feeding time
かつて理想の楽園において、詩帆は皆の親友だった。詩帆の名を知らぬ者、詩帆が名を知らぬ者はいない。蜘蛛の巣のごとく綿密に張り巡らした交友の輪。かかった皆は等しく詩帆に秘密を差し出し、詩帆は余さず腹に収めた。
一種病的とも言える――医師であれば詩帆の行動を何か現代病理の枠に当てはめたかもしれない――収集癖の対象は、帰宅部の中でも浮いた存在であった琵琶坂永至とて例外ではない。「本当のことを教えるとは限らないよ」などと嘯いていた彼だったのだが、WIREで明かしてくれたプロフィールは偽りではなかったらしい。そう、嘘は真実の中に混ぜるものだから。
現実で迎えた三月十五日、詩帆は彼に贈り物を手渡した。
「誕生日おめでとう、永至さん」
「……ああ」
琵琶坂はいかにも億劫だという態度を隠さずそれに応じた。ぞんざいに包みを開けて中を一瞥した後、ポイとそのへんに放る。
わぁ、と詩帆は思ったが、面には出さないでおいた。詩帆の社会的身分にふさわしいものを用意したので、琵琶坂からすれば見劣りするだろう。彼は安物で妥協する男ではないし、生産過程に価値を見出す男でもない。屑入れ直行でなかっただけ良しとすべきか。
円滑な飼育関係を育むための責務を立派に果たした後、詩帆はリビングのソファーでのんびり寛いだ。
己の欲求を満たしてしまえば、琵琶坂は詩帆に構わない。詩帆はときおり――主に琵琶坂の機嫌が悪くない時には、居座って好きに過ごしている。琵琶坂も気分次第ではどこまでも寛容な男であるので、勝手に書棚を漁ろうと高そうなコーヒー豆を駄目にしようと、彼の独特な線引きを踏み越えない限りは咎め立てしてこない。
カップに口をつけながら雑誌をめくる。メビウスにいた頃から嗜みはじめたコーヒーは、今はもう不手際なく淹れられる。味や香りもずいぶんわかるようになった。小難しそうな雑誌はたまたま目についたのを持ってきただけで、内容に興味があるわけではない。記事の写真だけ眺めていると、書斎から琵琶坂が姿を見せた。
「出かける」
「あ、うん。行ってらっしゃい」
「…………」
……あっ。間違えた。
たちどころに氷点下まで下がった冷ややかなまなざしを浴びせられ、詩帆は己が線の向こう側を踏み抜いたことを悟った。
琵琶坂は、眼だけは凍りついた冷たさのまま、裏腹に口元にほのかな笑みを浮かべて詩帆のもとまで大股でやって来た。背をかがめ、肘掛けに手をつく。
「ひどいなぁ、君は……」
優しい囁きとともに、詩帆の顔に影が落ちる。琵琶坂の両腕に囲われ、背後にはソファーの背もたれがあって、吐息のくすぐったさから逃れる術はない。
「わざわざ誕生日を祝いに来てくれた女性を置いて出かけるような、そんな薄情な男に僕が見えるのかい?」
「ううん。ぜんぜん見えないけど……」
あくまで見かけだけを言うならば。
今しがたまでのように、詩帆が琵琶坂に放置されるなどしょっちゅうだし、なんなら出先で置き去りにされたこともある。そうやっていつも詩帆の存在を意に介さず気ままに振る舞う琵琶坂は、そのくせ詩帆が追従しないと臍を曲げるのだから――あぁ先輩ってば、本当にかわいいなぁ。
詩帆の内心を察してか否か、琵琶坂は薄暗い目つきになった。
「……僕は待たされるのは好きじゃなくてね。もちろん、君は知っていると思うが」
返答とて待たずに、荒々しく詩帆の襟首を掴んで立ち上がらせる。身を以て味わったことのある詩帆は先んじてカップは置いていたが、間に合わなかった雑誌が膝から滑り落ちて硬い悲鳴を上げた。床が傷付いていないといいのだが。
「待って、鞄を……あ、アウターも」
「待たせるなと言ってる」
ピシャリと遮られる。ほとんど暴力と呼んで差し支えない強引さで、視線も、思考すら逸れることを許されない。
途中、玄関でかろうじて爪先に靴を引っかけられたのは幸いだった。駐車場まで連れ出されて車の助手席に押し込められる。手加減なしにドアを閉められて、素早く引っ込めなければ危うく手足を挟んでいたところだ。
車が乱暴に発進する。
――予定は狂ったが、やむを得ない。ポケットを撫でると携帯端末の感触がある。素っ裸に剥かれて山奥に捨て置かれる以外の事態なら、何とでも対処できるだろう。詩帆はすんなり現状を受け入れた。
「どこに行くの? 永至さんの選ぶお店はハズレがないから、楽しみだなぁ」
運転席の琵琶坂は鼻で笑った。たとえば「先輩の性別は男ですよね」と尋ねても、同じ反応が返ってくるはずだ。
この男には、なにものかを操っている姿がよく似合う。
思って、整った横顔をつくづく見やった。ハンドルに置かれた手は、顔貌の優美さとは対照的に骨張っている。そういえば、指輪がひとつも嵌められていない。メビウスにいた彼とのいちばんの違いは年齢だろうが、他にも大きな相違点を挙げるなら、装いが格段に地味になったことだ。歳相応に落ち着いている、と言うべきか。
「何だ、詩帆」
琵琶坂から応えがあった。
正面を向いたままだから、表情ははっきりとは窺えない。けれど、先ほどと比べると打って変わって穏やかな語調。詩帆は彼が見ていないことを承知で首を傾げてみせる。
「……何も言ってないよ?」
「視線がうるさい」
「えぇー。静かにしてるのになぁ」
口を尖らせつつ、詩帆は素直に車窓の外へ目を移した。運転中に地雷原をうろつくのは得策ではない。
流れる市街の風景。車は詩帆には馴染みのない通りを走っていく。
到着したのは、服飾店だった。
まず詩帆が利用しない、そしていかにも琵琶坂が好みそうな、控えめながら洗練された雰囲気である。店に入った二人を品の良い店員が出迎える。スマートに応じる琵琶坂の隣で、量販店向きの詩帆はさすがに少し気後れを覚えた。
とは言え、詩帆は待つのはさして苦ではない。彼の用事が済むのを大人しく待っていよう。――などと殊勝に考えていたから、応接セットのある広いフロアに通された後、琵琶坂に背中を押された時には本当にびっくりした。
「今日は彼女に何着か見繕ってくれ。靴とハンドバッグ、あぁ、羽織り物もな」
「えっ。私の?」
「もちろんだとも。君の他に誰かいるのかい?」
こちらの背に手を当てたまま、ひときわにこやかに言う。第三者の目があるせいでもあろうが、詩帆の意表を突いた時、彼はだいたい上機嫌になる。
「えーっと、たぶん、ここだと私の支払い能力が足りないと思う」
「この俺がそんなせこいことを言ったことがあるか?」
たやすく語気を荒らげた琵琶坂は、けれどすぐさま上辺を取り繕って、大人が子供に道理を言い聞かせるようにゆっくりと語った。
「犬は好きだよ。飼い犬が投げたボールを咥えて戻って来たら、頭を撫でて骨をやるくらいのことはしてやるさ。僕は餌を惜しむつもりはないし、詩帆、実際これまでもそうしてきたじゃないか」
確かに、楽園と同じに、とまでは言わずとも、地獄に戻ってからも詩帆は彼のためにいくつかの働きをした。お褒めの言葉とともに食事を奢られたり小物を贈られたりしたこともある。しかし、この店でひととおり揃えるとなると桁が変わってくるはずだ。
「そうだけど、でも、今日は何も……」
店員はすぐ近くに控えている。年齢も身なりもちぐはぐな二人に対して好奇心をそつなく隠しているが、ここで引き際を見誤ると面倒なことになるだろう。
慎重に言葉を選ぶ詩帆の懸念をよそに、琵琶坂は鷹揚に言う。
「このあとは食事に行くつもりなんだが」
「うん? ……うん」
「君のその服装だと、入れる場所が限られてしまうだろう。……生憎、僕は大衆向けの店には疎くてね。上に立つ者としては底辺の感覚も知っておくべきだが、それは知識だけで十分だ、わざわざゴミを玩味するつもりはない」
始まってしまった琵琶坂のご高説を適当に聞き流しながら、詩帆は己の格好を改める。
言われるほどではないつもりなのだが。難を挙げるとすれば、気候にそぐわず寒々しいことか。でもこれは、支度を整える暇をもらえなかったからで……
「フォーマルウェアなんてどうせ先々必要になる。あって困ることもあるまい、いいから受け取っておきたまえ。まぁ気になるなら、せいぜい恩に着るんだな」
「……わかった。永至さんがそれでいいなら」
詩帆は観念して頷いた。私の手持ちの正装で一緒に出かけたら、このひとたぶん再逮捕されるしなぁ。という感想はうちに秘めておく。
店員に案内されて、試着室に入った。
着替えを終えて、王様のごとき態度で待つ琵琶坂に拝謁する。すると、いちいち色がどうのシルエットがどうのとうるさく注文をつけてくる。
スカート、ワンピース、ジャケットやボレロ、靴とアクセサリーに至るまで、何度となく試行する羽目になり、詩帆は早々に疲弊した。そもそも、琵琶坂の女の好みは琴乃や彩声のようなタイプだ。趣味と違う服を着るというのも、くたびれる要因に違いない。
「図書館を攻略するより疲れる……」
お目通りの回数も数えきれなくなった頃に、つい本音がこぼれてしまう。
しまった、これはスポンサーの不興を買う発言か。ソファーで尊大に構える琵琶坂は、詩帆の気まずげな面持ちに気が付いて、頬杖をつきにやりと口角を持ち上げた。
「おやおや。部長君ともあろう者が、弱音を吐くとは珍しいね。そんな調子じゃ、部員の皆に示しがつかないよ」
「図書館」の単語を拾ってか、十八歳の「琵琶坂先輩」の顔をして、戯言を口にする。今さら言うことではないが、そして詩帆に言えた義理でもないが、他人が参っているさまを愉しむ琵琶坂は性格が悪い。
「意地悪だなぁ。部長、先輩と代わってあげよっか?」
「はっ、あんな連中のお守りをするのはごめんだね」
ごっこ遊びに興じるのもすぐに飽きたらしく、琵琶坂は今度は大人の顔で言い捨てた。
紳士然とした風体の奥に隠した、蛇めいた本性を表す粘つく視線が、詩帆の脚を這っている。このスカートはフォーマルのわりに丈が短い気がする。いや、まぁ、吉志舞高校の制服よりは長いし、詩帆もそういうスタイルは好きだけども。
憔悴しきって妙に意識してしまう詩帆と違って、琵琶坂は悠然としている。気が長いとは決して言えない彼が、女の買い物に――詩帆が望んだのではないにしても――付き合う度量を持ち合わせていたのは意外だった。「待て」は嫌いだと言っていたくせに。
はたと疑問が浮かぶ。ふさわしい服が要るのなら、最初から用意してこいと命じてくれればよかったのではないか。……つまり何だ、こういうのが好きなのか。
「永至さんは、私が着飾ったりするのって、嬉しいの?」
ストレートに問うと、琵琶坂はわずかに目を見張った。
その表情はすぐに仮面の下に隠れる。詩帆が言葉を投げかけた時はだいたい笑うか怒るかなのに、あまり見たことのない反応だ。
答えが返ってくるまでに、若干の間があった。
「みすぼらしい女を隣に連れて歩きたがる男はいない」
「……なるほど」
ごもっとも。
しょうがないなぁ。あの二人のような清楚さや可憐さは持ち合わせていないが、今日は先輩の誕生日だ、妥協点を探すことにしよう。
気合を入れなおして、詩帆は待ちぼうけの店員を振り返った。
「すみません。それじゃ、次はそっちの青い方、試着させてもらえますか」
――普段のそれより何倍も長いショッピングがようやく終わった。
詩帆は最後に選んだ青いワンピースを身に着けて店を出た。
着てきた服は手に提げた紙袋に入っている。ひと揃えでは琵琶坂の気が済まず、他にも何セットかが選ばれて、そちらは自宅に配送されるらしい。金の使い方とは人によってこうも違うものなのか、と詩帆は変に感心した。
駐車場では車に乗る際、琵琶坂が助手席のドアを開けた。そこだけを切り取ると行きと同じ行為なのだが、正反対の真っ当なエスコートだ。
運転席に乗り込んできた琵琶坂は、キーを挿すことなく、首元のタイに指をかけて乱雑にくつろげた。急いたようなその所作に、おや、と思う。今からお堅い店に行くのではなかったか。
詩帆から尋ねるまでもなく、琵琶坂が言う。
「止めだ」
「はぁ……」
……ここまでしておいて。だが、彼がそう言うのなら従うまでだ。取り立てて食に執着はない。せっかく買ってもらったものがお蔵入りになるのはもったいないけれど。
「なら、戻って元の服に着替えさせてもらった方が……」
「そのままでいい」
琵琶坂は、店の方角を見やろうとした詩帆の頤を掴んで止めた。
無理矢理に視線を合わせさせられて、頬に指が食い込む。そのまま、親指が唇の端を撫でた。切れ長でかたちのよい眼、けれど爬虫類じみて執念深いまなざしが詩帆の顔のパーツを辿って下りていく。目、鼻筋、唇、喉、鎖骨、――さらにその下へ。
彼の頭の中で今、詩帆はどんな格好でいるのやら。
感情の機微に敏いはずの詩帆だが、どこでスイッチが入ったのか、琵琶坂の線引きはいまいちわかりづらい。しかし、とてもわかりやすい男だ。詩帆は笑ってしまう。これで、店内では紳士のように上品ぶっていたのだから。
「ねぇ、永至さん。ボールを持って来たら、頭を撫でてくれるんだっけ?」
二人のほかに誰もいない密室で、鼻先を突き合わせてまでいるのに、ことさら内緒話みたいにして声をひそめた。眉根を寄せて訝る琵琶坂に構わず、詩帆は続ける。
「じゃあ、『待て』のご褒美は、何がいいかなぁ……」
「おい、何を勘違いしてるんだ? いいか、それを決めるのはお前じゃねぇんだよ」
「うん、わかってる。先輩が決めて。いつもどおりに」
「……クソ女……」
言われるままに委ねたのに、琵琶坂は秀麗な顔を歪めて忌々しげに面罵した。心からの言葉を伝えているのだけど、彼は決まってそう受け取らない。でも、それならそれでよかった。詩帆はそんなものを得たいのではない。
性急な仕草で詩帆の後ろ頭に手が回り、センターコンソール越しに荒っぽく引き寄せられる。吐息が混ざり合う。むき出しの欲がぶつけられる。それだけでいい。
だって、ここでは他の誰も詩帆にはなにひとつ与えてくれない。だから腹が減って仕方がない。掴む糸もなく、詩帆は地獄の底に落ちていく。