つまさきに口づけを
歴史修正主義者らを食い止めるにあたり、審神者たる七桜に与えられた土地は広い。なにしろ名称を「本丸」という。七桜や刀剣男士たちが寝起きする陣屋、鍛刀を行う工房、刀装を作るための社に加え、戦に必須の馬を収容する厩や、さらに日々の糧を賄う畑まで存在する。これらをぽんと用意してもらえるのだから、歴史改変の由々しさや、審神者の重責も窺い知れようものだ――
引き締められる気持ちになって、七桜は長い廊下を歩く。
数日に一度の本丸の巡回は、遠く時代を跨いでからこちら、七桜の慣わしとなっている。何も視察のためだとか、あるいは散歩のためだとかではない。内番が回ってくるたびに、加州清光が忽然と姿を消すからである。
「あっ、清光さん、こんなところにいたんですね」
「……あーあ、見つかった」
日当たりのよい一室で寝そべっていた加州清光に声をかけると、彼はのそりと起き上がった。それから、大きなあくびをひとつ。
「何か用?」
そう問うてぞんざいに胡坐をかく加州清光の、そばの畳に両膝をつき、七桜は彼と目線を合わせて応じた。
「はい。今日は内番で、清光さんが畑仕事の日ですよ」
「あー、あれね。俺、汚れる仕事、いやなんだよなー。爪紅だって剥げるだろ?」
「そこは……ええと、我慢していただくよりほかはないのですが」
手をひらひらさせてみせる彼の爪には、本体である刀剣の鞘と同じ色をした、艶やかな紅が差されている。七桜などよりもよほど綺麗に手入れされている指を荒れさせるのは、確かに忍びないけれど……さて、今日は何と言って説得しよう。七桜は腰を据えるため、裾を払って正座に座りなおす。
が、七桜隊の特攻隊長の一撃の方が速かった。
「だいたいそんなの、刀の仕事じゃないよなあ」
「おっしゃるとおりです……」
そこを突かれるとぐうの音も出ない。
七桜ひとりではとても本丸を維持できないため、持ち回りで仕事を振ってやってもらっているのだが、もともと彼らは刀剣で、さらに言えば付喪神、神様だ。今日までバチが当たっていないのがおかしなくらいだと、我ながら、今さらながらに思う。
「でっ、でもでも、中には喜んでやってくださる方もいますよ」
「……それって、誰のこと」
七桜が苦し紛れの言を放った途端、加州清光の声音が低くなった。
膝の上で頬杖をつき、むすっとした顔で七桜を睨む。それまで気怠げではあったものの、決して厭った様子はなかったのに、急に険しい視線をぶつけられて七桜は戸惑った。
「ええと……」
「陸奥守吉行?」
「あ、そうですね。吉行さんは畑仕事も楽しそうです」
「……あんな暑苦しい刀と一緒にされても困る」
「今日は吉行さんじゃなくて、安定さんと一緒ですから。仲がいい同士でやると、ちょっとは楽しいかもしれませんよ?」
「別に仲良くないし。つーか、さっきから何で他の刀の名前ばっかり出すの」
加州清光は完全に臍を曲げたようで、そっぽを向いてしまった。
元主と因縁のある刀剣を持ち出されたから腹を立てたのかと思いきや、相棒たる大和守安定に対してもこういう反応だということは、どうやら見当を外したようだ。
加州清光は、何も本気で内番を嫌がっているのではない。さもなければ、わざわざ七桜の居室に近いこの部屋に陣取っていたり、障子を開け放しにして見通しをよくしていたりもしないだろう。ただ単に、主に構ってほしいだけなのだ。
特に近頃は刀剣男士の数が増え、ひとりひとりと接する時間は減った。それがわかっていたから、七桜も毎度こうして加州清光を探し、声をかけてはいたのだが……
彼が見ていないのをいいことに、七桜は主らしくもなくしゅんとうなだれる。自らが降ろした神の心もわからぬでは、審神者失格ではなかろうか。
「あの、清光さん――」
それでも、なおさら、このままでいるわけにはいかない。そう自らを奮い立たせて口を開いたところ、突然加州清光が振り返り、揃えた膝の上に置いてあった七桜の右手を掴んだ。ぐっと引き寄せられると、先ほどよりもずっと近い位置に、加州清光の整った顔がある。
「きっ、清光さんっ?」
「七桜はさ」
うろたえる七桜に構わず、加州清光は言う。
「爪紅、してないよな」
七桜はぽかんとしてしまった。
掴んだ七桜の右手を目の前まで持ち上げ、その手のひらしか隔てるものがないほど互いに近しい距離にいて、出てきた言葉がこれである。ややあってようやく問の意味を把握すると、七桜は気恥ずかしさから、無駄に何度も頷いて答えた。
「えっ、ええ、そう、そうですね。神事には、あまり向きませんから」
「すればいいのに。絶対、似合うから」
「はあ……」
「おっ、いーじゃんいーじゃん、俺とお揃い。なっ」
と、たちまち輝かんばかりの笑顔が向けられる。先までのご機嫌斜めはどこへやら、自分の思いつきがそれほどに気に入ったらしい。
「えっと、でも、炊事洗濯にも向かないのではないかと」
「……七桜は俺とお揃い、嫌なの?」
七桜の手を握りしめ、加州清光はじっと七桜を見つめた。首を傾げた拍子に、その秀でた白い額に前髪がさらりとかかる。
「そ、そういうわけでは」
「本当?」
「……うぅ」
七桜は「これ」にめっぽう弱かった。
七桜が初めて魂を呼び覚ました刀剣であり、任務が始まって以来ずっと付き従ってくれている加州清光の、この雨に打たれる捨てられた子犬のような目に。こうしてせがまれて、まず断れた試しがないほどには。
己の不利を悟り、七桜はせめてもの抵抗として声を絞り出す。
「わ、私が爪紅をする代わりに……清光さんは、内番、やってくれますか?」
「やるやる!」
あっさり受け入れられてしまった。
「おっし、決まり! 俺がしてあげるから、こっち座って」
「はい……もう、どうにでもしてください」
よもやこれを狙っての言動だったのでは……腑に落ちない七桜は、しかしもはや抗う気力を失い、浮かれ調子ではしゃぐ加州清光の言いつけのとおりに振る舞った。いつでも手入れ道具を持ち歩いているのか、さっさと用意を整えられてしまう。
――そうしていざ事が始まると、二人の間は沈黙で満たされた。
障子がすべて開け放たれた部屋は、ぽかぽかした日差しが差し込んでいる。ときおり、涼しい風が吹き込むのがなんともここちよい。これがただの日向ぼっこなら、文句のつけようがないのだけども。
明るい庭先へ視線を避難させていた七桜は、それにも飽きて加州清光に目を戻した。すると、真剣な表情で七桜の手を取り、爪に紅を差している彼の姿が目に入る。刀剣なのに、笑ったり、拗ねたり、おしゃれしたり、真面目になったり、……私が目覚めさせた魂なのだけれど、不思議だなあ。
自分の爪が磨かれ、色づけられていくのを見守っているうちに、いつまでも黙っているのが居心地悪くなってきた。七桜は指先のくすぐったさをこらえながら尋ねてみる。
「清光さん、楽しいですか?」
「楽しい。すっげー楽しい」
「……そ、それならよかったです」
食い気味に即答されては、こう返すほかない。
落ち着かない心持ちで待っていると、
「はい、終わりーっと。ほら、可愛くなったー」
やっとのことで解放された。
なんとか無事に(最後に爪に息を吹きかけられて飛び上がりそうになったアクシデントを除いて)済んだことで、七桜はほっと胸を撫で下ろす。内番を開始するには随分と遅くなってしまったが、さあ、と意気揚々と立ち上がった。
「では、そろそろお仕事に――」
「次、足ね。出して」
「……………………い、いえ、さすがにそれはちょっと」
七桜はドン引きした。咄嗟に断り文句が出てこなかったくらいに引いた。にもかかわらず、加州清光は七桜を見上げ、その場に座したまま動こうとしない。
「駄目。お揃いって言ったじゃん」
「でも清光さんだって、そこまでやっているわけじゃないでしょう?」
「なんで? やってるよ? 俺は見えないとこまで、ちゃーんと可愛くしてる」
加州清光の唸る女子力であった。
しかし七桜は必死で言い募る。
「いえ、ほんと、やめましょう、ほら、足を触るなんて汚いですよ。清光さん、汚れるのいやなんでしょう」
「は? 主に触るのになんで汚れるのさ」
「……え、ええと」
なんだか今ものすごいことを言われたような……七桜が次の言葉を探してまごついていると、その隙をつかれて手を引っ張られた。
「わっ、ちょ……」
たまらずくずおれる七桜を受け止めて、加州清光は意地悪く笑う。
「七桜。往生際が悪いよ?」
「ちょっと、待っ、清……ひえぇっ」
すべてが済んでしまった後で、大和守安定がひょっこりと顔を出した。
「あ、七桜ちゃん。加州清光は見つかった? ……みたいだね」
大和守安定は加州清光に気付き、笑顔から顰め面に表情を変える。
「おい、今日は内番だってちゃんと伝えてあっただろ」
「はいはい、わかってますよー。じゃ、また後でねー、あーるーじ」
「なに? 機嫌よすぎじゃない? 気持ち悪いんだけど……」
「うるっさいな。お前には言ってないよ」
騒々しく言い合いながら、二人が立ち去っていく。大和守安定に挨拶すらできず茫然と座り込んでいた七桜は、少し経って、はたと我に返ると、
「つ……次は、今度こそ、もう絶っ対に、清光さんのお願いは聞かない……」
と、数日後に脆くも崩れ去る誓いを立てた。