手のひらの距離

 視線というものは、ときに言葉よりも雄弁である。
 先ほどから、首筋のあたりがちくちくして仕方ない。七桜はそうと悟られないようにそっと溜息をつき、文机に筆を置いて後ろを振り返った。
 へし切り長谷部が、畳の縁にぴたりと沿うようにして正座している。背筋を伸ばし、白手袋をはめた両の手をきちんと膝の上に置くその姿勢は、「この報告書が書き上がったら次のお仕事をお願いしますから、待っていてもらえますか?」「はっ、主命とあらば」のやりとりの後、七桜が彼に背を向けたときから一分の変わりもなかった。
 ……しまった、言い方を間違えた。七桜は後悔する。
「あの、」
「はい、主。何なりと」
 打てば響く返事には、あからさまに喜色が滲んでいる。だが申し訳ないことに、七桜が今から口にしようとしているのは、彼の待ち望んでいる主命ではない。
「長谷部さん、待つばかりではお暇でしょう。終わったら呼びに行きますから、それまで好きに過ごしてもらって――」
「いえ、お気遣いには及びません。主が待てと言うのなら、いつまでも」
「ならせめて、もうちょっと……寛いだりとか」
「滅相もない。主が執務している間に、俺だけが楽をするわけにはいきません」
「じゃあ、えっと……」
 提案をことごとく、しかも食い気味に圧し斬られてしまっては、七桜はしどろもどろになるしかない。次の言葉を探して困っていると、七桜をまっすぐ見据えるへし切長谷部の紫電の瞳に、ふっと愁いの影がよぎった。
「……俺がここにいては、主の邪魔になるでしょうか」
「え! いえっ、決してそんなことは」
「では……」
 こちらの心中を窺うような、それでいてどこか縋るようなまなざし。
 そのさまは、体つきや立ち居振る舞い、日頃の言動も人となりに至るまでまるで違うにもかかわらず、なぜだか七桜の初期刀を彷彿とさせた。しかも、絶対に七桜が断れないお願いをしてくるときの。
 ……連想しただけで挫けてしまうとは、自分はどこまで彼に甘いのだろうか。自問しつつ、七桜はあえなく降参することにした。もともと、腹芸の類は得意ではない。
「長谷部さん――この前、重傷を負ったばかりでしょう」
「そう、ですね。主がすぐに手入れをしてくださったので、もう問題はありませんが。……その節は、ご迷惑をおかけいたしました」
「迷惑なんてことはありませんよ! 長谷部さんが無事で、本当によかったです。ただ、しばらくは大事を取ってゆっくりしてもらいたくて」
 本当は、へし切長谷部をはじめとする第二部隊の全員は、出陣も内番もすべて免除して、休んでもらうつもりだったのだ。
 しかし、へし切長谷部は何かにつけて主命にこだわる。たとえ非番であっても、雑事を見つけてはこなし、ひたすら動き回っているのが常だ。休みを与えても、今回もきっとそうするだろう――内番の表を更新するときに他の刀剣からそう指摘を受け、ならばいっそ近侍にして、仕事量を調整してやるのはどうか、という結論に至った。もっとも、こうして本人にネタばらしをした時点で、失敗なのだが。
「なるほど、そういうことでしたか。主を煩わせてしまい、申し訳ありません」
「そんな、私こそ……いつも長谷部さんに頼ってばっかりで。こういうことくらい、もっとさりげなくできればよかったのですけど」
「気になさらずに。臣下が主のために尽くすのは当然のことです。俺は休まずとも平気ですが――いえ、主の命とあらば」
 万事抜かりなく休んでみせましょう。そう告げるへし切長谷部は、先まで浮かべていた悲痛さはどこへやら、今はもう得意顔になっている。
 ……休むときくらいは、主命は忘れてほしい。だからあえて命じることはしなかったのに。いや、だけど、全力で休暇を満喫する彼というのも見てみたい気もする。想像して、七桜はつい笑ってしまった。
「……主?」
「いえ……そうだ、私も休憩にしますから、ご一緒してもらえますか?」
「はい。お付き合いいたします」
 最初からこう言った方が、へし切長谷部には覿面だったかもしれない。
 さて、ではお茶にしようかと立ち上がる。今は急務を抱えているのでもない。へし切長谷部も勇んでその後をついてきた。
 厨に行くと、燭台切光忠がいて、手製したという菓子を出してくれた。
 燭台切光忠には普通に休暇を与えていたはずだが――通りすがった庭先では同田貫正国と獅子王が手合わせをしていたし、第二部隊の休息率に七桜は頭を抱えたくなった。まあ、とは言え、料理は休日にも嗜むものか。
 はい、と差し出された盆は、七桜が手を伸ばす前にへし切長谷部が受け取った。別にこのくらい自分で持つのに、大体において彼は荷物持ちに徹しようとする。
「食べ終わったら、感想を聞かせてくれると嬉しいな」
「それは、もちろん。あ、光忠さんもよければ一緒に……」
「ああ――いや、遠慮しておくよ。後が怖そうだから。ね、長谷部くん」
 あと? つられてへし切長谷部を見やれば、なんというか苦虫を噛んだような顔をしている。七桜の前では絶対にしてみせない表情だ。現に、七桜の視線に気付いて彼はすぐに平静を繕った。
「光忠、主の御前だ。要らんことを言うな」
「はいはい。じゃ、主、またね」
 ひらひらと手を振られ、言及する機を逃してしまう。盆を持つへし切長谷部もあまり触れられたくなさそうにしているので、七桜は首を傾げながら来た道を引き返した。
 へし切長谷部が近侍を務める日(公平にローテーションを組んでいるはずなのに彼のその頻度は妙に高い)には、約束のこともあって、ともに茶を喫することが多い。検非違使が出現して以降は慌ただしかったため、最後にそうしてから随分と間が空いてしまったけども。
 場所はもっぱら、日当たりと景観の良好な縁側だ。
 七桜も彼も多くを語るタイプではないから、会話をしているよりも無言でいる時間の方が長くなってしまいがちである。ただ、沈黙は気まずい類のものではない。へし切長谷部が本丸にやって来た当初のことを考えれば、心地よい静寂を共有できるようになったのは、あの頃よりもいくらか距離が縮まった証ではないだろうか――
 などとつらつら考えて、七桜は思いきって、かねてよりの疑問を率直にぶつけてみた。
「長谷部さんは、私といるとき、無理をしてはいませんか?」
「は、いえ……無理も何も。主の刀として、主命を果たすことが俺の本分です」
「あっ、そうではなく、いえ、そちらも心配なのですが。言葉遣い、とか」
「言葉遣い?」
「はい。皆さんとは、もっと砕けた喋り方をしていますよね。私といて、窮屈ではないかと思いまして」
 先ほどの、燭台切光忠への態度がそうだ。今朝も、にっかり青江には容赦ない言葉を存分にぶつけていた。つまり忠義の刀へし切長谷部は、同僚に対しては口が悪い。それでいて仲間たちとは険悪な雰囲気というわけではない、つまりは自然体だということだろう。
 七桜は刀剣男士たちの主ではあるも、恭順を強いることはしたくない、できれば彼らにはありのままでいてほしい。だから、
「ちょっと、寂しいなって。私も、他の皆さんと同じように仲良くできたらいいなあと……」
「……他の者と、同じように、ですか」
 へし切長谷部はぽつりとこぼしたきり、口を閉ざした。
 しまった。
 本日二度目の後悔である。
 へし切長谷部にとってはおそらく、七桜の言葉は七桜自身が考えるよりもずっと重いのだ。不用意なことを告げてしまったせいで、彼の中で、臣下はこうあるべきという理想と、主命を果たすべきという義務感とがせめぎ合っているのかもしれなかった。
「すみません、急に変なことを言って。長谷部さんは、私にだけ特別だって考えたらいいんですよね。そうしたら、嬉しいかも……」
 フォローのつもりだったのだが、言いながら、七桜は三度目の後悔に呑まれつつあった。へし切長谷部の元主らは歴史の偉人中の偉人だということに、今さら思い至ったからだ。この言い方では、そこに己を加えているようで、いかにも不遜ではないか。
 語尾が萎んでしまい、そろそろと彼を窺う。すると、へし切長谷部はちょっと目を細めて七桜を見ていた。
「ここには、好き勝手にしている我の強い者が多いですから。俺くらいは規律を重んじるのがちょうどいいでしょう」
「あ、そ、そう、ですね……?」
 あとから、笑んでいるのだと気付く。どうやら七桜の発言は、危惧したふうには受け止められなかったようだ。そしてへし切長谷部の「我の強い」枠には、彼自身は含まれていないらしい。びっくりした。
 不意に、へし切長谷部の視線が横に流れる。と、賑やかな声、足音。予定していた刻限よりも早いが、市中へ出陣していた部隊が帰還したのだろう。
「ああ、連中が帰ってきたようです」
「……連中」
 七桜は思わず、彼の言葉を口の中で繰り返した。たとえばこれが同田貫正国なら何とも思わないだろうけども、へし切長谷部が言うと、そのカソック姿も相俟って非常に際立つ。
 やっぱり、ガラの悪い方が地なんだろうなあ……
「出迎えにいきましょうか。――主、お手を」
「あ、ありがとうございます」
 さっと先に立ち上がったへし切長谷部が、手を差し伸べてきた。別段手を借りずともよいのだけど、七桜は彼の手のひらに手を置く。……こうしている間は、少なくとも、いつもより手のひらひとつぶんだけは彼に近付いているわけだ。
「主? どうされました」
 いつまでも動かない七桜に、へし切長谷部は訝しげに問う。
 それで、七桜ははっと我に返った。な、なにか、今、ものすごく恥ずかしいことを考えてしまったのでは。自力ですっくと腰を上げた。
「えーと、すみません、では、行きましょう、長谷部さん」
「主、もしや、どこかお加減が……?」
「いえっ、な、何ともないです、本当に」
 あまりのいたたまれなさに、あらん限りの早足で表へ向かう。しかしへし切長谷部はちっとも労する様子なく七桜の隣を歩き、しきりに顔を覗き込んできたので、手を取っていなくても十分にいつもよりほど近い距離であった。