落日、あかねさす
「よお、大将。ちょいと頼まれてほしいことがあるんだが――」縁側に座している主人の姿を見かけた薬研藤四郎は、しかし投げやった言葉をその半ばで呑み込み、口を噤んだ。
いつもなら姿勢正しくまっすぐに伸びている背筋が、今日はいやに丸まって、柱に寄りかかっている。これはと思い、短刀の隠密性を遺憾なく発揮して音もなく近寄ってみる。俯いた顔をそっと覗き込むと、予想どおり、その瞼は閉じられていた。
「……大将、居眠りか?」
応えを期待せず問いかければ、うーん、という返事なのだか寝言なのだかわからない声が返ってきて、思わず笑ってしまう。
幸い、そう急かすほどの用事ではない。
夕餉の刻限はほど近く、じきに誰かが呼びに来るに違いなかった。それまでの間くらいは、邪魔立てせず寝かせておくとしよう。
そうと決めた薬研藤四郎は、羽織っていた白衣を七桜の肩にかけてやった。眼前の庭は夏の風景を模してはいるとはいえ、日が落ちる時分に吹く風はやや冷たさが過ぎるのだ。
七桜の隣に腰を下ろし、あぐらを組む。庭の向こうでは、粟田口の兄弟や他の短刀たちが、一日の終わりを惜しむかのように駆け回って遊んでいる。そのうちの何口かが手を振ってきたので、こちらも片手を挙げて応じた。
七桜も、こうして皆を見守っているうちにうとうとしてしまったのか、もしかしたら彼らの遊びに付き合ってやった後で、身体を休めているところだったのだろうか。
暮れなずむ空。
夕陽に照らされ赤く染まった景色は痛いくらいに眩く、薬研藤四郎は目をすがめた。人の器とは不可解なものだ。
現し身を得てから初めて知ったこと。たとえば、ふとした瞬間に、訳もわからず芯鉄が締めつけられるような錯覚に陥ることがある。まさしく今、兄弟たちが楽しげに笑っている光景を前にしたとき。燃え上がるように赤い空を見ているとき。そして……
「おっと」
七桜が小さく身じろぎ、その拍子に身体が傾ぐ。
薬研藤四郎は咄嗟にその肩に腕を回して支えた。そのままもたれさせてでもやれればよかったのだが、短刀らしい体つきをしているこの身ではやや力及ばず、七桜はこちら側へずるずると横倒れになる。――ちょうど、薬研藤四郎の腿に頭を置く格好で。
素足にぺたりとくっついた七桜の頬は、先ほど危惧したとおり、少し冷たい。
軽く触れている七桜の指先、かかる息、流れる髪の感触。くすぐったさに膝が揺れそうになるのを堪える。この行き場のなくなった手を、果たしてどうしたものか。
すぐには反応できないでいるうちに、しばらくもぞもぞしていた七桜は、うまく頭の収まりどころを見つけたらしくまた心地よさそうな寝息を立て始めた。
「呑気なもんだなあ……」
……いや、迂闊なのか。
不意に苦しくなって、薬研藤四郎は己が息を凝らしていたことに初めて気付いた。芯鉄――心の臓というのかもしれない――が熱い。まるで、うちから何かがあふれてきそうなほどに。薬研藤四郎はそれが縁からこぼれ落ちてしまわぬようにと、そっと息を吐き出した。
ひとのかたちを取って初めて知った、物言わぬ刀であった頃には感じえなかったもの。
童にするように、七桜に頭を撫でられたとき。七桜との身の丈の差を実感したとき。逆に、七桜が釣り合いの取れる太刀や大太刀連中と一緒にいるのを見かけたとき。
今だって、誰が通りかかるともしれない場所で眠り込むなんて、何かあったらどうするのだろう。もちろん、この本丸にそんな不逞な輩がいないことは百も承知だが。
真面目なようでところどころ抜けている彼女の気質を、薬研藤四郎は好ましく思うし、支えてやりたいとも思う。できれば、普段からもっと気を張らずにいてほしい、とも。けれど、そうしてあどけない顔を晒すのは――
「……頼むから、俺の前だけにしておいちゃくれねえか」
夕陽に滲む七桜の輪郭を、閉じた瞼、鼻筋、顎、喉元と、順々に目でなぞる。どうしてかそれだけでは足らずに、薬研藤四郎は己の指先でも同じ道筋を辿った。いよいよ芯鉄の熱が苦しい。
庭の喧騒はすでに遠くに消え、誰の姿もない。
七桜を呼びにくる誰かが来るのも、間もなくだろう。潮時だ。
「そろそろ起きてくれ、大将」
呼びかけているにもかかわらず低く抑えた声になったのは、他の誰かに見られたくないと思うのと同時に、もう少しこのままでいたいという気持ちがどこかにあったからだろう。それで、どうせ聞こえていないのだからと、魔が差した。
「大将。……早いとこ起きねえと、襲っちまうぞ」
と――
囁いたあとの変化は、劇的だった。夕焼けの中でもはっきりわかるくらい、七桜の顔が真っ赤に染まったのである。
しまった。
「……大将」
薬研藤四郎は呻いて天井を仰いだ。
参った、いつからだ。膝に倒れ込んできたときには、間違いなく眠っていたはずだ。まあ、起きられていたとして、そこまで良からぬことはしていないし言っていない……いや、そうでもないな、うん。
ふつふつ湧き上がる途方もない羞恥にらしくもなく音を上げ、薬研藤四郎は心から乞う。
「頼む、大将。何とか言ってくれ」
「えっ、ええと……」
乞われるまま瞼を開けた七桜は、存外するりと言葉を発した。これは、ついさっき目を覚ましたというのではあるまい。しかし、七桜はきまりが悪そうに目線を逸らしつつも、いまだ薬研藤四郎の腿に頬を寄せたままである。
「その、でも、お、起きたくなくなってしまいました……」
「…………」
薬研藤四郎はちょっと考えた。そして、それの意味するところにじわじわと理解が及ぶと、今度こそあふれた末に発火するかと思った。
「……そういう……ことは、言わなくていい」
「は、はい……」
「あー……また今度、な」
……うっかり要らぬことまで告げてしまった。
それきり応えがないのでちらで視線を落とすと、七桜は寝転がったまま白衣に顔を押し付けて煩悶している。
薬研藤四郎も、ここが自室で誰の目もなければそのくらいしていたかもしれなかった。代わりに力いっぱい額を押さえたら、手のひらが縁に当たって眼鏡がずり下がった。
おそらくふたりとも、この空に負けないくらいの色に染まっているに違いない。
けれど、先ほど感じた苦しさなど少しもない、どこかつかえがとれたような快い熱さだった。やはりひとは不思議だ。
誰か、来るなら早く来てくれと、先までとは打って変わって思う。日が落ちきる前、頬や耳まで上ってきたこの熱が、夕焼けに紛れているうちに。