祈り、明星、届いたら

 今、このときほど、主に与えられた現し身を疎ましく思ったことはない。
 普段は思いどおり、軽やかに動く加州清光の手足は、今は鉛のように重たく、別の生き物みたく感じられた。崩れた前髪がたびたび視界にかかるのが鬱陶しい。それを手で払うのも、何度目かになって億劫になり、もう放ったままでいる。
 かろうじて敵の一団を退けた第一部隊は、自軍の被害の大きさを鑑みて、帰還を図ることになった。一戦には勝利したものの、大局を見れば敗北である。
 中でもひときわ重傷なのが、敵陣に特攻し多勢を相手取っていた加州清光だった。
 気付いた次郎太刀が敵を薙ぎ払い退き口を作ってくれなければ、まず間違いなく折れていただろう。……道中、失態を思い返すたびに、加州清光はぼろぼろになってしまった刀の鞘をきつく握り締める。
 歩くのも覚束ない有様を見兼ねて、他の刀剣が手を貸そうとしてくれたのを、加州清光は断固として拒否した。
 七桜のもとまで、報せはすでに届いているはずだ。本陣で迎えてくれるであろう七桜に、この姿以上の不様を晒したくない――正直に断りの理由を告げると、相手からは溜息が返ってきたが。
 そうやって虚勢を張っていないと、立っていることすらできそうになかった。
 本心では、これから主の前に出ることになるのが、ひどくおそろしい。敵の猛攻を受け身体の芯から冷えるような危機を感じたときよりも、目と鼻のほんのちょっと先に、死の――付喪神たる己に死という概念は存在しないけれど、他ならぬ七桜が呼び覚ましたこの心が現世から消失することを、他に何と表せようか――気配を察したときよりも、何よりも。
 だって、今のこの姿の、醜さはどんなものだろう。
 可愛くしていられなかったら、捨てられるかもしれない。
 それは、加州清光を常に捕らえて離さない、呪いのように付き纏う不安だった。普段はつとめて何気なく振る舞うようにしていても、ふとした拍子にむしょうに怖くなる。
 そんなとき、大和守安定は決まって呆れたり馬鹿にしたりするけども、でも、それはあいつが捨てられたことがないからできることだ。……そう、七桜にまで捨てられたら、俺はどうしたらいいんだろう。
「――清光さん!」
 不意に耳に届いた呼び声に、俯けていた顔を上げた。
 まさか――陣営まではまだ距離がある。けれど、その姿を見間違えようはずがなかった。薄暗い山中にはふさわしくない衣裳で何度もつんのめりながら、転がるように野道を駆け下りてきた七桜がそのまま飛びついてきたのを、咄嗟に受け止める。危うく七桜ごと後ろに倒れ込みそうになったが、かろうじて踏みとどまった。
「清光さん、清光さんっ。無事ですよね、生きてますよねっ?」
「……うん」
 七桜のあまりの必死さに気圧され、頷く。こうもすぐ近くにいて、どうしてそんなことを尋ねるのだろうか。
「よかった。よかった……本当に……」
 七桜はこちらの困惑など少しも目に入らない様子で、加州清光の頬を両手で挟み、ぬくもりを確かめるようにしてさする。伏せた目から次々に溢れてこぼれるその雫を、加州清光はとてもうつくしいと思う。
 それに比べて――
「手が汚れるよ、七桜。着物も……」
「……そんなこと、気にしませんよ。それに、私の刀に触って、どうして汚れるんですか?」
 いつか彼女に言ったのと、そっくり同じ言葉を返された。それでも、こんなみっともない自分をまっすぐ見つめてくる七桜のまなざしに、痛みさえ覚える。
「手入れしてさ、また可愛くなったら、七桜は……」
 顔を背けようとしたが、両頬を包み込む七桜の手のひらがそれを許さない。仕方なく、視線だけ逃げるように下げる。
「俺のこと、愛してくれる?」
 と、問うた瞬間――
「今だってあいしてます!!」
 ごちん、と目の前に星が飛んだ。加州清光は今度こそ転げ、しりもちをついた。じんじんする額を押さえ、呆然として見上げた先で、
「今度そんな馬鹿なこと言ったら、ぶちますからね!」
「もうぶってるじゃん……」
「ぶってませんっ、頭突きです!」
 泣きながら、わりとむちゃくちゃを言う。
「……熱烈だねえ。妬けてしまうよ」
 事の次第を見守っていたにっかり青江が、息を切らしている七桜の肩に手を置いた。「まあ、そのくらいにしておいてあげなよ。彼、一応は怪我人だから」、自分だって怪我人のくせして、そんなことを嘯く。
「青江さん……」
 七桜ははたと皆を見回した。それで少しは落ち着いたのか、涙を拭い、呼吸を整えると、一転して静かに口を開く。
「皆さん、申し訳ありませんでした。今回のことは、戦況を読み違えた私の責任です」
 深々と頭を下げる七桜
「こんな一言で済ませられるとは思いませんが……今は、皆さんの手入れを優先させてください。責はそのあとで必ず受けます」
 そう七桜が言い終えたあと、刀剣同士、互いに顔を見合わせた。視線を交わしただけで、皆、同じことを考えているとわかる。最初に、薬研藤四郎が言った。
「大将。誰も、大将のせいだなんて思っちゃいねえさ」
「そうそう。今回は、ちょっとばかり運が悪かったね」
 にっかり青江が同意すると、山伏国広が大口を開けて笑う。
「いくさもまた、修行である! 勝ち負けは些事であると心得られよ、主殿」
「……些事、でしょうか」
 そろそろと面を上げた七桜は、戸惑っているようだった。答えを求めるように、宗三左文字を見やる。この場で最も辛辣な意見を述べるとしたら、それは彼だろう。
「僕は、あなたの辛気臭い顔を見るために帰ってきたわけじゃありませんよ」
 宗三左文字は、しかし、おそらく七桜が予期していたのとは別方向の皮肉を口にした。
「戦場で朽ちたとて、それは刀の本分でしょう。……鳥籠の中で無駄に生きながらえるよりは、ずっといい」
「ちょっと~、不吉なこと言うなぁ」
 次郎太刀が不満げに口を尖らして、宗三左文字の背を叩いた。
 嵐みたいな一閃、宗三左文字はたたらを踏むくらい大いによろめき、振り返って「……乱暴はやめてもらえますか」と嫌そうな顔をする。よれてしまった着物の衿をこれ見よがしになおすのも、次郎太刀は意に介さず、七桜に語りかける。
「手入れするにも、支度があるんだろ? 加州ちゃんはアタシが連れてったげるから、アンタはそっちを早いとこ済ませちゃいなよ」
 言うのと同時に、加州清光は軽々と担ぎ上げられた。
「うわっ……おい、離せよオカマ!」
「えー聞こえな~い」
 加州清光はぎょっとして手足を振り回したが、次郎太刀の着物の脇腹のあたりがぱっくりと裂け、中から大きく抉れた傷が覗いているのが見えて、動きを止めた。
 七桜も察知したらしく、慌てて寄ってくる。
「次郎太刀さんっ、でも、次郎太刀さんも怪我を……」
「だーいじょうぶ、酔ってれば痛くないもーん。だから、お酒の用意もよろしくぅ!」
 本当に痛みなどないかのように、次郎太刀はけらけら笑う。加州清光には、自分が身動ぐたびに、支えている次郎太刀の腕が強張るのがわかるのに。
 七桜はちょっと笑おうとして、でも失敗したようだった。次郎太刀の肩の上にいる加州清光をそっと見上げる。目が合うと、また泣きそうになっている。
「……皆さん、ありがとうございます。本当に――すぐに支度しますから、もう少しだけ、頑張ってください」
 一礼し、急ぎ踵を返す七桜のあとを、「大将、俺っち手伝うぜ」、比較的傷の浅い薬研藤四郎が追っていった。皆もそれぞれ、陣営へ向かって歩き出していく。いつの間にか夜がそこまで近寄ってきていたが、本陣の篝火が、ぼんやりと行く道を示していた。
 加州清光は力を抜いて四肢を投げ出し、しばしの間、大人しく刀にして米俵の気分を味わった。
「なあ、次郎太刀」
「はいはーい。なーに?」
 可愛くしていれば、使ってもらえる。捨てないでいてもらえる。愛してもらえる。加州清光にとって、それは曲げようのない真理だ。
 ……けれど、今、知りたいことの答えはそこにはない。
「主を泣かせないためには、どうすればいいんだよ」
 七桜が、加州清光のために流してくれた涙を思い出す。とてもきれいだったけれど、うれしいと感じたけれど、同時に、それ以上に、ひどく胸が締めつけられるような気がする。
「……そうだねえ。今よりも、もーっと強くならなきゃねえ」
「うん……」
 顔を上げれば木々の合間から、まだ夕焼けの残る空と、早くも現れた星が瞬いているのが見えた。加州清光は腕を伸ばし、とうに爪紅の剥がれてしまった手で掴んでみる。手のひらを開いてみても、そこには何も掴めていない。この手は何にも届いていない。今はまだ。