雫ひとひら
雨が降っていた。あらゆる時代へと通じるこの本丸には、規則的な時間の流れというものが存在しない。四季の移ろいから天候に至るまで、すべて審神者が操ることができるのだ。
ただ、それではあまりにもということで、朝昼晩や晴雨の移り変わりくらいは自然に近い仕組みとなっている。出陣や帰城のタイミングが悪天候と重なったときには、申し訳ないが、刀剣男士たちには運がなかったと諦めてもらうしかない。
そんなことを思いつつ、重たい雲が糸雨を垂らすのを見上げていたら、やがて本日の運がなかった彼らが帰ってきた。
「……戻った」
「あっ、お帰りなさい、骨喰さん。鯰尾さんも」
「はい、戻りました! もー、大変でしたよ。帰り道がぬかるんで」
真っ先に飛び込んできたのは、粟田口派の脇差二口だった。門からここまでを雨に降られたにしては、ひどいくらいにびしょ濡れだ。続いて、「ただいまー」「今帰ったよ」、大和守安定と石切丸が玄関をくぐる。彼らも同じように濡れ鼠である。七桜は慌てて用意していた手拭いを差し出した。
「皆さん、これ使ってください」
「ありがとう、七桜ちゃん。向こうでも急に降り出してさ、まったくついてないよ」
「祈祷が足りなかったのかもしれないね。ほら、今日は途中で切り上げて出陣しただろう」
「ええ……いや、うーん。どうだろ」
何でも得意分野につなげてしまう石切丸に、大和守安定はちょっと呆れた様子だ。
「石切丸さんのアレ、いつも時間ギリギリまでやってるからなあ」
「待っていたら日が暮れる……」
と、脇差たちまで辛辣な感想を囁き合っている。
七桜はつられて苦笑したが、いつまでもここで話し込んで身体を冷やしてはいけない。お風呂の準備はできていますからね、と彼らを促したところで、おやと思った。一緒に出陣したはずの和泉守兼定と堀川国広が、まだ姿を見せていない。
戸口から顔を出してみると、ちょうど二人が軒先に辿りついたところだった。
「お二人もお帰りなさい」
「ああ。……ほらよ、七桜。今回の成果だ」
告げるなり、和泉守兼定は荷を押し付けてくる。
ありがとうございます、と七桜が礼を口にしている途中で、和泉守兼定は七桜と目を合わすことなくふいと顔を逸らし、さっさと板の間に上がって行ってしまった。いつもなら、もっと――そう、自信家らしく誇らしげに戦果を報告してくるのだが。彼がどんな表情を宿していたか、七桜には窺う間すらなかった。
常ならば和泉守兼定に添う堀川国広は、けれど彼を追っていくことはしない。代わりに、ほのかに浮かべた笑みを七桜へと向ける。
「すみません、主さん。兼さん今ちょっと……僕が、余計なことを言っちゃって。よかったら、あとで様子を見にいってくれませんか?」
「はい、それはもちろん」
もとよりそうするつもりでいたから、構わないのだけども――七桜はしばし考えて、今は雲に隠されている青空のような、澄んだ色をした彼の瞳を覗き込んだ。
「……堀川さんは、大丈夫ですか?」
小さく息を呑んだ堀川国広、それと同時に、
「大丈夫ですよ、七桜さん! 堀川には俺らがいますもん」
鯰尾藤四郎が彼にほとんど飛びつくようにして、その肩に手を回す。勢いをつけすぎたせいで、足をよろめかせた堀川国広は戸の枠に頭をぶつけている。
「ね?」
「うん、……そうだね」
しかし、彼らにはそんなことは些事だったようだ。ややぎこちないながら、堀川国広は笑顔で頷いた。
「よっし、風呂! 風呂に行こう!」
「……背中を流してやろう」
「あ、ありがとう」
粟田口の脇差に両脇を固められ、連行されていく。
「――僕も行こうっと」
大和守安定もそれを追い、「鯰尾が入ったあとだと湯が減ってるんだよね」と言い訳めいたことを口にしつつ履物を脱いだ。
「主、これは私が運んでこようか」
七桜の抱えていた資源の荷をひょいと取り上げたのは、石切丸だ。
「えっ、いえ、石切丸さんもお疲れでしょう、皆さんと一緒に」
「このくらい平気だよ。……それから、主」
七桜が言いさしたのを、石切丸は笑みで遮った。
「そう気を落とすものじゃない。私たちは使い手があってこそだ。もちろん、奉納されているのも悪くないけれどね」
「石切丸さん」
あまりに明朗に言い切るので、七桜はちょっと救われた気持ちになった。今日、歴史修正主義者の軍を討つために彼らを向かわせたのは、維新の時代、函館の地であったから。
――和泉守兼定は、渡り廊下の端に佇んでいた。腕を組み肩を柱に預け、ぼんやりと雨が降る庭を眺めている。
擁する刀剣男士が多いぶん、本丸は広い。誰と顔を合わせることなく過ごそうと決めたなら、実現させるのはそう難しくないはずだ。見つけられてよかった、と七桜は安堵して、彼に近付いた。
「濡れたままだと風邪を引きますよ」
「引かねえさ。人間じゃねえんだからよ」
こちらの存在にはとうに気付いていたのだろう、七桜が背後から声をかけても和泉守兼定は平然と応えた。
「兼定さん。今日は、ありがとうございました。……それと、ごめんなさい」
和泉守兼定は決して振り返らなかったが、七桜をいないものとして扱っているのでもない。そのことに勇気づけられながら、七桜は言葉を継ぐ。
「辛い選択を、させてしまいましたね」
「……アンタが謝ることじゃねえ。譲れねえんだろ」
「はい」
「じゃあ、堂々としてろ」
彼の声に問いかける響きはなかった。七桜にしても、問われるまでもないことだった。たとえ今いる彼らが敵に回ったとして、七桜は与えられた役目を果たさなくてはならない。
七桜や彼らが遡行軍を討ち果たすことで、助かる命はたくさんあった。そして、歴史どおりに失われていく命も……何を選び取るのが正しいのか、その選り分けは、もはやひとの領分ではないかもしれない。
「私は、私が正しいと信じる行いを為します。兼定さんの選択は、私の信念を支えてくれて、私の生きる時代を救ってくれました。ですから本当に、感謝しているんです。でも、兼定さんの決断に見合うものを、お返しできなくて……」
そこで、七桜は口をつぐんだ。謝ることではない、と言われたのだから、これ以上の謝罪は逆に失礼だろう。七桜にはただこうして、言葉を尽くすくらいのことしかできない。
「んなこたねえよ……」
和泉守兼定は、ぽつりと言った。少し掠れた声だった。
こんなときでも、和泉守兼定は七桜を気遣ってくれる。付喪神としての若さからか元の主の影響からか、彼は容姿のわりに――太刀らしく大人びて整った容姿のために余計に――短慮な言動が目立つ。けれど、どうして、その実は思慮深い。
ふと、七桜が見つめている先の広い背が震えているような気がした。咄嗟に手を伸ばしかけたが、原因を作った七桜が今それをするのは許されるだろうか。中途半端に上がった手を下ろし、代わりに、七桜は言う。
「兼定さん、私も、ここにいてもいいですか?」
「……好きにすりゃいい」
和泉守兼定はちらと七桜を見やり、またすぐに庭に視線を投げた。七桜は彼の隣に立ち、それに倣う。雨はまだはらはらと降り続いている。小さな嗚咽も、今しがた七桜が垣間見たこぼれる雫も、雨がぜんぶ隠してくれるだろう。