独り愴然として涕下る
目を覚ますと、陽は中天に差しかかろうとしていた。明け方に祝家荘へ向かった部隊が退却してくるのは、そろそろだろう。ちょうどいい頃合いである。陽の位置だけを確認して立ち戻った安道全は、幕舎の中を見回した。
白勝どころか、誰もいない――いや、仕切りの向こうに、沙耶がいるのだったか。まだ寝ているのだろうか。耳を澄ませてみたが、よくわからない。
以前に、それを確かめるために仕切りの布をまくり上げたら、白勝にひどく叱られたのだった。なので、そうするのはやめておいた。
「安道全。起きてるか?」
声をかけられた。見れば、幕舎の入口から、白勝がこちらに首を突き出すようにしている。
「起きている。沙耶は寝ているが」
「……おい」
「何だ、その顔は。もう、ああいうことはしない」
ふうん、と白勝は呟いた。疑われているらしい。心外だ。
白勝は兵糧を投げて寄越した。
「ちょっと用ができちまってよ、本営まで行ってくる。交替はその後だ」
早口でそう言ってから、顔を引っ込める。
白勝はよく働いていた。白日鼠とあだ名されている白勝は、鈍い女の十倍は素早い。そんなことを思いながら、安道全が受け止め損ねた兵糧を拾い上げていると、
「――なあ、安道全」
再度、白勝の声がした。
視線を向けたが、姿は見えない。外から声だけを投げかけているのだろう。
「何だ? 白勝」
「あんまり沙耶をいじめてやるなよ。よくやってると思うぜ、俺は」
それ以降、声は聞こえなかった。
言いたいことだけを言って、今度こそ白勝は立ち去ったようだ。残された安道全はふんと鼻を鳴らし、白勝が言い残した言葉を胸のうちでなぞった。沙耶が、よくやっている?
……そんなことはわかっている。
沙耶が養生所から出ていった後で、安道全は宋万が戦死したことを知った。ああ、それで。そう納得した。しかし納得したところで、安道全はやはり沙耶を叱っていただろう。
安道全とて、沙耶の気持ちがわからないではない。
旅の途次で、師の文律は病死した。
安道全はもともと身寄りがなく、幼い頃から文律に師事していたので、それでほんとうにひとりきりになった。患者に死なれるのは幾度も経験していたが、深い関わり合いを持つ人間が死んだのは、はじめてのことだった。
今では安道全にも、白勝や林冲や、薛永、湯隆といった、友人がいる。彼らが死んだら悲しい。もしそうなった時、どうやって受け止めればいいのか、安道全は知らない。師は、人との関わり方だとか、そういうことはまったく教えてくれなかったのだ。
けれど、どんなに悲しんだところで、自分は医師であることをやめぬであろう、と思う。
死ねば、それはただの物になる。どれほど親しい人間でも、死ねば物でしかない。だったら、ただの『物』よりも、治療を必要としている怪我人や病人を優先すべきだ。
そういう安道全の考え方を、受け入れがたいと感じる人間もいるようだということは、知っている。白勝にもよく言われたし、文祥の前に取った弟子の中には、これを厭って辞めていった者もいた。
――だから、沙耶が戻ってきたのには、本当に驚いたのだ。
安道全は、息をひそめてみた。
それでも、仕切りの向こうから、沙耶の寝息は聞こえてこない。どうにも気になったので、僅かの間だけ考えてから、安道全は前言を翻すことに決めた。
仕切り布をまくり上げる。
沙耶は目を閉じて、そこに仰臥していた。安道全が見下ろす中で、身じろぎもしない。腹の辺りに置かれた両手が、何かを固く握りしめている。じっと観察していると、微かに胸が上下しているのがわかった。
「……何だ、やはり眠っているのだな」
呟いて短く息を吐いたのは、どんな感情によるものだったのか。
眠っている沙耶の顔の、瞼の曲線や、鼻梁から顎にかけての起伏が作る柔らかな陰影が、どうしてか鮮烈な印象となって安道全の中にいつまでも残った。
ふと、沙耶の唇が『物』の名前を紡いだような気がした。覗き込んでみれば、閉じた瞼から溢れた雫が、目尻からこめかみをすっと伝っていった。
独愴然而涕下
――その涙を拭ってやる男はもういない