栩栩然として胡蝶なり
獄舎からの帰り道に、東屋でひとり書見をする娘を見かけた。かつては私塾で子供たちに学問を教えていた呉用だが、そんな彼にとっても、常ならばとうに嫁いで家の仕事に勤しんでいるような年頃の若い女が書見にふける姿は珍しく映る。歩きながらも何とはなしにその様子を眺めていると、娘――確か、名を沙耶といったはずだ――がこちらに気が付いた。
「呉用様」
名を呼ばれ、驚く。呉用がこの娘と顔を合わせたのは、山寨入りをした日の一度きりだ。……まあ、あれから随分と日が経った。呉用の名を知る機会など、いくらでもあっただろう。
「このような場所で、書見か」
礼をとる娘に向かって尋ねる。普段の呉用であれば、声をかけることはせずに通り過ぎたかもしれない。
「はい。焦挺を待っているのです」
「焦挺?」
先ほどまで顔を合わせていた男の名である。
思わず聞き返すと、沙耶はいつもこの東屋で焦挺に読み書きを習っているのだととつとつと語った。焦挺がそこまでこの娘と親しくしていたことを呉用は意外に思ったが、字を教えるなど、いかにもあの若者がしてやりそうなことだという気もする。
しかし。呉用は腕を組んだ。
「やつは、来ぬのではないかな。今しがた、仕事を言いつけたばかりだ」
呉用が責め殺した間者の屍体の処分を、任せた。
焦挺はあの巨躯に似合わず、細やかな性分をしているところがあった。命令されたことをきっちりとこなすという点では信用が置けるために呉用はしばしば彼を使うのだが、逆に考えると、豪胆さに欠ける性格であるとも言える。汚れた仕事を済ませた後、その足で娘に会いにくるとは考えにくかった。
「そう、ですか。……もともと、ちゃんと約束をしているわけではありませんでしたから」
沙耶が曖昧に頷くのを聞きながら、何気なく、卓の上に広げられた書物に目を落とす。昔、呉用が私塾で使っていたものと同じ――いや、書のくたびれ方をよく見ると、それは紛れもなく以前に呉用が持っていたものだった。
そういえば、白勝が読み書きを学ぶのに書を譲ってくれと言ってきたので、渡したのだ。あれは沙耶のためだったのか。そんなことを思い返しながら、娘が手にしている方の書物に視線を移す。――何と、経書である。
「孔子を読むのか」
知らず、驚きが声に滲んでしまった。
「え、はい。あの……いけませんでしたか?」
「いや」
いけないということはないが、それほどの学を身につける女をよく思う男はそうはおるまい。また、自ら進んで孔子を読み解こうとする女も。
「もっと別のものを渡せばよかったと思ってな。そちらの書は子供が学ぶのに使うものだから、やさしすぎただろう」
「そんな、ことは……えっと、孔子は、内容を少し齧ったことがあって、読みやすいというだけで」
と、沙耶は不思議なことを言う。
その後で、ふと、何かに気付いたように呉用を見上げた。
「この本、いえ、書は、もしかして呉用様が……」
「ああ、もとは私が子供たちに教えるのに使っていたものだ」
「お子様がいらっしゃるのですか?」
娘の早とちりがおかしくて、呉用は苦笑を洩らした。卓に歩み寄り、娘の向かいに腰を下ろす。この風変わりなところのある娘に、いくばくかの興味が湧いてきたのだ。
「私には妻も子おらん。梁山泊に来るまで、私は東渓村というところで私塾の教師をしていたのだ」
呉用の言葉を聞いて、沙耶は瞬きをした。
「そうだったのですか、どうりで――」
「どうりで、何だ?」
「あっ、その……学校の先生のような喋り方をされるなあと……」
沙耶は胸の前で手を弄りながら、落ち着かない様子で言う。学校、というのが何のことなのかはわからなかったが、おそらく塾と似たような意味を持つ言葉なのだろう。
気まずく思ったのか、沙耶は話を逸らすように卓に広げていた書を手に取った。
「こちらの書、ありがとうございました。わたしがいただいてしまって、よろしかったのでしょうか」
「構わぬ。もう、私が使うことのないものだ」
もはや、教師として呉用が子供の前に立つことはない。呉用が告げると、沙耶は「ですが」と続けて言い張った。
「呉用様にとって、大切なものだったのですよね」
「……何?」
眉を顰め、沙耶を見る。沙耶も、じっと呉用を見ている。
険しい表情を崩さぬまま、呉用は問い返した。
「どういう理由で、そう思ったのだ」
「……あの。呉用様は教師をお辞めになって、叛乱を起こすために梁山泊へいらしたのに、この書をわざわざ持ってこられました」
沙耶はしばらく黙した後にそうやって切りだした。頭の中に浮かんだ言葉を懸命にたぐりながら発しているようで、その口調はひどくたどたどしい。相槌を打ち、先を促す。
「必要ないのであっても、呉用様にとっては手放すに手放せない、大切なものだったということではないでしょうか」
「…………」
呉用は沙耶から視線を外し、彼女の手にある書を見やった。
何年も昔、呉用が私塾を開いたばかりの頃に使っていた教材だった。
東渓村で、塾の教師をやっていた。時に晁蓋や宋江と酒を酌み交わし、国のありようについて議論し、志を語り合った。あれらの日々は今では遠すぎて、夢のようでもある。
「そうだな、大切だというよりも……証のつもりで持っていたのかもしれん。東渓村での生活は、決して夢ではなかったと。あるいは」
そうではなくて、それは、ただの逃げだったのかもしれない。
軍備を充実させ、兵糧庫や銭倉を管理し、酒場や妓館まで作らせた。梁山泊の中に、ひとつの国ができあがりつつある。先日は青蓮寺の五百を殲滅するために智略をふり搾り、先手を打った。今の兵力は各地の同志も数に入れて、ようやく四千を超える。そして、いずれは禁軍八十万を相手取るのだ。
押し潰されそうな気持ちは、いつもあった。今と比べて、東渓村での日々がどれほど穏やかだったことか。
「あるいは、いつかはかつてのような日々に戻れると、信じていたかったのかな」
「……わかる、ような気がします」
沙耶が囁くようにそう言ったので、呉用ははたと顔を上げた。
「わたしも、よく考えるんです。もしかしたら、この国に来るまでのわたしの人生はすべて夢だったのかもしれない、とか……反対に、これが夢で、目が覚めたら全部もとどおりなんじゃないか、とか」
僅かに目を伏せて語る娘の口振りは、たまらなくひっそりとしている。
不意に、あの日のことを思い出した。晁蓋ならばこともなげにやってのけるのだろうが、その寂寥感を拭ってやるほどの懐の深さは呉用にはない。呉用はなおも言葉を継ごうとする沙耶を遮った。
「だが、夢ではない」
いくら戻りたいと願ったとしても、たとえ呉用の生のあるうちに宋を打ち倒して太平の世を迎えたとしても、再び己が子供にものを教えることはできないだろう。たった今、両手の数ほどの人間を拷問にかけて殺してきたような男が。
人を殺めたのは、これが初めてだった。
後悔はない。あるはずがない。呉用がやらなくてはならないことだった。馬にも乗れぬ、剣も扱えぬ。せいぜいこの頭を搾って計略を巡らすだけだ。だが、致死軍や同志の皆に手を汚させて、自分ひとり、手を汚さずにいてよいものか。
「私が選んだ道だ。これが現実で、私にはやるべきことがある。果たさねばならぬ志がある。いや、もはや私ひとりの志ではないのだ」
沙耶はただ、視線を揺らがすことなく、まじろぎもせずに呉用を見つめていた。
喋りすぎている、と思った。
立場上、誰と親しくすることも許されない。そう定めていた。それは、梁山泊やこの国の各地にいる同志すべてに対してそうだし、同志と呼んでよいのかわからぬこの娘に対しても同じことだ。
「だから、その書はもう不要だ」
そう言い放って呉用が立ち上がると、沙耶は書を胸にかき抱くように抱えなおし、頭を下げた。
「……はい。つまらぬことを申しました」
ここに腰を下ろすのではなかった。
ここで立ち止まってはならなかった。
束の間、呉用は頭を下げたままの沙耶の姿を目を細めて見下ろして、やがて踵を返した。
栩栩然胡蝶也
――私か蝶か、いずれも、己であることに変わりはない