夏天にも氷いまだ釈けず
養生所に赴くと、目当ての安道全は留守だった。「安道全先生でしたら、鍛冶場の方へ出かけられました。白勝先生もご一緒に」
それを聞いて、林冲は腹立たしさを隠さずに舌打ちした。
ここ最近は大きな戦もなかったせいか、養生所は閑散としている。二人がいないとなれば、このような場所に長居する理由はない。
「わかった。出直そう」
林冲がさっさと立ち去ろうとしたのを、
「……あの、林冲様」
応対していた娘が、控えめに呼び止めた。この娘は、いつもここで受付をやっている、鼠に似た顔の小男の代わりを務めているらしい。林冲は振り返った。
「お二人とも、すぐに戻って来られると思います。よろしければ、こちらで」
「ここで待つつもりはない」
娘の申し出を、先回りして断る。
にべもない言葉に娘は一瞬鼻白んで、ちょっとうつむいた。
その様子を見ていると、林冲の胸中で名状しがたい苛立ちが募っていく。林冲は再び養生所の外へ足を向けた。一刻も早く、この場を去りたかった。
――初めてこの娘と出会った日のことを、林冲は覚えている。
王倫の開いた、宴席だった。
林冲がこの梁山泊へ足を踏み入れた日。替天行道の旗は掲げられておらず、梁山泊がまだ王倫を頭とする盗賊どもの根城であった頃。娘はその王倫の妾であり、林冲の歓迎のために開かれた宴に呼ばれていたのだ。
嫌な眼をしている、と思った。どこを見定めているのかわからないような、茫洋とした瞳。
後に宋万が洩らしたことだが、娘はどこぞの村に居ついた賊どもに捕らえられていたのを、宋万が助けて連れ帰ったという。……その話を聞いた時、林冲は己の躰が手足の先まで冷えきっていくのを感じた。
「あの、」
「何だ」
娘の声に、林冲は足を止めた。
「突然、不躾なことをお伺いして申し訳ありません。林冲様は……」
その娘、沙耶は、今は確かな意思を瞳に宿して、林冲を見上げてこう言った。
「わたしのことを、なぜ嫌っておられるのでしょうか?」
――絞め殺してやろうか。
突如、沙耶に対する殺意にも似た激憤が、林冲の心に噴き出した。その荒れ狂うような怒りを表面に出さないように努めながら、静かに応じる。
「……嫌ってなどいない」
しかし沙耶は、林冲の返答を否定するように首を振り、さらに続けた。
「わたしに至らぬ点があるのでしたら、おっしゃっていただければ、なおすように努力いたします。それに、王倫、の、ことでしたら……わたしは、あの人の妾などではありませんでした」
かつての主の名を口にする時だけひどくぎこちない口調になったが、沙耶は最後まで、はっきりと己の意見を述べた。
以前は口も利けなかった娘が、この豹子頭林冲を前にして、である。あの頃を思えば、随分と見違えたものだ。感心するような気持ちになって、林冲の憤りは若干やわらいだ。
「嫌っていないと、言っているだろう。何故そう思う」
「なぜ……」
沙耶は僅かに首を傾げて、林冲の言葉を繰り返すように呟いた。そして、言う。
「わたしの目を、見ようとなさらないではありませんか。今だって」
林冲は、はっと胸を衝かれた。
そう、そのとおりだ。
この眼を見ると、林冲はいつも、沙耶を問い詰めたい衝動に駆られるのだ。いま、このときも。
なぜ――何故おまえはこの道を選んだのか。
寸前まで口の外に出かかった問を、林冲は呑み込んだ。
凌辱の限りを尽くされ、首を吊った女がいた。賊に嬲られた後にも、生きることを選んだ娘がいる。何故だ。己が妻が自害し、沙耶がそうしなかった、その違いは何だというのだ。
沙耶が晁蓋に殺せと喚き散らした時も、林冲はその場で事の次第を見ていた。晁蓋のように、生きてくれと訴えることができたなら、妻もあるいはそうしたのだろうか。それとも、
「林冲様……?」
沙耶が、窺うように林冲の名を呼んだ。
……考えても、詮ないことばかりだ。まして、この娘に問えるはずもない。
「邪魔をしたな」
話を切り上げ、林冲は素早く踵を返す。
これ以上長く、沙耶のまなざしの前に晒されることに耐えられそうになかった。本当に絞めてしまいかねない。
妻の名は、忘れた。
――そうだ。宋江殿にお伝えしたように、俺は、志だけを抱いて生きればいい。
だのに、娘の眼が、忘れてしまったはずの何かを思い起こさせるのだ。
林冲は思う。この先、氷のように冷たいそれが融けきってしまうまで、己が沙耶と向き合うことはないだろう。そして、そんな時は決してやって来ない。
「林冲様」
林冲の背に沙耶の声が追い縋ったが、林冲は二度と立ち止まらなかった。
夏天氷未釈
――瞋恚の炎が燃え盛ろうと、この氷が融けることはない