失楽のエピローグ
さて、どうしてやろうか――椅子に深く腰かけた永至は、足元に転がしたそれを眺めやって考える。
床に広がる髪、乱れたままのスカートの裾、無造作に投げ出された手足。意識のない駒木詩帆の姿は、枝から落ちてじきに虫にたかられ腐る果実のさまを永至に連想させた。
現実の詩帆は、メビウスにいた彼女とさして変わらない。強いて挙げるならいくらか痩せ、肌の薄白さが増した程度か。と言ってもそれは詩帆に限らず、永至も含めた幽体離脱症候群から回復した患者なら誰しもに起きた変化だろう。
人々がメビウスから解放された時どれほどの混乱があったかは、当時のメディアの記録から推測するほかない。その時の彼は自由に情報を閲覧できる立場ではなく、また、肉体的にも自由に動ける状態ではなかった。リハビリの日々はあのクソのような仮想世界と同じくらい永至をうんざりさせたが、衰えた筋力を取り戻した頃にちょうどよく出所の日を迎えたのだから、良い暇つぶしにはなったとは言える。
奇怪にも、帰宅部のグループWIREは現実の端末の中に存在していた。
まったくあのポンコツドールめ、余計な真似だけは一丁前にやってくれる。現実に戻ってなお部活動ごっこに興じる彼らのやりとりはまさにゴミに等しい。しかし気紛れにログを読み流してみると、思いがけず興味を引かれるものがあった。……いや、正確を期するのなら「なかった」。
詩帆の発言がひとつもない。
メビウスではあれだけまめに部員たちとコンタクトを取っていた詩帆である。何か抜き差しならない事態に陥っているのかもしれない、などと彼らが彼女の身を案じているのを、永至は内心で嘲笑っていた。
どうだかな。案外、捨てられたんじゃないか?
詩帆は誰の心にも気安く踏み込むくせに、己の心には誰も踏み込ませなかった。皆がそれぞれ懊悩たる思いを詩帆に吐露していた反面、詩帆の胸のうちを知る者は一人としていなかった。メビウスに堕ちた経緯はもちろん、本来の年齢、身分、容姿、ことによると性別まで――何もかもを。
WIREではいかにも気遣わしげな言葉だけが行き来している。詩帆の不透明さに誰もが気付いているにもかかわらず、誰も触れることはない。それが彼らの不文律なのだ。
滑稽きわまりないが、まぁ、そこが永至にも都合の良いところではあった。おかげで帰宅部の連中には――ただひとり詩帆を除くとしても――正体を悟られることなく無事に帰還できたのだから。自らの事情を他人にすべて打ち明けるなど馬鹿のすることだ。永至がメビウスで身分を詐称していたように、飼い犬もまた愚鈍ではなかったという事実は彼をいくらか快い気分にする。
再会の相談には「僕は遠慮しておくよ」とおざなりな断りを入れておいた。それで終いだ。メビウスを抜け出した後でまで底辺のゴミどもに取り入る謂われはない。
一方で永至は詩帆宛に個人メッセージを送った。
いかにも女が好みそうな言い回しを用いて飾り立ててやった文章は、要件のみを取り出すと「田所を殺すのに手を貸せ」といった内容となる。
イカレた楽士が現実を崩壊させるなどと戯言をぬかしたせいで、田所の件は有耶無耶になってしまっていた。単純に優先順位の問題だ。帰るべき現実がなくなってはどうすることもできない。社会のゴミを消すくらいはどうとでもなる。現に、弁護士時代の伝手を使い、幽体離脱症候群の発症者とその収容先のリストが近く手元に届く予定になっている。
そして、詩帆からの返事はなかった。
数日、苛立ちを募らせながら待ったが、待っているという状況そのものが永至の怒りを沸騰させなお煮え滾らせた。
あのクソアマ、どういうつもりだ? 現実でも協力すると自分から言い出しておいて、この俺を待たせやがって。待ては犬がやるものだろうが!
永至は約束を守ることに固執する性分ではない。彼こそ息をするように嘘をつき、笑いながら約束を破る人間だ。しかし、己が踏み躙られる側に回るのは我慢ならない。誰かの頭を踏みつけ、その上に立つのは、必ず永至でならなければならない。部員たちへの嘲りがそのまま跳ね返ってきたのを認めるわけにはいかなかった。
詩帆の所在はあっさりと判明した。
駒木詩帆は彼女の本名であり、メビウスで教えられた連絡先にも嘘偽りはなかったのである。詩帆の発症期間は比較的短く、とうの昔に退院して元の生活を送っているらしい。
つまり、帰宅部のWIREには故意に返答しなかったということだ。
永至はすぐさま手を回して、素知らぬ顔でつつがなく日常を謳歌している詩帆を目の前に引きずり出してやることにした。
多少法に触れようが構いやしなかった。
いつか詩帆に説いてやったように、社会のルールとは、人間が集団生活を送るための便宜的な処置に過ぎない。そんなものは彼の行動を阻む理由にはならない。これまでも永至は思いどおりにしてきたし、うまくやってきたのだから。
……知らず、右手の指の腹を擦り合わせていた。
詩帆が意識を取り戻す気配は一向に見られない。永至は己の新しい癖を自覚して手のひらを広げてみる。現実においては忽然と鞭が現れることはない。
こればかりはいささか不便だな、とはじめてメビウスを恋しく思う。もちろん、あんなイミテーションの世界には未練も思い入れもなにひとつ持ち合わせていないのだが。
水でもぶっかけてやろうか、いや、フローリングやカーペットが傷むのはいただけない。とかく詩帆を連れてくることにしか考えが至らなかったが、今後はそういう部屋を作ってもいいだろう。そうこう考えているうちに、ようやく詩帆のまぶたが動いた。
そうして瞳が開いても、詩帆はしばらくぼんやりとしていた。メビウスの彼女はどんな時でもきびきびと動いていた印象があって、そんな様子は永至の目に珍しく映る。
虚ろな視線が辺りをさ迷い、やがて永至を捉える。途端、詩帆はハッと起き上がった――起き上がろうとして、手足が思うさま動かなかったらしい、惨めに床に這いつくばった。重たい身体、見知らぬ部屋、彼女を見下ろしている男、それらを認識してか、じわじわと顔が青ざめていく。なかなか胸のすく光景だった。
「やぁ部長君、実に久しぶりだ。いや、はじめまして、と言った方がいいのかな」
永至は背もたれから身を起こし、組んだ手を膝の上に置いた。喉の奥から笑いが込み上げてくる。我ながら声が弾んでいるのがわかる。
「君は現実でも余計な手間をかけさせてくれるね。犬は呼ばれたら、すぐに主人のもとに馳せ参じるものだよ」
「……琵琶坂先輩?」
呆けたように呟く詩帆。
その間抜け面を見て、永至は己の顔を撫でる。現実のこの面貌は、メビウスにいた彼よりも十六年の月日を多く刻んでいる。今はあの架空の高校の制服など着用していないし、髪型だって違う。なるほど、すぐに永至の正体に思い至らないのも道理かもしれない。
「ああ、そうさ、僕だ」
と、そう告げるやいなや、緊張を漲らせていた詩帆の目元が和らいだ。強張っていた身体が目に見えて弛緩し、ほっと安堵の息まで吐く。
永至は表情を消した。
次いで椅子から立ち上がりざま、詩帆を蹴り飛ばす。同時に、強い雨音のようなけたたましい音が撒き散らされた。詩帆の腕には鞄の持ち手が絡まっており、蹴った拍子に金具が外れて中身が散らばったのだった。
構わず踏みつけて歩き、仰向けに転がった詩帆の横腹に今度はつま先を捩じ込んだ。堪えきれずに上がる苦悶の呻きが耳に心地よい。
「ハハハ! 痛いだろう、苦しいだろう? だが、じきに好くなるとも」
安堵、安堵だと?
笑いながらも、胸中には憤怒の嵐が吹き荒れていた。詩帆は怯え、恐れ、打ちのめされているべきだ。でなければ、それは永至への叛逆である――誰にも理解されえない理屈は、けれども彼の中では、パズルのピースが嵌まるよりも確かに噛み合っている。
なおも身を起そうとする詩帆の肩を突いて倒す。彼女の両脇の床に手をつき、脚の間に膝をねじ込む。女を屈服させるのに、これほど手っ取り早く効果的な方法はなかろう。特にこうすると決めていたのではなかったのだが、行動に出てみると、これ以上しっくりくるものはないように思えた。
「精々いい声で鳴いてくれよ、部長君――」
「琵琶坂先輩」
……この状況にそぐわない、落ち着いた声色だった。
先刻まであったはずの苦痛も、ましてや恐慌などは露ほども含まれていない。メビウスで聞き慣れた、帰宅部部長がする仲間への呼びかけだ。
詩帆は慈しみの情さえ感じる柔らかなまなざしで自らを組み敷く男を見上げ、手に持った封筒をかざしてみせる。
「これ、何だと思う?」
宛名のない、特徴のない封筒。永至には見覚えがないものだ。詩帆の持ち物だろう。
鼻先に突き付けられたのを鬱陶しい思いで叩き落とす。封がされていなかったらしく中身が滑り出てくる。見るつもりもなかったが、それは自然と視界に入った。
写真だ。ひどく色味が悪い。暗視カメラ。知った場所と知った顔がはっきりと映っている。 田所だ。田所興起が弓野宅に放火する現場の――
「あの馬鹿が! 役立たずめ!」
悟った瞬間、思わず罵倒が口をついて出ていた。即座に拾い上げてぐしゃぐしゃに潰してやっても、気が晴れようはずがない。
「よくもこんなものを……クズは言われたことも満足にできないのか!?」
「きれいに撮れているでしょう。人からもらったんだけど、欲しいなら先輩にあげるね」
いかにも思いやりに満ちたふうで詩帆が言う。反して、じっと観察するように永至を見つめる眼。永至は真下にいる詩帆の襟を力の限り掴み上げた。
「ベラベラうるせぇんだよ! いいか、俺を見下ろすな!」
「えぇ……変なの。見下ろしているのは先輩の方なのに」
ほころんだ唇から、ささやかな笑い声がこぼれる。佐竹笙悟が面倒ごとをぼやいた時に、彼女はよくそんな顔をしていた。
他にも、巴鼓太郎がはしゃいで仕切りたがった時もそうだ。柏葉琴乃が淑やかな笑顔で毒を吐いた時、響鍵介が空回りの発言をした時、篠原美笛が買い食いをせがんだ時、神楽鈴奈が大声を張り上げた時、守田鳴子が写真を撮り始めた時、峯沢維弦が素っ気ない返事をした時、天本彩声が男子部員にきつく当たった時、アリアが鍵介や鼓太郎たちとじゃれ合っていた時……しょうがないなぁとでも言うように彼らに向けていたのと、そっくり同じ笑い方だった。
写真には元のデータがあるはずだ。詩帆が持っているのか、撮った人物の手元にあるのか、はたまた別の人間か。次第によっては、永至の身はやがて破滅するだろう。だがそんなことよりも、覆い被さる男を見下す詩帆の視線が永至の神経を逆撫でした。
「やめろと言っているだろうが!」
「ねぇ、琵琶坂先輩。そんなに怖がらないで。大丈夫、私はね、先輩のこと悪いようにはしないよ。ちゃんと可愛がってあげる」
こちらの連絡を無視したのは詩帆だ。永至を蔑ろにしていたくせに、よくもいけしゃあしゃあと言ってのける。
「――だって先輩は、私のことを探して、見つけ出してくれたんだから」
ふと、深い井戸を覗き込んでいるような錯覚に陥った。
いくら石を落としても、水の跳ねる音が聴こえることはない。彼を映す詩帆の瞳の奥には何もない。
永至が詩帆に近付いたのは、それが現実世界への近道になると判断したからだった。アリアや部員たちの信頼が篤く、デジヘッドに対抗しうるカタルシスエフェクトを使いこなせる人間。彼女と共にいれば、労せず帰ることができようという打算があった。
では、詩帆を頼れるリーダーとして慕っていた帰宅部の彼らは? 損得の計算尽くだったのだろうか? いいや、理屈ではなく感情ばかりを振りかざしていたあの連中は、およそ底辺らしく、大した根拠もなしに妄信していたに違いない。
少し考えれば、馬鹿でもわかるだろうに――
スカートのまくれた脚が永至の腿を撫で、腰までの輪郭をなぞりあげて絡まる。詩帆はやはり笑っている。しかし、その瞳には常にはない熱がこもりはじめていた。乱れた襟元から覗く柔い肌、細い喉がわななき、緩やかな弧を描く唇がひどく優しくささやく。
「おりこうなわんちゃんには、ご褒美をあげないとね……」
――偽りまみれの理想の世界における品行方正な優等生が、メビウス中の人間と傍目にも異様な友情を築いていた女が、まともな性根をしているはずがないということを。
***
詩帆が目を覚ました時、琵琶坂の姿はどこにも見当たらなかった。
壁一面の窓はカーテンが開け放たれ、日の光が眩しい。見晴らしの良い景色。どうやらここは街並を一望できる階層らしかった。革のソファー、ガラス製のローテーブル、大型テレビ。家具が少ないながらもささやかな生活感はある。いきなり背後から頭を殴られ車に押し込まれるという熱烈な出迎えられ方だったので、彼の本宅ではないだろうと考えていたのだが、もしかすると出所後の新居なのかもしれない。
節々が痛む身体を押して起き上がる。と、その拍子に肩から布地が滑り落ちる。覚えのないシーツだ。めくってみると昨夜の痕跡がそのまま残っていて、あまりの惨状に思わず「わぁ」と声が漏れた。
まぁ、仕方がない。琵琶坂が甲斐甲斐しく女の世話を焼くさまは想像しがたい。シーツがかけられていたのは温情の一片だろう。
鞄がぶちまけられた床もそのままで、その中から携帯端末を見つけて拾い上げる。壊れている様子はない。バッテリーも十分残っている。……詩帆は笑ってしまった。
詩帆がこれで外に助けを求めるだとか、昨夜の証拠を残すだとか、琵琶坂はそんなことをこれっぽっちも考えていない。
信頼と表せば聞こえはいいけども、実際は慢心の類だろう。己は万能であるという揺るぎない自信が、他人に裏切られたり出し抜かれたりするという発想をさせない。相変わらず、かわいいくらいに迂闊なひとだ。
ひとまず電話を入れておくことにした。詩帆は帰宅の道すがら不自然に姿を消していることになるが、半日程度ならどうとでも誤魔化せよう。
何件かの通話を予想どおり問題なく終えると、WIREの通知が届いていた。
鈴奈だ。
無反応を貫いているにもかかわらず、帰宅部の皆からは今でも連絡が来る。鈴奈などは最たるもので、朝昼晩と毎日欠かさず呼びかけがあった。
メッセージを開く。既読に気付いたようで、矢継ぎ早に通知が飛んでくる。
『先輩? 詩帆先輩ですよね? 今、これを読んでいるんですよね? ちゃんと現実に帰っているんですよね? 今までどうしてたんですか!?』
うん。ちょっと連絡ができなくて……心配かけちゃったかな。
『詩帆先輩……先輩は、私がついてるって言ってくれたのに、私、先輩がいないとすごく不安で。怖いことばかり考えちゃって……先輩が入院している病院で何か起きたんじゃないか、アリアちゃんはメビウスはもうないって言うけど、もしかして先輩だけメビウスに取り残されていないかって……』
もう大丈夫だよ。不安にさせてごめんね、鈴奈ちゃん。
『そんな、謝らないでください。先輩にも、きっといろんな事情があるんですよね。なのに私ったら……でも、詩帆先輩が無事で、何もなくて本当によかった』
詩帆は、画面に表示された言葉の羅列を指先でなぞってみた。触れるガラスの感触はひやりと冷たい。
そう、詩帆には何もない。
メビウスで一度、琵琶坂に面と向かって「手の内が見えない」「底知れない」などと評されたことがある。そうではない。見るべき中身が何もないだけだ。
感情がないわけではない。意思がないわけでもない。ただ、詩帆には誰もが持っているように見える、心の真ん中に通る芯がない。
だから、帰宅部の部長として頼られれば皆をまとめて現実に帰ろうとしたし、ソーンに楽士の役目を与えられればLucidとなって現実への帰還を妨害した。グラン・ギニョールであの時、棗飛鳥が詩帆に選択を委ねず乞うていたなら、詩帆はきっと何度もそうしたように部員たちを裏切り叩きのめしていたはずだ。
μはおそらく詩帆の願いを叶えてくれた。
おそらく、というのは、メビウスに堕ちてからあの入学式で「卒業」を迎えるまでの記憶が詩帆にないからだ。μは空っぽの詩帆に中身を与えてくれていたに違いない。でも「卒業」した瞬間それは根こそぎ失われた。おそろしいほのど喪失感だった。衝動的に体育館を飛び出したほどに。
それからの詩帆は懸命に中身を埋めようとした。帰宅部の部長になって、楽士のLucidになって、いろんな人と知り合って、みんなの悩みを聞いて、協力して、慰めて、叱って、励まして、共感して……
そうして現実に戻った時、詩帆はやっぱり空っぽだった。
何も変わらない。いや、一度は満たされたせいか、よりいっそう洞は深まっている。だから詩帆は帰宅部のグループWIREに反応できなかった。現実に帰ったことで、現実を目指すという目標は永遠に喪われた。詩帆にはもう何もなかった。
ひっきりなしに届くメッセージの隙をうまくつき、鈴奈との会話を切り上げる。次の約束を取り付けたら彼女は案外すんなり引いてくれた。
詩帆の「帰還」は間もなく他の部員たちにも伝わるだろう。
アカウントを切り替えると、赤いホーム画面が表示される。快く写真を渡してくれた彼にも礼を言っておかなくてはならない。
詩帆はゆっくりシャワーを浴びてから、悲惨なありさまのリビングを片付けた。汚れものは洗い、大きな冷蔵庫を開けて朝食まで摘まんだ。
これだけ勝手に振る舞っていても家主は現れない。ひょっとして詩帆を置いて出かけたのだろうか。いや、廊下の向こうにまだ覗いていないドアがあった。
「――あ、いたいた、琵琶坂先輩」
そこは書斎のようだった。
この部屋に限らないことだが、物が少ないのはやはり出所してから揃えたからだろう。モノトーンで統一された品のよいインテリアはどこか不完全さを感じさせる配置であり、壁際の書棚にはところどころ空白がある。
急ごしらえの書斎で、琵琶坂は机に向かっていた。仕事用なのか眼鏡をかけ、手にした書類を険しい目つきで眺めている。そして目を上げて詩帆を視界に入れると、あからさまに気疎しそうな顔をした。
構わずにドアを背にして、詩帆は言葉を続ける。
「先輩がいなかったから、勝手にお風呂使っちゃった。あとタオルとか着替えとか、他にもいろいろ」
「好きにするといい。ガキじゃないんだ、いちいち報告するな」
「……琵琶坂先輩、何でそんなに機嫌悪いの?」
「脅迫してきた相手を機嫌よくもてなす人間を、僕は寡聞にして知らないね」
「脅迫って、あの写真のこと?」
思いがけない言われように詩帆は瞬く。
琵琶坂は書類を乱暴に机に投げ出し、眼鏡を外して椅子にもたれた。空いた手で、指をすり合わせるような仕草をしている。メビウスではついぞ見たことがない癖だなぁ、と考えてから、カタルシスエフェクトを顕現させる時の動作だと気が付いた。
「だから、欲しかったらあげるって言ってるのに。それに琵琶坂先輩だって、あれだけ好き放題しておいて」
「その好き放題した奴の前に、君はのうのうと顔を出すのか?」
「まぁ、いつかは経験しておくものだし」
もうちょっと有効な使い方ができたら、もっとよかったんだけど。とは、心の中でだけ付け足した。わざわざさらに機嫌を損ねることもあるまい。
だいたい、詩帆のことを悪し様に言うが、ゆうべは琵琶坂だって散々楽しんだはずだ。「犬に突っ込まれて鳴かされるってのはどんな気分なんだ?」とか「今のお前の方がよほど犬らしいじゃないか、なぁ?」とかなんとか、めちゃくちゃノリノリだったくせに。
などと内心で不満を漏らしていると、
「詩帆」
と、琵琶坂が名を呼ぶ。
「……なに? 永至さん」
「もともとは君の不手際のせいだ。手伝いたまえ」
おや。なんだか、微妙に機嫌が直っている気がする。理由はさっぱりわからないけども、ともあれ、彼の気分の浮き沈みが激しいのは今に始まったことではない。主のお許しが出たので、詩帆は書斎机を回り込んで彼の斜め後ろに立った。
「アナログなもの寄越しやがって」
琵琶坂は吐き捨てて、先ほど置いた紙束を手の甲ではじく。肩越しに覗いてみると、何かのリストのようだった。人の名前がずらりと並んでいる。それと、住所。病院名。
「これ、たぶん田所は載っていないと思う」
「……なんだと?」
やはり、幽体離脱症候群の患者の情報か。どうやって入手したのやら、真っ当なやり方ではなさそうだ。椅子を軋ませて振り返る琵琶坂に、詩帆は微笑みかけた。
「あの人、もう死んでるから。メビウスで」
詩帆を見つめるまなざしが、にわかに薄暗さを増す。
「いつだ」
「えっと、ランドマークタワーに行った後くらいかな」
太陽神殿に閉じ込めていた田所に手を下すのは大した手間ではなかった。みんなはソーンの宣言と笙悟の過去に気を取られて、μはおかしくなって、梔子は復讐に目が眩んでいて、誰も詩帆の行動に注意を払っていなかったから。
いや、そうでなくたって、気が付いた人はいなかったかもしれない。みんながみんな、自分のことで手いっぱいで、詩帆の事情になんて興味がなかった。
「そうか。……そうか、死んだのか」
琵琶坂が立ち上がる。
突然の挙動に反射的に後ずさった詩帆の肩を、彼は掴んだ。詩帆が応える前に、手加減なしの力でそのまま薙ぎ倒され、机に背中を押し付けられた。
「わっ、痛っ……」
電気スタンドがけたたましく倒れる。耳元で書類の束がぐしゃぐしゃとよれる音。眼鏡やペンや何かの小物が背に食い込んで痛い。メビウスの中でだったら、簡単に躱せるし押し勝つこともできたのだが。残念なことに、ここは理想の世界とは程遠い。
「馬鹿の証言があっても俺を有罪にできるか怪しいんだ。なのに、当の本人がいないんじゃあなぁ。ハッ、死人に口無しか」
琵琶坂は楽しげに口元を歪めている。鞭の似合うしなやかな手が蛇みたく詩帆の首を絞めつけてきた。のしかかってくる身体が詩帆に抵抗を許さない。
「あの写真がお前の切り札か? あの程度で俺を陥れた気になっていたのか? なぁ、言ってみろよ。その話を俺にしたら、どうなるかわからなかったわけじゃないだろ?」
「……どうなるの?」
詩帆は掠れた声で笑う。
「教えてよ、琵琶坂先輩」
メビウスで帰宅部唯一の大人として振る舞っていた琵琶坂は、しかし顔立ちにまだ幼さを残していた。こうして現実の彼と面影を比べてようやく気付ける程度、ほんの僅かに。
今の琵琶坂永至はうんと大人だ。
手を伸ばして、精悍さを増したその顔にそっと触れてみた。振り払われない。琵琶坂の両手が塞がっているせいだろうか。彼がしようと思えば詩帆の首は簡単に折れてしまいそうだが、まだ猶予は残されているらしい。それをいいことに、さらに指を滑らせて、記憶にあるよりも暗い色をした髪に差し入れる。
「私は、どっちでもいいよ。どっちでも変わらないから。ご褒美がほしい? おしおきがしたい? ねぇ……永至さんが好きなほうを選んでみて?」
目線の先で、喉仏が上下した。
どろどろと何かが渦巻く瞳が、灼けつくほどに詩帆を貫いている。奥を暴かれて空っぽの部分に注ぎこまれる。そうして詩帆はやっと詩帆のかたちがわかる。
詩帆は地獄に落ちるかもしれない。でも、それは今のこの現実と何が違うのだろう? 理想の楽園はもうどこにもないのに。
自然と浮かぶ微笑を湛えて、詩帆は琵琶坂の答えを待った。