只だ是れ黄昏に近し

 杜遷が死んだ。
 祝家荘の周辺にはいくつもの罠が取り巻き、傍目にはただの荘であっても、並みの城砦よりも遥かに優れた防壁を誇っていた。攻めては、退却する。敵の追撃を誘い、防壁の外に出てきたところを叩く。そうすることで、罠を炙り出し、進路を見極める。
 そういうことを、繰り返していた。兵は倦み、疲弊していく。どれだけ戦力を削らずに陣へ戻れるか、そういう勝負になっていた。
 そんな中で、杜遷は己の部下を一人でも多く帰そうと、自ら油の罠に飛び込み、焼かれて死んだのだった。

 夜明けとともに、出撃する手筈となっていた。
 焦挺は、ずっと憂鬱そうにしていた。父親のように慕っていた男が目の前で焼け死んだ、それもあるし、何よりも杜遷の代わりを務めることになったのが、不安なのだろう。
 ともに戦おう、焦挺。そう声をかけて肩を叩くと、いくらかほっとしたような表情になった。焦挺は有能な男である。今は不安が先に立っても、ここを乗り越えれば、杜遷にも劣らぬ立派な将校になるだろう。
 杜遷。
 何事にもうまく立ち回っていた男の、思いがけない死にざまだった。宋万が暴れ回るのを杜遷が窘めるのが、いつもの二人の在りようだったのだ。
 やられた。杜遷、先を越されてしまったな。
 戦死の報を聞いた時、悲しむよりも先に、そう思った。男として、これ以上の死に方はない。どこかに、憧れのようなものを感じていた。だからかもしれない。その時、躊躇いもなく行動に移せたのは。


 罠の領域に入り込み、引く。幾度となく繰り返している動きだったが、宋万はふと、違和感を覚えていた。
 ――前に出過ぎている。
 撤退の合図を出しても、隊の一部は罠の方へ突出している形になっていた。敵は百名の小隊をうまく誘導し、他の隊から切り離していたのだ。誘き出すつもりが、逆に誘い込まれた。そういうことだった。
 百名が、敵に押し包まれようとしている。
 宋万はそこに、飛び込んでいた。敵の陣形が僅かに崩れる。ほんの僅か、綻び程度だ。そしてその綻びは、兵の数で押さなければ広がりえない。
「撤退だ! 退け!」
 叫び、しかし自身は身を翻して敵陣へ突き進んでいた。五人に二人の犠牲は覚悟すべきだ、と呉用は言っていた。たとえそうであっても、宋万の役目は、一兵でも多くを本陣に送り返すことだ。
 宋万は肚の底から吠えた。槍を振るう。
 敵は心なしか後方へ退き、味方の百名は陣への退却を始めていた。あとは、どれほどの時間を稼げるか――宋万の耳もとを、何かが掠めた。
 矢だ。
 埋伏された弓兵。百か、二百。宋万はたったひとりで、囲まれていた。
 肌が粟立ち、ぞわりと寒気が背筋を這い上がる。それはほんの一瞬だけで、以降、不思議と恐怖を感じることはなかった。何か、快感のようなものに、宋万は包まれていた。
「何やら、心がふるえるな、杜遷」
「ああ。久しく絶えて、なかったことだ」
 そう言葉を交わし合ったのは、いつのことだったろうか。随分と、遠い昔のことのような気がする。あの日から、それほど遠いところまでやって来たのだ。一度は曇りかけた志を蘇らせ、今日までそれを汚すことなく生きてこれた。
 宋万めがけて、雨のように矢が降ってきた。
 ――まず、もう十年近くの付き合いになる、弟のような存在の男の顔が頭に浮かんだ。俺はもう、ともに戦ってはやれん。焦挺、ひとりでも、しっかりやれよ。
 振り回した槍で、向かってくるすべてを叩き落とす。
 ――次に、憧憬や畏怖を以てその背を追い続けた、圧倒的な強さを持つ男のことを思った。林沖。俺は、おまえのように強くあれただろうか。
 落としきれなかった矢が、左腕に刺さった。具足が、どれだけを防いでくれるか。
 ――ひとりの娘のことを、思い浮かべた。
 安い髪飾りを贈っただけで、涙を流して喜んでいた。それが申し訳なく、後でもっと高価なものを買ってやろうとしたら、珍しく頑なになってこれがいいのだと言い張っていた。軍袍の裾を掴む手を引き離しにかかると、まるで身を切られているように辛そうな顔をしていた。宋万が訪ねると、いつも花がほころぶように笑っていた。
 沙耶

 ……沙耶



 降り注ぐ矢が、宋万の肩にも、足にも、胸にも突き刺さっていた。
 全身に矢を受け、ほとんど矢ぶすまのようになりながら、宋万は笑っていた。笑いながら、心に自然と思い浮かんだ誰かに向かって語りかけた。けれどその誰かの顔も声も、名前すら、もう思い出すことはできなかった。

只是近黄昏
――ただ、すべてが昏く閉ざされていく