幻想の日常

 大図書館の赤い絨毯を踏む。
 館内をさっと見渡してから親しんだ顔を見つけて、小春はそちらに足を向けた。
「……こんにちは、ウィザースプーン先輩」
 カウンターの内側、長身を折って腰を下ろしている学生に、そっと声をかける。セカンドクラスの制服に身を包んだ、細身の少女である。
「あら。こんにちは、須崎さん」
 ウィザースプーンは顔を上げて、薄い笑みを浮かべた。その拍子に、胸元を飾る十字架のペンダントがきらりと光を溢す。珍しく眉間に皺が寄っていない。小春はこっそり安堵の溜息をつくが――
「そんなに脅えなくても、いきなり技を食らわせたりはしないわよ? いくらわたしでもね」
 即座に見抜かれた。
「えっ! あ、すみません、その――」
 どきりとして、大きな声を出してしまった。途端、囁くように、けれど鋭い語調で注意される。
「図書館では、静かにね」
「……はい」
 小春はこころもち声を潜めて話し始めた。
「お薦めいただいた本、面白かったです」
「そう? ならよかったわ。自国の文化だから目新しいものではなかったかもしれないけれど」
「そんなことありません。日本のことでも、案外知らないことはたくさんありますし……でも、ちょっと内容がずれていた気もしますけどね、ZENモンドーとか」
「まあ、西洋人の著作ですからね。齟齬もあるかもしれないわ」
 そんな、二人の他愛のない会話を遮ったのは、けたたましく開いた扉の音と闖入者の高らかな声だった。
「――クローエ!」
 ぴく、と白いこめかみが動いたのを、小春は見た。ウィザースプーンは鬼のような形相で、しかし静かに立ち上がる。彼女はそれに気付いているのかいないのか、口上をまくしたてながら足早に近寄ってきた。
「ボンジュール! やあやあ、今日も図書館の女神は美しいな! 君の笑顔を見るだけでボクの心は雨上がりの空のように清々し」
「セイ――ッ!」
 跳躍し、そして裂帛の気合とともに下ろされたウィザースプーンの踵は、その細い体躯のどこにそのような力があるのかと小春が思わずにはいられないほどの重い音を響かせて、彼女の頭にめり込んだ。
 彼女は悲鳴も呻き声も上げることなく、その場に倒れ伏した。
「ウィザースプーン先輩……」
 予想しえたこととは言え、小春は真っ青になって絶句した。毎度毎度これだけの一撃を脳天に受けて、彼女の命に別状はないものだろうか?
 小春の敬愛する上級生は、乱れて頬にかかるブルネットをかきあげた。そして、ほんの少し目を伏せて、いつも見せる静かな微笑を口元に刻む。
「……須崎さん。静寂とは、神の教えの如く遵守されるべきものよ。ねえ、杏里」
 もちろん、床の上の彼女は返事をしえない。
 図書館の格闘王、クローエ・ウィザースプーンはこよなく静寂を愛するのだった。時には不法者に踵落としをかますほどに。

 そういうわけで、現れるたびに即絨毯に沈む彼女と、小春が初めて言葉を交わしたのは、随分後のこと――あの恐ろしい事件がすっかり解決してしまってからだった。





 小春は早足で教室へ向かっている最中だった。
 間もなく、始業の鐘が鳴る。
 廊下にはちらほらと学生の姿があるが、皆、立ち止まって談笑しているかゆったり歩いているかのどちらかである。遅刻しそうになっているのは小春だけのようだった。
 学園船H・B・ポーラースター、その廊下は全長千メートルの船体に見合った長さである。日本の小ぢんまりした校舎に慣れていた小春は、次の授業が居住区画から随分離れた場所にあるのをうっかり失念してしまっていたのだ。
 続く廊下は、まるで果てがないようにさえ感じられる。
 少々はしたないことだが、授業に間に合うためには駆け足になるしかない。時間を取るか品位を取るか――両者を天秤にかけて悩んでいると、
「ちょっと杏里、聞いているの!?」
 怒りを孕んだ大きな声が小春の耳に届いた。
 大きな青いリボンをした銀髪の学生が、ぷりぷりと腰に手を当てて仁王立ちになっている。ヘレナ・ブルリューカ、船内唯一の風紀委員だ。ここで小春が走り出せば、すぐに注意が飛んでくるに違いなかった。遅刻を免れるのはもう諦めるしかないらしい。
「もちろんさ、ヘレナ!」
 続いて聞こえた声も、覚えのあるものだった。舞台に立っている役者の言葉のように、大仰な響きである。
「ボクはいつだって、愛しい君の言葉に耳を傾けているよ」
 風紀委員の叱責を受けたのに、少しも堪えていないふうだ。と言うより、その発言は一体何だろう。すれ違いざまに、足を緩めてついまじまじとそちらを見つめてしまう。
 ――と、目が合った。
 アジア系の中性的な顔立ち、短い黒髪、おそらく船内に二人といないだろう制服を改造したパンツルック――彼女だ。
 このまま立ち去るのも失礼かと思い、小春は軽く会釈をした。
「こんにちは」
「ああ、こんにちは。ねえ……ボクたち、どこかで会ったかな?」
 しかし、彼女の方は小春を覚えていなかったらしく、ほんの少し眉根を寄せて難しい顔をした。
 小春は足を止めて応じる。
「はい、図書館で……」
「思い出した!」
 小春が皆まで言う前に、彼女はパチンと指を鳴らした。それから、小春ににっこり笑いかける。
「そうそう、いつもクローエと一緒にいるね。だったらキミの記憶がおぼろげになってしまっていたのは、悲しいけれど無理もない。何せ彼女の踵はまるで鉄槌のようだからね――ああ、何てことだ! こんな可憐な妖精との出会いを、今この瞬間まで忘れてしまっていたなんて!」
「は?」
 突然、彼女が額に手を当てて大げさに天井を仰いだので、小春は目を点にした。
「……アンリエット先輩?」
 呼びかけると、今度はぱっと顔を輝かせる。
「ワオ、名前を知ってくれているなんて、感激だなあ!」
「はあ、まあ……」
 勢いに押されつつも、小春は頷いた。
「アンリエット先輩は有名ですから――その、悪い意味ではなく」
 ぽろっとこぼしてしまってから、それが皮肉にも取れることに気付いて、小春は慌てて言葉を付け加えた。だが、逆にそれは小春が彼女の「よからぬ風聞」を知っていると露呈することになってしまった。
「……すみません」
「どうして謝るんだい? そのおかげでキミがボクという存在を少しでも心に留めておいてくれたと言うなら、これほど喜ばしいことはないよ」
「え……」
 笑顔のままそう告げられて、小春は驚いて彼女を見返した。
 それにしても、と彼女は続ける。
「先輩かあ、ちょっと堅苦しい呼び方だね。けれどつまり、その敬称が表すところは、キミはファーストクラス、ボクはセカンドクラス、キミはボクより年下ってことだ。そうだろう?」
「そうですけど……」
 学年によって制服のデザインが異なるのだから、そんなこと一目でわかるだろうに、何故わざわざ確認するのだろう。首を傾げながら答えると、途端に両手を握られた。
「トレビアン!」
「はっ?」
 思わず一歩引いた。が、その距離は彼女によってすぐに縮められてしまった。
「二人は運命に翻弄されて何度もすれ違ってしまったけれど、愛の神様はボクらのことを決して見捨てはしなかったんだね! ボクはキミとの出会いをやり直せた今日という日を、永遠に胸に刻むよ!」
 どうしよう、何を言われているのかわからない。
「…………えーっと……」
 小春が唖然としていると、
「もう、杏里ったら、彼女が困ってるじゃない!」
 呆れ顔のヘレナが横から助け舟を出してくれた。
「もしかして、授業があるんじゃないかしら? さっき急いでいたようだったから」
 言われて、小春はようやくそのことを思い出した。もう完全に遅刻だ。
「ええ、そう、そうなんです、ブルリューカ先輩。なのでアンリエット先輩、すみませんけど……」
 やんわりと体を離そうとすると、彼女は大人しく手をほどいた。肩をすくめるような仕種の後に、腕組みをする。
「ううん、そっか、名残惜しいなあ。時間ってやつはいつも愛し合う恋人たちを引き裂いてしまう……何て悲劇だろう! でも、ボクの愛はそんなものにはきっと負けやしないよ」
「はあ、頑張ってください」
 もう何と答えてよいのかわからず、半ば投げやりにそう応じる。
 すると、彼女は小春の目を見つめて微笑んだ。
「ウィ、もちろん。――おっと、いけない! 大切なことを忘れていたよ。別れる前にひとつだけ、聞いてもいいかい?」
「……私に答えられることでしたら」
「メルシー。当然、キミに答えられて、キミにしか答えられないことだよ。キミの名前を教えてほしいんだ。次に会う時にはボクから声をかけられるように。それに――」
 彼女は一旦言葉を切って、片目を瞑った。
「自己紹介って、いかにも出会いの日らしいじゃないか。――さ、ボクは杏里・アンリエット。キミの名前は?」
 小春はしばらく躊躇うようにしてから、自分の名を口にした。
須崎……須崎小春です」
小春! うん、キュートなキミにぴったりの、素敵な名前だ!」
 あまりにも直球すぎる褒め言葉だった。一瞬、呼吸を忘れた。
「……あ、ありがとうございます」
 自分でもおかしなくらいに動揺している。
 ――これ以上、先輩の言葉を聞くのはよくない。
 何故か、直感的にそう思った。それは予感だ。例えば噂にあるような彼女の異端さへの嫌悪などでは決してない、もっと別の何かが警鐘を鳴らしている。
「では失礼します、先輩方っ」
 小春は急いで二人に頭を下げると、返事も待たずに背を向け、逃げるようにその場を後にした。