秘色夜話

 審神者のなすべき務めは数多あるが、出陣のあった日は特に目まぐるしい。慌しい時間が過ぎて、七桜がすべてを済ませた頃には、夜もとっぷりと更けていた。
 さて、あとは政府への報告書を書き上げてしまうだけだ。自室に下がるため、社の外へ向かう。月明かりだけが照らす薄暗い無人の廊下を進んでいると――不意に、向こうの廊下の隅に、誰かが座っているのが目に入った。
 夜闇の中にもぼんやりと浮かび上がって見える白装束。にっかり青江だ。
 壁に背を預け、俯いて、じっと動かないでいる。よもやとは思うが、眠ってでもいるのだろうか。これが昼間で、たとえば広間の縁側などであったなら、「うたた寝なんて珍しいなあ」というだけで済ませられたに違いない。しかし今は真夜中で、ここは主に七桜が儀式を執り行うための場所だ。どうにも様子がおかしい。
 まさか。と、七桜には思い当たるものがあった。
 今日出陣した第一部隊のメンバーには、にっかり青江も含まれている。夕方、帰還した皆を出迎えたときには、普段どおりの彼だったのだが。
 七桜はにっかり青江のもとまでそうっと歩み寄る。そばに屈んで顔を覗き込んでみると、その瞼は閉じられていた。彼は皆の中でも気配には聡い方だ、七桜がやって来たのにも気付かないということは、やはり……
 七桜は何度か躊躇ったあと、彼が包まっている白装束の裾を摘まんだ。おそるおそる、そろそろとめくり上げていく。
 突然、強い力で手首を掴まれた。
 驚きのあまりに悲鳴を上げそうになったのを呑み込む。咄嗟に顔を上げれば、いつからなのか目を開けていたにっかり青江と視線がぶつかった。
 一瞬、長い髪に隠されている右の紅い瞳が垣間見え、その眼光の鋭さに心がひやりとする。しかし次に瞬きをしたときには、彼はもう穏やかでけれどどこか含みのあるような――つまり常どおりの――微笑を浮かべていた。
「いけない子だねえ。刀剣の寝込みを襲おうなんて……斬られても文句は言えないよ?」
 とんでもないことを言い出すので、七桜は慌てて首を振る。
「襲ってなんていませんよっ」
「おやおや、それじゃ、七桜は僕を脱がせてどうするつもりだったんだい」
 ますます笑みを深めるにっかり青江。
 彼がこういうからかい方をしてくると、七桜はそのたびに困ってしまうのだけれど……とっくに手は放されているのに、肌にはまだ彼の冷えた指の感触が残っている。いつまでも立ち上がる気配のないにっかり青江に倣って、七桜は床に直に腰を下ろした。
 夜の空気に晒されていた板張りの床は、びっくりするくらい冷たい。こんなところに、彼はいつからいたのだろうか。
「青江さん――怪我をしているんですよね?」
 七桜が問うても、にっかり青江の表情は変わらなかった。
「何のことだい?」
「じゃあ、見せてください。何ともなければ、私、戻りますから」
 先ほど驚いて取り落としてしまった白装束の裾を、もう一度摘まんで、軽く持ち上げる。
 傷付いた刀剣男士の手入れは七桜の仕事のひとつではあるが、七桜はこれまでにっかり青江の手入れをしたことがない。
 手入れ部屋には式を置いているから、七桜が忙しく手が回らない場合にも、刀剣男士たちは審神者の助けなしに彼らだけで傷を癒すことができる。ただ、式を使う理由はそれだけではなくて――
 刀としての矜持を持つ彼らのうちには、主に対しても弱みを見せたくないと考える者もいるのだ。七桜は知らないふりをしているけれど、着物をなおしてくるなどと言って、怪我を隠して手入れ部屋に向かう刀剣男士は少なくない。
 だから、七桜は「なぜ言ってくれなかったのか」などとは決して口にしなかった。こうして動けなくなるまで無理をしているのを察知できなかった、七桜にこそ非があると思う。
「すみません。私、少しも気付かなくて……せめて、手入れ部屋まではご一緒させてもらえませんか?」
「…………わかったよ」
 七桜がじっと見上げると、にっかり青江はもう誤魔化そうとはしなかった。そして、肩をすくめてこう言い足す。
「鈍った刀なんて、みっともないだけだしね」
「そんなことはありません」
 七桜はぴしゃりと否定した。
 例によって冗談のつもりだったのだとしても、こればっかりは聞き逃すわけにはいかない。七桜の厳しいもの言いが珍しかったのか、にっかり青江はちょっと目を見張った。まじまじとこちらを見返してくるのも構わずに、七桜は続ける。
「刃こぼれのひとつやふたつで、刀として何かが失われるとは、私は思いません。そんなことは絶対させませんけど、もし……もし、折れてしまったとしたって」
 皆がとても強いことも、刀である己に誇りを持っていることも、一生懸命戦ってくれていることも、七桜はちゃんと知っている。それを認めずに、どうして審神者でいれようか。
「私にとっては青江さんは、他に代わりがいない大事な刀です。だから、そういうことは言わ――」
 七桜はすべてを言い終えることはできなかった。それより先に、にっかり青江の腕が背中に回り、身体を抱き寄せられたからだ。ぎゅっと彼の胸に顔を押し付けられ、口が塞がれて言葉が止まってしまった。
 背中にあるのとは別の手が、七桜の後ろ頭をしっかりと抱え込んでいるせいで、顔を上げることもできない。七桜は目を白黒させながら、何とか息継ぎをする。
「あ、あのっ、なので、早く手入れ部屋に」
「……もう治ったよ」
「治りませんよ! そのために、私がいるんですから」
「うん、そうだね。……ありがとう」
 彼が今どんな表情をしているのか、七桜にはわからない。
 でも、その声があんまりか細くて……なにかを堪えているみたいに聞こえたために、七桜は大人しく彼の胸板に頬を寄せた。そうすると、にっかり青江の鼓動が聞こえてくる。衣服の感触は冷たくも、その奥にある体温は確かに感じられる。向こうにも七桜のそれは伝わっているだろう。
 戦を命じる七桜が言えた立場ではないが、もっと「生きている」という自覚を持ってほしいなあ、と思う。もとは刀なのだから、しょうがないのだろうけども。
 しばらく、言葉もなくそのままでいた。
 ……そろそろ手入れをしないと、これ以上は怪我をした身体に障るかもしれない。そう思い至った七桜が身動ぎをすると、その意図を察してくれたらしく、にっかり青江の腕が緩んだ。七桜の頭を押さえ込んでいた手が離れ、けれどすぐに頭を撫でるみたいにして、七桜の前髪がかき上げられ――
 露にされた額に柔らかい感触が落ちる。
 にっかり青江の腕の中で、七桜はびっくりして彼を仰いだ。
「あ、青江さん? 今……」
「ん? どうしたんだい」
 と、にっかり青江はまるで何も知らないふうで応じる。
 き、気のせい、かな。いや、でも今、確かに……
七桜?」
「えーと……な、何でもないです」
 迷った末に、七桜はそう告げた。気のせいかもしれないし、怪我人に言いがかりをつけるのもどうかと思うし……
 七桜が内心で首を捻っていると、にっかり青江は吐息めいた笑みを漏らし、乱れてしまった七桜の髪を撫で付けてなおした。
「それじゃあ、行こうか? ついてきてくれるんだろう?」
「あ、はい……」
 七桜は頷いたが、手入れ部屋まではちょっと歩かなくてはならない。おそらくはその途次で動けなくなっていたにっかり青江に、移動を強いるのは酷だろうか。
「青江さん、歩けそうですか?」
「ああ……少し辛いから、手を引いてもらってもいいかな」
「はい、構いませんよ。どうぞ」
 などというやりとりを経て、にっかり青江に手を貸して立ち上がった。しかし、手を引くというか、肩を貸しているというか、横から抱かれているというか――さっきと正面からか横からかという違いしかない体勢なのは、どういうわけだろうか。
「ほ、ほんとに辛いんですよね?」
「もちろん。七桜、君は僕が怪我をいいことに、無体を働いていると思うのかい?」
「そういうわけじゃあ……」
 ただ、日頃の行いというか。七桜がごにょごにょ呟くのを、にっかり青江はただ静かに笑って見ている。いつもよりも近いところにある彼のその表情は、よく見せる、何かをひた隠しにしているような微笑みではない……そう思えた。
 七桜は観念して、手入れ部屋に向かうことにする。できるなら、他の誰か――特に七桜の初期刀とか――に見つかりませんように、と、せめて足音を秘めやかにして。