天使の心臓
小さなレストランは客でいっぱいだった。鞠花は厨房を出る時、決まって立ち止まり、ホール全体を見渡すようにしている。このレストラン――鞠花の王国を。皆は食事の手を止めて鞠花を見つめる。鞠花の可憐さを語り合う。彼らは鞠花の崇拝者で、鞠花は彼らの女神なのだ。
鞠花はまなざしにはにっこりと笑みを返し、賛辞にははにかんで礼を述べた。時おり現れる調子づいた客には、困り顔で周囲を見回してみせる。そうすると彼らのうちの誰かが不届き者を袋叩きにして、簡単に解決してくれる。
今日の鞠花は、新しいデザインのウェイトレスの制服に身を包んでいた。店長にねだって卸してもらった。客の称賛の中にはもちろん衣装が似合っているという言葉もあって、鞠花はおおむね満足だった。
店長と言えば、この店の夫人は何かにつけて鞠花に小言を並べてくるようになった。制服のことだって、バイト一人のためにそんなものを用意する必要はない、この店にそんな余裕があると思っているのか、などと、店長と鞠花をひどく詰った。店はこうして鞠花のおかげで繁盛しているというのに、とんだ言い草だ。まだ若い鞠花に女として負けていることを認めたくないから、必要以上に目くじらを立てていることは明らかだった。
そういった妬み僻みにはもう慣れた。
今も、何人かの女の客が、忌々しそうに鞠花を睨んでいる。天使の力は女性には効果がない。しかし結果として、パートナーやその候補を奪われたと思い込んだ女たちは鞠花に憎しみを向ける。嫌がらせも受ける。大抵は男たちが助けてくれて事なきを得るが、店のレビューに低評価をつけられるのは少々困りものである。嫉妬している暇があるなら、自分を磨けばいいのに。鞠花は常々不思議に思う。醜い行いをしているからますます醜く見苦しくなるのだと、自分では気付けないものかしら?
まあ、何事も甘いだけではつまらない。そういったトラブルも良いスパイスだ。男たちの好意も女たちの羨望も、鞠花は気持ちよく受け止めていた。
けれども鞠花はそろそろこの町を出ていこうかと考えている。ここは原作には登場しない場所のようだし、大勢の名もない脇役に好かれようが石ころほどの価値もない。小ぢんまりした地味な店も何もかもが私にはふさわしくない。舞台の中心に立って、主要なキャラクターたちに愛されたい。――だって、私は神にすら愛されている!
カラン、と入り口のベルが鳴る。
「いらっしゃいませ。一名様でよろしいですか?」
鞠花は愛想よく挨拶をし、対する客は素っ気なく頷いた。
一見の客であることはすぐにわかった。何しろ、町の男はみんな余さず鞠花に夢中になっている。ここは都市と都市をつなぐ要所にあり、また町内では良くも悪くも有名なレストランのため、よそ者が立ち寄ることも珍しくない。
ちょうどよくテーブルがひとつ空いた(彼らは長く居座ることが店の、ひいては鞠花の迷惑になることをよく心得ているのだ)ので、席へ案内する。女神のごとく崇拝されていても、勤めはきちんとこなしている。ウェイトレスの仕事は天使の力を発揮するにはぴったりだ。メニューを手渡す時に、鞠花ははじめて客の顔をしっかりと見た。
鼓動が跳ねた。
美しい男だった。
面貌はもとより、居住まいが、洗練された所作が美しい。何気なく足を組む仕草にも、メニューをめくる手つきにすら美が宿っているように感じられる。
飾り気のないシンプルな服装をしていたが、それは彼の魅力を少しも損なうものではなかった。鞠花は新しい制服に浮かれていた自分を少し恥じ、しかし、いいや舞台のヒロインが着飾ることも大切なことだとすぐに思い直した。
さっきまで不機嫌そうだった女性客が、鞠花が普段男たちに向けられているような視線を彼に熱く注いでいるのがわかる。男は周囲の様子をちっとも気に留めず、鞠花の存在を気にかける様子もない。でも、その態度もこの店を出る頃には変わっているだろう。
鞠花はこの男の名前を知っている。名前だけではない、彼の正体も、能力も、前髪を下ろした額に何が隠されているのかも。
クロロ=ルシルフル。
紙の上でしか知らなかった憧れのひとに現実に出会って、鞠花は一目で恋に落ちた。そして、歓喜した。やはり、鞠花は神に愛されているに違いない。クロロはすぐに鞠花を好きになる。彼のすべてが鞠花のものになる。
それが鞠花の念能力だからだ。
何か、超自然的な力で知らない町中に放り出された鞠花が、そこが自分が生まれ育った世界ではないと悟るまで、そう時間はかからなかった。当世ではない、日本ではない、現実ですらない、HUNTER×HUNTERという漫画の世界だということに。
鞠花は途方に暮れた。大好きな漫画ではあったけれども、その世界で暮らしたいかと問われると話は別である。何しろ、普通の人間が生きていくにはあまりにも危険が多い。
けれど幸いにして、そこはどうやら漫画の中で殺戮の舞台となった場所ではなかった。さらに幸運なことにその町のレストランを経営する夫婦に拾われ、住み込みで働かせてもらえることになった。鞠花は少しずつ仕事を覚え、その世界に馴染み、どうにか平穏に生きることができそうだった。
小さな店の従業員は鞠花ひとりで、人手はいつも足りない。鞠花が配膳や片付けに専念していたのはごく最初のうちだけで、やがて厨房の仕事にも携わるようになった。
オーブンを開けると、焼きたての香ばしい匂いが食欲をくすぐる。天板には手のひらにおさまるくらいのサイズのパイが並んでいる。この店の売りはパイだ。キドニーパイ、ミートパイ、シェパーズパイ、キッシュ、デザートの甘いパイだってもちろんメニューにある。普通の料理も提供するが、客のほとんどはパイを目当てにやって来るため、作ることは滅多にない。
鞠花はミトンを使って天板を取り出し――ふと、湯気が立ち上るパイの上に黒い影がかぶさった。鞠花のすぐ脇に、誰かが立っている。
夫人はホールで接客中だ。店長である夫の方は先ほど奥の倉庫に向かって、戻って来たなら声くらいかけるだろう。訝しい思いで目を上げた鞠花を、怪物が見下ろしていた。
「ひっ……」
後ずさろうとした足がもつれて、鞠花はパイと一緒にしりもちをついた。天板をかろうじてひっくり返さなかったのは奇跡に等しい。
怪物は背をかがめ、顔を近付けてくる。空の眼窩、削げた鼻、唇がないせいでむき出しの歯と歯茎。髑髏じみた顔の真上に、何の冗談なのか天使の輪っかが浮いている。
……天使? この怪物が?
呆然とするしかない鞠花に向かって、怪物が手を伸ばす。手には五指がなく、鞠花のミトンをつけた手のように二つに分かれている。身長は二メートルほどだろうか、腰から下は脚が分かれることなく続き、末端は蛇の尾のように細まっていた。筋骨隆々とした身体には胸から腹にかけ、尖った牙に囲われた大口がぽっかりと開いている。喰われる、と鞠花は思った。死を覚悟した。ぎゅっと目をつぶる。
ああ、こんなことなら、もっとやりたいことをやりたいようにやっておくんだった。せっかく漫画の世界に来たんだから、好きなように生きればよかったんだ。ゴンやキルア、みんなと冒険してみたかった。イルミとかゾルディック家の人にも会ってみたかった。あと、それから――
延々と後悔していても、予期していた苦痛は訪れない。
くっついて離れない瞼をおそるおそるこじ開ける。怪物の顔が目の前にあって、つい上がりそうになった悲鳴をぎりぎりで呑み込んだ。
怪物が、パイを食べている。
指のない手で天板から器用に拾い上げ、次々と髑髏の口に放り込んでいる。
助かった……? いや、まだ安心はできない。パイがなくなったら、次は鞠花の番かもしれない。早く逃げなきゃ。でも、店長や奥さんが。お客さんも。どうすればいいの。固唾を呑んでいると、怪物の胸の大口からころんと何かが転がり落ちた。
「マリカちゃん、次のパイはまだ――あら、座り込んで、どうしたの?」
「えっ? あ、い、いえ、こ、転んじゃって……」
「まあ、大丈夫? 注文はひととおり済んだから、休憩に入ってもいいわよ。奥で手当てしていらっしゃいな。ああ、これ、持っていくわね」
「え、あ、あ……」
夫人は怪物が見えていないかのように振る舞う。そして、皿に移したパイを手にしてホールに引き戻っていく。
そのパイはこの店のパイではない。だって、さっき怪物がすっかり食べ尽くしてしまった。夫人が持って行ったパイは、たった今、どういうわけか怪物が胸の大口から吐き出したパイなのだ。わかっているのに、鞠花は夫人をろくに引き留めることができなかった。
怪物は満腹になったのか、まるで一仕事終えたと言わんばかりに、厨房の隅にあったジャガイモの箱をひじかけにゆったりと蛇の半身を横たえている。
人間に危害を加えるつもりはないらしい。もしかして、と鞠花は閃いた。こいつは念獣かもしれない。だとすると、たぶん鞠花の。鞠花は震える脚を叱咤して立ち上がる。
「マリカちゃん?」
「あの、怪我とかはしていないので……テーブル、片付けますね」
急いで厨房から出てきた鞠花を見て、夫人はちょっと不思議そうにしていたが、特に追及はされなかった。しかし、その手はもう空いている。鞠花は客が去ったテーブルの後片付けをするふりで、パイの行方を捜した。
一皿目を見つける。カップルの客の男の方が、まさにパイにナイフを入れているところだった。念獣が生み出したパイ。果たして食べたら何が起こるのか見当もつかない。無理にでも止めるべき? でも、何と言って? 変な真似をして、この店をクビになりたくはない。逡巡がすべてを手遅れにした。男は切り分けたパイを口にしていた。
「これ、うまいな」
「でしょ? 私も、友達に勧められて……」
カップルは和やかに会話している。……あれ? なんともないの? 肩透かしを食らった気分になりながら盗み見を続ける。不意に、男と目が合った。男は鞠花に向けて、妙に親しげな笑みを浮かべた。
「なあ、次の食事もこの店にしようか」
「えー、気が早すぎ。そんなに気に入った?」
「ああ、すごく。バイトの子もかわいいし」
「……そう?」
「さっきから見てて思ったけど、かわいいだけじゃなくて、すごく気が利くよな」
「……普通に仕事してるだけでしょ。それに、別に大してかわいくなくない?」
「いや、かわいいよ。あんな子が彼女だったら、毎日楽しいだろうな。……ああそうか、俺、今、自分の気持ちに気付いたよ。あの子が好きなんだ」
「ちょっと、何言ってるのよ!」
カップルの会話が口論へと発展していくのを、鞠花はぽかんとして見ていた。やがて女は怒って席を立ち、すれ違いざま鞠花を睨みつけて店を出ていった。男は追いかけない。パイを食べながら、鞠花をうっとりと見つめている。
「すみません、追加でコーヒーを」
「あっ、はい。コーヒーをひとつ」
別のテーブルから声がかかって、鞠花は男に背中を向けた。この世界の唯一の居場所を失うわけにはいかず、頭を切り替えざるをえなかった。身に付いた習慣から対応している間も、思考はぐるぐる混乱している。
「ここ何時に終わるの?」
「あ、閉店は九時です。ラストオーダーは……」
「いや、そうじゃなくて」
含み笑いをする客のテーブルにある食べかけのパイが、怪物のパイであることに、鞠花はその時に気が付いた。
「仕事、何時上がり?」
「あの……」
この店で働きはじめてから、今日みたいなことは今までなかった。まごついていると「気が向いたら連絡してよ」とメモを握らされる。
あちこちのテーブルから、鞠花は注目を浴びていた。その種類は大別してふたつに分かれる。男性と女性。陶酔と嫉妬。
その日を境に、鞠花の平穏はさまがわりした。
天使はパイしか食べない。
天使がパイを食べると、天使の胸の口から新しいパイが出てくる。そのパイを食べた男はもっとパイが食べたくなり、食べれば食べるほど鞠花のことを好きになる。
クロロは他の男の例に漏れず、日を置かずまた店にやって来た。鞠花のことを覚えていて、短い言葉を交わした。来訪のたびに会話がだんだんと長くなり、個人的な話もするようになり、店の外で会うようになるのにも大した日数は要さなかった。
他の客が「あいつとはどういう関係なんだ」とかなんとか絡んでくるのは多少面倒だったが、微笑んで、あるいはしおらしく、ありがとうかごめんなさいを言ってやれば片はつく。
クロロは町に滞在する間、大半の時間を本を読むことに費やしているようだった。鞠花は一時は元の世界に帰る手段がないかを必死に調べていたから、この世界の文字の読み書きもできるし、本や古物の話題にも乗ることができる。
元の世界に存在した物語を教えてあげると、クロロはいたく関心を示し、熱心に鞠花の話に耳を傾けた。二人で図書館や古書店を巡ることもした。読書に耽るクロロをただ眺めるだけという日もあった。
「マリカ、退屈じゃないか?」
「ううん、全然。だってクロロと一緒にいるんだもん」
クロロの美しい横顔を眺めるのは苦ではない。それに、静かなひとときはいかにも「あのクロロと過ごしている」という感じがあって、鞠花は大いに満喫していた。
どうしてああも日本に帰ることに拘っていたのだろう、と今では思う。あんな退屈な世界に慌てて戻ることはない。戻るとしても、もっと楽しんでから。できれば念能力も一緒に持ち帰れると良い。
「ねえ、クロロはこの町にはどうして? お仕事で?」
「いいや。……休暇のようなものかな」
ということは、他のメンバーはこの町には来ていないのだろう。
親しくなっても、彼は幻影旅団の団長という自らの素性を明かさない。もっと時間をかけて魅了しなくてはならない。鞠花は団員たちにも会ってみたい。もちろんクロロが本命なんだけど、みんなに愛されるっていうのも悪くないなあ……
どのくらいの頻度でどのくらいの量を食べさせればいいのか、どんなふうに鞠花を愛するようになるのか。天使のパイの効力は町中の男でじゅうぶんに試した。その甲斐あって、クロロには完璧な配分で行使している。
町を歩く時、クロロが他人を見る目つきに酷薄な光がよぎることがある。けれど、鞠花を前にしたクロロの瞳には、違えようのない明らかな親愛の情が宿っている。鞠花への態度にもわかりやすい気安さが見え隠れする。もうそろそろの頃合いだ。
強い念能力者のクロロに効果があるということは、他のキャラクターにも通用するだろう。クロロの他には誰にしようかな? 鞠花は薔薇色の未来を夢想する。でも、原作に関わるのは危険だからなるべく安全圏にいられるようにして……
「マリカ」
ぼんやりクロロを眺めているうちに、深い思考に嵌まっていたらしい。顔を上げると、黒い双眸がこちらを見ていた。いつからそうしていたのか、読みさしの本は閉じられている。
「何を考えていた?」
深刻な物言いではなく、ちょっと拗ねた言い方である。答えに迷っていると「オレのことじゃないのか」と続いたので、鞠花は口元に笑みが広がるのを抑えられなかった。
「クロロだって本を読んでたじゃない」
「……そうだな。放っておかれるマリカの気持ちがよくわかった」
「私は、楽しいよ? 前にも言ったけど」
「オレはお前の全部が欲しいよ」
「クロロ――」
来た! やっと、この時が。
クロロの口からはっきりと鞠花への想いめいた言葉が出たのは、これがはじめてだった。愛おしさと憂いがこもったまなざし。これまでいろんな男からの恋情を浴びてきたが、クロロはいまだに鞠花に褪せることのないときめきを与えてくれる。
鞠花は胸を高鳴らせながら、口を開こうとした。クロロが先んじる。
「返事はいらない。奪うのが本職なんだ」
瞬間、すさまじい激痛が鞠花の胸を貫いていた。
それは恋の甘やかな痛みなどとは程遠かった。幻想ではない、現実の生々しい苦痛。
クロロの微笑が間近にある。抱きしめられたような格好で、傍目には恋人同士の抱擁のように映ったかもしれない。彼の腕が鞠花の胸を突き破っていなければ。
なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで? なんで?
疑問ばかりが渦を巻く。こんなはずじゃなかった。私は夢のような能力を手に入れて、幸せな結末を迎えるべきなのに。
――私のこと、好きじゃなかったの?
問の代わりに吐き出したのは真っ赤な血だった。けれど、クロロには伝わったらしい。
「好きだよ」
美しい微笑を湛え、もう一方の手で鞠花の頬を優しく撫でる。向けられる感情が決して嘘ではないのだとわかる。なのに、どうして?
「マリカ、愛している」
鞠花が今際に耳にしたのは、間違いなく己が待ち望んでいた愛の言葉だった。
「わあ、ハートなんてロマンチックだねー!」
待ち構えていた鳥マスクの男は、いやにはしゃいだ様子だった。
「それじゃ、すぐに準備するから、座って待っててよ」
クロロに椅子を勧めた後で、受け取ったそれを鍋にぶち込み、さまざまな材料と一緒に鍋で煮込みはじめる。
念を使う場面を観察されることに抵抗はないらしい。その作業は、単純に何かの料理を作っているようにも見える。筋肉質の上半身裸の男が行うという異様さはあるが、取り立てて変わった工程ではないようだった。
興味深く眺めていると、除念師が言った。
「でも、よかったの? 別に腸のひとかけらくらいで十分だったのに……大事な人だったんでしょ?」
「ああ、もちろん」
クロロは思わず笑い声を漏らした。除念の制約と誓約として、対象の「大事な人」のそれが必要なのだと告げた口で、いやに人道的なことを説くものだ。
当てはまる条件に心当たりがなかったクロロは、彼の情報網にかかった念能力者に会いに行った。結果は、大いに満足できるものだった。友人の技を真似してみた右の手のひらを広げてかざす。
「おかげで、心の底から愛した女を殺す、貴重な体験ができたよ」