午睡、たゆたう

 重たい瞼を持ち上げるとき、微かな違和感があった。その正体を探る暇もなく、七桜の意識は急速に浮かび上がっていく。
 畳の匂い。どこか遠くから聞こえる鳥の声。まだぼんやりと霞む視界には、今はもう木目の模様まで覚えてしまった見慣れた天井と、そして、
「よお、大将」
 儚げな容貌の少年――もっともそんな印象は、降神が成功し彼が第一声を発した瞬間にどこかに吹き飛んでしまったのだが――の顔が、逆さに映り込んでいる。粟田口兄弟揃いの戦装束ではなく、白衣を着込んだ薬研藤四郎だ。
「ちょいと邪魔してるぜ」
「…………薬研さん?」
 ぼうっとした頭でその名を音にした途端、不意に七桜は違和感の元を悟った。いつもの朝よりも、外がずっと明るい。
 寝過ごした……!
 慌てて飛び起きた七桜を、けれどすぐさま強烈な目眩が襲った。咄嗟に手をついてやり過ごそうとしても、上体を起こした姿勢から動けなくなってしまう。
「無理はするなよ、大将。ほら、大人しく寝てな」
「えっ……あの、薬研さん? 私……」
 肩を押し返され、七桜は戸惑いつつも、されるがままに敷布団に背中をつけた。
 ゆっくりと息を吐く。落ち着いて状況を分析してみるに、どうやら熱があるようだ。枕に頭を置いたらいくらか身体が楽になったが、七桜を中心に床がぐらぐら揺れているような錯覚がいつまでも止まない。
「覚えてないか? 大将がいつまでも起きてこねえって、加州が様子を見に来ただろ?」
 そういえば……
 七桜はだんだん思い出してきた。夕べは、どうも気分が優れず早めに床に就いたのだった。ところが一晩経っても具合はよくならず、むしろ悪化している気配がある。起き上がれない七桜を見て、加州清光が彼を呼んでくれたのだろう。
 七桜は申し訳なさでいっぱいになる。審神者として、彼らのお世話をする立場であるにもかかわらず、面倒をかけてしまった……いや待て、そもそも、七桜にはお役目があるではないか。のんびり寝ている場合ではない。
「あの、薬研さん――」
「炊事や洗濯なら、堀川国広が代わりにやってるぞ」
 逸る気持ちで口を開きかけた七桜を、薬研藤四郎は遮って言った。出鼻をくじかれた七桜は、瞬きをして彼を見る。
「他にも、そういうのが得意な奴らがな。内番は滞りなし、お上から大将宛ての文はなし、あちらさんの動きもなし――どうだ大将、ちったあ休む気になっただろ?」
 してやったとでも言わんばかりに、にやり、薬研藤四郎は口の端を持ち上げる。気がかりを残らずすべて先回りして答えられたら、七桜はぽかんとするしかない。
「……な、なりました」
「よしよし」
 薬研藤四郎は満足げに目を細めた。
 次いで、彼が弟たちをあやすのと同じように頭を撫でられる。「あ、あの……」「ん、どうした?」、純粋に聞き返されて、七桜は迷った挙句に、布団を口元まで引き上げて黙してしまうことにした。不快なわけでは決してない、身体が弱っている今ではむしろ逆だけれど……中身はさておき、外見だけなら遥かに年下の少年にそうされるのは、なかなか複雑なものがある。
 差し込む日の角度からして、もうじき正午を回るくらいだろうか。慣れ親しんだ自室とはいえ、こんな時間に褥から見渡すと、何だか知らない部屋にいる気分になってくる。
「そういえば、清光さんは?」
「ああ、病人の近くで騒ぐから、追い出しといたぞ」
 さ、さらっと言うなあ。
 七桜の感想は、口に出さずとも伝わったらしい。薬研藤四郎はちょっと眉根を寄せた。
「いや、大将。大将はそんな顔するがな、本当に大騒ぎだったんだ。珍しく、大和守安定も一緒になってなあ」
「あ……」
 そうか。そうだ、あの二人は、元の主を……
 七桜の自己管理が至らないばかりに、いらぬ心配をかけて、悪いことをしてしまった。
 薬研藤四郎がただの刀として生きた時代は、二人のそれとは五百年ほど隔たりがある。それでも、七桜の様子から何かを感じ取ったのか、刀の終わりの時勢にも知見があるのか――彼は穏やかに言い添えた。
「ま、早く治して、元気な顔を見せてやってくれ」
「……はい」
 七桜が頷くと、薬研藤四郎はいつもつけている黒の革手袋を外しだした。どうしたのだろう、と七桜が眺めていると、七桜の額にぺたっと素肌の手のひらが乗せられる。
「うん……朝より下がっちゃいるが、まだ熱があるな。今日一日は安静にしてな」
 ひんやりと冷たくて、気持ちがいい。七桜が火照っているのもあるし、あるいは刀剣男士は人よりも体温が低いのかもしれない。心地よさに目を閉じかけた七桜だったが、言われて、ふと薬研藤四郎を見やる。
「そうしていると、薬研さん、お医者様みたいです……」
「おう。雅なことはよくわからんが、この手のなら多少は心得がある」
 いつもはかけていない眼鏡の縁を、革手袋をした方の手で押し上げ、いくらか得意そうな調子の薬研藤四郎だ。
「後で粥でも持ってくるよ。薬湯も一緒に出すから、苦くてもちゃんと飲むんだぞ」
「……お医者様じゃなくて、お母さんですね」
「おいおい、そりゃあねえだろう」
 薬研藤四郎は苦笑を漏らした。
 額に宛がわれていた手が離れていく。七桜はそれを名残り惜しく視線で追いかけ――と、すぐにまた戻ってきて、今度は目にかかる前髪を払ってくれた。
 本丸はいつも騒がしいが、今日はしんと静まり返っている。もしかすると、七桜がゆっくり休めるように人払いをしてくれでもしたのだろうか。
 居心地の悪い静けさではない。ここのところ出陣続きで忙しなかったから、こんなふうに、ゆったりした時間の流れを感じるのは、久方ぶりのことだ。
「ちょうどいい機会だと思って、たまにはゆっくりしてくれよ。大将」
 と、薬研藤四郎も七桜と同じことを考えていたらしい。常ならば「そういうわけにはいかない」と否定していただろうところを、七桜はすんなりと受け入れた。
「薬研さんがこうして甘やかしてくれるなら、たまには、悪くないかもしれません……」
「心外だな。俺っち、大将を甘やかしてしかいないぜ」
「ふふ、それもそうですね。いつも、ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃあねえが……」
 七桜が微笑を向けると、彼には珍しいことに、言葉尻を濁してあちらを向いてしまった。七桜はそれを寂しく思う。七桜の髪を梳く手は止まらないでいてくれたけれども……
 薬研藤四郎の手に大人しく身を任せているうちに、七桜ははたとあることに思い至った。
 ……さすがに、体温が低すぎやしないか。肌で触れ合っているのではなく髪に触れられているだけなのに、指先の冷たさが伝わってくるのである。
「薬研さん、もしかして、寒くはないですか?」
 七桜はだるい身体を起こし、あたふたと言い募った。薄いシャツに白衣、半ズボンでは、彼の方が風邪を引きかねない。人のかたちを取った刀剣男士は、病を得ることだって十分にありうる。
「私、熱のせいか、ちっとも気が付きませんでした。何か羽織るもの、は、ないですね。確か、膝掛けの毛布が……」
「いや、俺は何ともない。それより大将、無理に起き――」
 すっかり動転した七桜の耳には、薬研藤四郎の静止も届かない。さらに思考能力が絶賛低下中の七桜は、目につくところに暖を取れるようなものがないと知ると、熱がなければ絶対に思いつかないようなことを思いついてしまった。
 暖かいもの――七桜のいる布団があるではないか。
「あ、お布団。一緒に入りますか?」
「……………………大将」
 たっぷりの間を置いて、薬研藤四郎は彼の主を呼んだ。呆れやら何やらを大いに含んだ声音にも、熱にやられた七桜は気付かない。
「あ、でも、そんなことをしたらうつってしまうかもしれませんよね」
「そういう……」
 薬研藤四郎は何かを言いかけて止め、次に天井を仰ぎ、それから盛大に溜息をついた。「わかった、わかった」、適当に相槌を打ち、布団をめくってもうひとりぶんの空間を用意してみせる七桜を丁重に押し戻し、元どおりに肩まで布団をかけてやるまでする。
「大将。心細いんなら大将が寝付くまでここにいてやるから、余計なことは考えるなよ」
「そ、そういうわけでは……それに、余計ではないと思うんですが」
「いいから、寝た寝た」
 七桜はあっという間に言い包められ布団に詰められた。
 布団の上からぽんぽんと叩かれるさまは、弟たちをあやすようにどころか紛うことなくあやされている。まあ……こういうのも、たまにはいいかなあ。七桜はうつらうつらしはじめて、やがて深い眠りの中に落ちていった。


 ……七桜の規則正しい寝息が聞こえる頃になると、薬研藤四郎は彼女がよく寝入っていることを確認してから、その場にあぐらをかきなおし再びの大きな溜息をこぼした。
 思い返すのはつい先ほどの、彼の大将の問題発言である。
 これでも、大将よりはうんと年嵩なんだがなあ……このナリじゃあ、無理もねえか。
 短刀であるこの身は、童と呼んでほとんど差し支えない姿をしている。薬研藤四郎の兄弟たちも同様で、大体は中身も相応に幼い。彼らは無邪気に主を慕い、七桜七桜で、目をかけて可愛がっている。
 七桜にとっては、それと同じようなものなんだろう。さっきのは。
 ひとりでは答えの出ないことをいろいろと思い巡らした後で、けれども帰するところ、まあいいか、と薬研藤四郎は結論付ける。
「……大将が素直に甘えてくれるなら、そう悪くない役どころだしな」
 その呟きを聞きつける者は誰もいない、ゆるやかな午後のことだった。