿をかき消す。
「安心するといい! お前が死んだ後は、俺が部長をやってあのポンコツドールをぶち壊してやるよ!」
「……琵琶坂先輩、部長をやりたかったの?」
 と、静かな応えがあった。
 反応するよりも先に、頭部に衝撃が叩き込まれる。
 立て続けに襲いくる破裂音。脳がゆすられ、呼吸が止まる。たまらずくずおれて膝をついた。耳鳴りが激しい。ぐらつく視界の端で、炎の残滓がアスファルトの上でパチパチと弾けているのが見える。そこに、白い脚が映り込む。
「なんだ、それならそうと早く言ってくれればよかったのに」
 ローファーのつま先を鳴らし鳴らし近づいてきた詩帆は、丈の短いサスペンダースカートの裾が揺れ腿が垣間見えるのを気にする素振りもなく永至を見下ろした。黒い両手には巨大な二丁拳銃。その表情はいつもと変わらず涼やかだ。
「……何をすっとぼけたことを言ってやがる!」
 永至は詰めていた呼気を悪罵とともに吐き出した。
「誰がやりたいものか、何が帰宅部だ、お前らが正義の味方気取りでいつまでもぐずぐずやってるからだろうが!」
「あ、そうだよね。先輩は帰宅部の部活動ごっこ、あんまり好きじゃないもんね。……そうそう、証拠隠滅のために田所を引き渡してほしいんだっけ?」
 殺意を以って武器を向けられ、今もなお激しい悪意を叩きつけられているにもかかわらず、詩帆の態度はまるで変わらない。透明な硝子を思わせる声音で、帰宅部の活動の中で仲間たちに話しかけるように、「気をつけて」「サポートよろしく」「大丈夫?」「うまくいったね」、それらとまったく同じトーンで言った。微笑さえ湛えて。
「琵琶坂先輩が私のわんちゃんになってくれるなら、考えてもいいよ」
「ああ? 飼い主の間違いだろうが、このクソアマ。頭におがくずでも詰まってんのか。燃やしてやろうか?」
「やってみたら?」
 啖呵をさらりと受け流されて、永至は咄嗟に右手を握り込んだ。カタルシスエフェクトは消失しておらず、鞭の柄はいまだ掌中にある。
 己の心のかたちというだけあってよく馴染むそれは、この体勢からでも無理なく振るえるだろう。対して詩帆は両手を下ろしており、二つの銃口は地面を向いている。永至の技量があれば先手を打てる――
 詩帆が背をかがめて顔を寄せてきた。彼女の胸に咲く花と、揺れるループタイが永至の喉首を撫でる。凍えそうにあたたかい声が耳に注がれる。
「どうしたの? 先輩、もしかして、ドタマぶち抜かれるのがクセになっちゃった?」
「――――」
 ふと、激昂の波が引いていった。
 胸の杭を消し去り、多少の眩暈はねじ伏せて立ち上がる。顔が触れ合いそうになると詩帆は驚いたように退き、永至はその首根っこを掴んで逆に引き寄せた。
「乱暴な言葉遣いはやめたまえよ、部長君。板についていなければ不格好なだけだぞ」
 真上から見下ろした詩帆の表情が驚きから戸惑いへと変化していく。ここに来てはじめての微笑が剥がれた面持ちに、いくらか溜飲が下がった。
 詩帆はあからさまに永至を挑発しようとしている。今の、慣れないはすっぱな口調などまさしくだ。どうして小娘の誘いにわざわざ乗ってやらなければならない?
 彼女は馬鹿ではなかった、すべてを知って永至と対決するのに一人で挑むことはしないはずだ。アリアでなくとも詩帆が声をかければ同伴者はいかようにも見繕えよう。であるなら、田所によって明かされた事実は部員たちの誰にも伝えていないと考えていい。
 何故か。永至を帰宅部から追放するのではない、別の狙いがあるからだ。
 彼の口元には余裕の笑みが戻ってきていた。掴んでいた手のひらを広げて指先で首筋をなぞってやると、永至の腕の中で詩帆の薄っぺらい身体が居心地悪そうに身じろぎする。
「聞いてやる。欲しいのは金か?」
「お金? 特別には……何もしなくても勝手にお財布に入ってるし」
「現実での話さ。シラを切るのはよせ」
「えっと、そういうのじゃないの。琵琶坂先輩が犬が好きだって楽しそうだったから……私も飼ってみようかなぁって」
 ――さすがに面食らった。
 現実に帰るためには帰宅部のメンバー、特に部長の詩帆にはよく取り入っておく必要があった。永至には理解しがたい詩帆の性分――しょっちゅう他人の事情に首を突っ込んでは、問題の解決のために学校中を駆けずり回る――と、そこから築かれた人望の高さを把握してからは、彼女をどう使うかに目的がシフトした。
 結果はまぁうまくいっている。詩帆のおせっかいは最終的に邪魔をされはしたが田所捜しにいくらか貢献したし、帰宅部内では唯一の大人の男という立ち位置を得て、カタルシスエフェクトに覚醒することもできた。
 デジヘッドと化した無価値なクズどもに鞭を入れるのはなかなか爽快だ。このクソったれな世界から抜け出せない苛立ちも多少は解消できよう。「琵琶坂先輩、おつかれさま」、戦闘の後で詩帆がそう声をかけてきた時、昂揚のままに機嫌よく応えたことがある。道中騒々しい部員たちを取りまとめ、戦闘では的確な指示を飛ばし自ら率先して敵の中に飛び込んでいく彼女に。「君こそご苦労さま。よく働く犬は大好きだよ」……
 この女は頭がおかしいのではなかろうか。
 永至は自身の異質さを棚に上げて呆れ果て、けれども彼にしては根気の強いことにこの馬鹿馬鹿しい会話に乗ってやった。
「僕を脅さずとも、君ほど顔が広ければ立候補者などいくらでも現れると思うがね」
 永至の手は今はもうほとんど添えているだけで、強く捕らえているのではないにもかかわらず、「そうかもしれないけど……」、詩帆は永至と抱き合うような位置から離れずにその場で首を傾げる。永至の言は暗に彼女の数多の親友たちを犬だと指しているのだが、そのことに否やはないらしい。
 やはり、彼女は「こちら」の人間だ。
 永至が確信めいてそう思ったのと同時に、詩帆がこちらを見上げて微笑む。
「うん。でも、琵琶坂先輩がいいな」
 そうだろう――ああ、そうだろうとも。
 ド底辺の無能どもが立場もわきまえず噛み付いてきたせいで、永至はこんな世界に囚われる羽目になった。そもそも、身内でさえも彼を理解しようとしなかった。どいつもこいつも、この理想の楽園とやらにおいてさえ、永至の周囲にはクズしかいない。だが、
「……イカレ女が」
 小さくせせら笑いを浮かべた永至は、しかし己が吐き捨てた声に嘲りの色が乗っていないことには気付かなかった。
 詩帆の襟首を再び掴み、力任せに後ろに引く。喉が絞まってか仰け反った詩帆の口を口で塞いだ。柔らかな唇はありきたりにあたたかい。また頭蓋を撃ち抜かれてはたまったものではないので、軽く食んだあとで、ごくあっさりと離した。
 念のためにちらと目を落とすと、いつからそうだったのか、詩帆の薄い胸を貫く棘と花も、両手の色ももとに戻っている。
「び……あの、先輩」
 見つめ返してくる詩帆の顔は、言い表すならばあんぐりという表現がぴったりである。少なくとも、恥じらいや艶っぽさとはほど遠い。しかし、あの詩帆が言葉をなくして目を白黒させるさまは、永至の自尊心や優越感やその他の欲望いろいろを大いにくすぐった。
「おいたが過ぎたおしおきだよ、部長君」
 甘やかに囁き、頬を撫でさすってやる。大抵の女はこれで黙るものだが、さて、この女はどうだろうか。撫でていた手が知らず下がっていき、詩帆の首に回る。親指が柔い皮膚の下の骨の感触を捉えた。このまま力を込めれば否が応でも黙らせられようが。
「次は殺す。いいな?」
「田所は、」
 詩帆から驚愕の余韻がすうと消え失せ、彼女はいつもの、穏やかではあれど掴みどころがなく底を窺わせない詩帆になっていた。
 どうやら、田所の居場所を掴んだというのははったりではないらしい。
 先のふざけた発言を撤回することも、大人しく情報を差し出すこともしない。そして、永至を責め立てることも、おそらくは帰宅部の連中にその所業を暴露することも。
「……しばらく預ける。逃がしてくれるなよ」
「それは大丈夫」
 と、軽く頷く詩帆
 一転してつまらない思いになった永至は彼女の肩を押し、突き放した。先ほどのあれこれでよれたカラーとアスコットタイをなおし、数歩先の地面に放り出されていた通学鞄を拾う。そうして歩き出した永至の背を、詩帆のきょとんとした声が追ってくる。
「琵琶坂先輩?」
「ここまで来たついでだ。楽士のライブの予定がないか探りを入れに行く」
「あ、それなら私も」
「当然だろう。そもそも、部長である君の務めじゃないのかい」
 永至は足を緩めなかった。反響する軽い足音、さほど待たないうちに詩帆が隣に並ぶ。
「そうだね。でも、頼りにしてるよ、琵琶坂先輩」
「……まぁ、地獄の果てまでついてくるといい」
 うんざりさせられることに、現実じごくに戻るにはまだたっぷりと時間がかかりそうだ。それまでの間に、よくよく躾けなおしてやろうじゃないか。
 夕日に長く伸びる影を引きずりながら、永至は手のかかる犬とともに駅に向かって歩いていった。