羊を数える代わりに
いやな夢を見た。永至は息を吐いた。夢の内容はすでに遠く霞んでおり、手繰ろうとする前に消失してしまう。しかし砕いた硝子片を呑まされたような、ざりざりとした不快感だけはいつまでも拭いきれずに残されている。
苛立ちに任せて乱暴に髪をかきまぜながら、時計の針を確認する。蛍光塗料が闇の中でぼんやりと浮かび上がっている。妙な時間に目を覚ましてしまった。
ふと首を巡らすと、隣で女が寝ていた。
目を凝らせば白いシャツと、色素の薄い髪が見て取れる。穏やかな寝息、呼吸に合わせてゆるやかに揺れる肩。こちらに背を向けて横たわる詩帆は、表情は窺えないながら深く寝入っているようだった。
永至は、他人の体温があまり好きではない。
二人で寝室を使う頻度はさほど高くなく、詩帆を置いてさっさと就寝することがほとんどで、そうでない場合はいつも適当に追い出していたはずだ。いかに邪険に扱われようが詩帆は己のペースを崩さないし、取り立てて抵抗しない。いくら記憶を辿ってみても、現在の状態に至った経緯は思い出せなかった。
……まぁ、どうでもいいことか。
胃の腑に刺さる硝子片を持て余しながら、永至はしばし彼女の規則正しい呼吸の音を聴いていた。手持ち無沙汰に詩帆の側頭部や耳のかたちを視線でなぞっているうちに、呑気に寝こけていやがるな、と腹立たしくなってきた。だいたい、永至の存在を歯牙にもかけないとでも言うような体勢が気に食わない。
肩を掴んで引き寄せる。詩帆の薄っぺらい身体は難なく向きを変えた。そこまでしても詩帆が覚醒する気配はない。
暗く頼りない視界の中で、おぼろげな輪郭を指先で確かめてみた。閉じた瞼、鼻梁、唇、頬のライン、柔らかい髪が手の甲に触れている。普段、掴んだり叩いたりはしても、こうして撫でるように触れることはしない。珍しいものを目の当たりにした思いで指を滑らせる。もう一方の腕を肩から後ろに回す。女らしさの乏しい身体つきは最近ようやく肉がついてきた気がする。
硝子のざらつく感触は、いつの間にか溶けてなくなっている。
永至はもう一度時計を確認した。寝直すには事足りる。腕の中のぬくもりを抱えなおし、目を閉じる。
***
詩帆は夜中に目を覚ました。
包まっているシーツがいやにあたたかい。寝返りを打とうとしたが叶わない。正面から脇の下、背中にかけて、何かが巻きついている。それが共寝している琵琶坂の腕であると気が付いた時、詩帆は「わぁ」という驚愕なのだか感嘆なのだかわからない声を上げかけ、すんでで呑み込んだ。
びっくりした。うん、珍しい。というか、こわい。いったいどんな天変地異が起こったらこんなことになりえるのだろう。よほど機嫌が良かったとか? 何かあったかなぁ。
詩帆はもちろん、飼い主と犬という現在の関係をより良いものにしていきたいと思っている。そのため眠りにつく前の記憶をあれこれ探ってみたが、特に思い当たる節はなかった。
暗闇でも線がわかるほど至近距離にある、琵琶坂の寝顔をつくづく眺めてみる。
普段からどうにも隠しようのない他者を蔑む目つきは、しかし今だけは瞼が閉じられているせいで測れない。下ろした髪は少し乱れていて、実年齢よりもやや若く見える。メビウスの彼がこうしている姿も見ておきたかったかもしれない、その機会は永遠に失われてしまったけれど。
好き勝手な感想を抱いているうちに、詩帆は心配になってきた。……このひと、多方面から恨みを買っているだろうに、こんなに油断していて寝首をかかれないのだろうか。
五年も寝たきりだったわりに引き締まった腕を解くのは難しそうだった。詩帆は琵琶坂を起こさないように、慎重に手を伸ばす。琵琶坂の喉、骨の出っ張りを撫でる。まだ起きない。親指を当て、首を包み込むように手のひらをいっぱいに広げる。
あとは、力を込めるだけだ。
琵琶坂は最中にたまにこうしてくる。わんちゃんになってと頼んでみた気軽さで琵琶坂の真似を試みた詩帆は、己の胸のうちに湧き上がってくるものがあるかどうかじっと観察する。しばらく待ってみても、いつまでも心は動かない。
案外長い睫毛だとか、生えかけている髭だとか、乾いた唇だとか、ひとつずつ数えているうちに、早々と飽きがきてしまう。せめて、今、目が開くといいのに。念じたところで彼の瞼はぴくりとも震えない。
諦めた詩帆は手を解き、改めて元の位置に収まった。明日も早く起きないと。琵琶坂より先に起きなければ床に叩き落とされるに違いない。
今度は起きている時に試してみようかなぁ。楽しい想像と滅多に味わえないぬくもりは、詩帆に安らかな眠気をもたらした。頬をすり寄せ、目を閉じる。