鴬啼いて如し涙有らば

 聚義庁を出た阮小五は、日差しの明るさに思わず目を細めた。
 このところ呉用や公孫勝と、青蓮寺の動きについて議論するばかりだった。そうでない時間は、自室にこもって兵学書を繰り返し読む。もう何日も、そんな生活を続けていた。
 長い間躰を動かさないでいると、頭まで鈍ってくるように思えてくる。
 そういう時、阮小五は梁山泊の中を歩き回るようにしていた。たまに、晁蓋と出くわすこともある。聚義庁にこもることが多い呉用と違って、晁蓋は練兵所などによく顔を出すし、最近は湯隆の鍛冶場にも通っているようだ。
 特に行き先を定めていたのではなかったが、足は知らず、鍛冶場の方へ向いていた。何となく、晁蓋と会って話をしたいという気持ちが自分の中にあったのかもしれない。その東屋のそばを通りかかったのは、だから本当に偶然だった。
 そのまま東屋を通り過ぎようとした阮小五は、直前で歩を止めた。呉用が一度だけ洩らしたことのある言葉を、ふと思い出したからだ。踵を返し、東屋の卓で書物を広げている女の隣に立つ。
「おまえ、沙耶ってやつだろう」
「えっ? あ、はい……」
 目を丸くし、阮小五を見上げる沙耶。その隙だらけの手もとから、阮小五は書物を取り上げた。思ったとおり、それは阮小五が今日まで嫌というほど読み込んできたのと同じ類のものだ。
「孫子か。基本だな」
「……えっと」
 沙耶は阮小五を仰ぐ姿勢のままで、何度も瞬きをする。そのうちに首が折れてしまいそうだな、と阮小五は思った。呆けている沙耶に書を返し、卓を挟んで向かい合って座る。
「俺は、阮小五。呉用殿のもとで軍学を学んでいる」
「阮小五様」
 その音を確かめるように、沙耶は阮小五の名を口にした。
 晁蓋らとともに山寨入りを果たした日、阮小五もあの部屋に居合わせたのだが――女は阮小五のことを覚えてはいないようだった。声にほんの僅かの戸惑いを滲ませて、おずおずと問いかけてくる。
「あの、どのようなご用件でしょうか?」
「大したことではない。呉用殿が一度は軍師にと考えていた女の顔を、見てみたいと思ってな」
 言うと、沙耶は黙りこくってしまった。何か考え込んでいる。
 応えを待つ間に、阮小五は足を組んで投げ出し、卓に肘をついた。初めて会った時には病んだ感じがあったものの、今の沙耶にそんな気配は微塵もない。養生所で働いているらしいが、今日は休みなのだろうか。
 女の顔を眺めるのに飽きて視線を飛ばすと、遠く、湖面に浮かぶ舟影が見えた。この東屋からは、梁山湖の水面が一望できるのだ。梁山泊で暮らすようになって一年あまりが経つが、ここからの眺めには初めて出会う。
 ひょっとすると弟の小七が、あの舟に乗っているかもしれない。兄の小二は、水の上ではなくやはり造船所かな。そんなふうに思い巡らしているうちに、沙耶がようやく口を開いた。
「……もしや、わたしのことを言っておられるのですか?」
 長考をした末の返答が、それか。阮小五は笑い出しそうになった。
「他におるまい」
「いえ。どなたかと、間違っておられるのだと思います」
「間違ってなどおらん。まあ、女の軍師など、呉用殿もすぐに考えを改めたようだが」
「はあ……あ、そういえば」
 阮小五の言葉を疑わしそうに聞き果たす沙耶だったが、その後ではたと思い当たったようだ。
「白勝先生がお持ちくださる書の中に、兵法に関するものが妙に多く混じっていた時期がありました。この書もそうです。あまり気にしないで、読んでしまいましたが」
「……ほう」
 兵学書を渡されて、それを気にとめもせずに読んだという。
 たやすくそう言ってのけるあたり、呉用がこの女の才に関心を持ったのも――結局それは呉用が求める水準には至らなかったわけだが――当然だという気がする。
 阮小五を唸らせたにもかかわらず、沙耶は悄然と肩を落としている。
「つまり、わたしは知らないうちに見込まれて、知らないうちに見切りをつけられてしまっていたのですね……」
 その言い方がおかしくて、今度は我慢できずに、阮小五は笑った。
「そういうことになるな。だが、俺は少し試してみたくなった。付き合えよ」
「はい。何にでしょうか?」
 沙耶の疑問には答えずに、懐から、折り畳んだ地図を取り出す。呉用と戦を想定してやり合う時に、よく用いる地図だ。暇があれば眺めるようにしているので、いつも持ち歩いている。
 阮小五が卓の上に地図を広げるのを、沙耶は大人しく見守っていた。
「官軍がここに布陣をしたとする。我らはこの梁山泊から打って出る。まず、どう構える?」
「皆目、見当がつきません」
「早いぞ、おい。少しは考えろ。そこに手本があるだろう」
「あの、わたしは、兵法を勉強していたつもりは……読み物として面白いとは、思いますけれど」
「面白いのか?」
 さすがに驚きを隠せない。ぎょっとして見返すと、しかし沙耶は目をうろうろとさせ、ややあって観念したようにうなだれた。
「……少し見栄を張りました」
「ははっ」
 笑い声を上げてから、阮小五は、己がそうしたことを何だか不思議に思った。
 梁山泊に来て以来、こんなふうに笑ったことはなかった。晁蓋について梁山泊に入り、呉用のもとで軍学を身につけ、充実した日々ではあった。ただ、どこかで気を張りすぎていたのだろうか。
「まあ、戯れだ。何でもいい。思ったことを言ってみろ」
「はい……」
 沙耶は難しい顔をしつつも、ぽつぽつと意見を述べた。
 時に、阮小五がはっとするような的を射た発言もあったが、大抵はでたらめである。馬がどれほどの速さで駆けるのかを知らず、歩兵や騎馬がどのような地形を攻めるのに向いているのかもわかっていなかった。そういった無知さは、そこらの女と何ら変わりない。
 阮小五がひとつひとつを指摘していけば、とうとう沙耶は地図にかじりつくようにしながらまた黙ってしまった。考え込むと、相手への対応が疎かになる質らしい。
「じきに、また戦がある」
「あ……はい」
 沙耶に向けての言葉ではなかった。聞いておらずとも構わぬと――いや、この女の応えなど、決して求めていない呟きだったのだ。けれども阮小五の思惑に反して、沙耶は卓から顔を上げた。
「……次の戦では、俺が軍師をやることになるだろう。実戦で使えるかどうかを、試されるのだな」
 まっすぐにこちらを見つめてくる沙耶とは反対に、阮小五は地図に視線を落とした。
 地図の上に描かれた梁山湖のすぐ隣、ウン城の辺りを指で叩く。先の戦は、影の軍同士の戦いでもなく官軍を迎え撃ったのでもなく、こちらから外へ打って出た、梁山泊全体としての最初の戦だった。
「俺は、しょっちゅう命知らずなことをやるんで、短命二郎などと呼ばれているがな。他人の命を張るのには、慣れていない。俺の策に、何百、何千という兵の命がのる。そういうことにはな」
 かつては塩の道に関わり、何度も危険な橋を渡った。仲間を引き連れて製塩所を襲ったこともある。しかし仲間と言っても、せいぜい三十名といったところだ。それに、あくまでも盧俊義の指示に従って動くというかたちを取っていた。
 戦や、軍師を務めるのとは、違う。
 ――面を上げずとも、沙耶が息をひそめるようにして阮小五の言葉を聞いているのがわかった。
「わたしは……」
 ひそやかに届く、沙耶の声。
「わたしには、軍師としての才覚はありません。阮小五様がお求めになっている答えも、持ってはおりません」
「わかっている」
 舌打ちをしそうになるのを、阮小五はこらえた。瞼を閉じ、こめかみを押さえる。
 もし呉用に零したなら、甘えるなと厳しく突き離され、けれど阮小五が自分の足で立とうとするまで待っていてくれるだろう。晁蓋ならあの器の大きさで、阮小五の情けないところさえ呑み込んでくれるのかもしれない。それぞれのやり方で、きっと阮小五を救ってくれる。それでも、あの二人に弱音を吐きたくはなかった。安易に寄りかかるような真似はしたくはなかった。
 だからと言って沙耶に――今日はじめてまともに会話を交わしたような女に、吐露することになろうとは。それほどに、参っていたということなのか。
「無駄話が過ぎたな。忘れろ」
「ですが、あの……お話を伺うことくらいでしたら、わたしでもお役に立てるかと」
 思わず、沙耶を見やった。
 ずっとそうしていたのだろう、沙耶はいたって真剣なまなざしを阮小五に注いでいる。その、ちょっと思い詰めたようですらある女の表情に目をくれていると、やがてふっと腑に落ちた。
 人が己のうちに包み隠している迷いや弱さを、いともたやすく剥き出しにしてしまう――そういう気質が、この女にはある。
 それは、沙耶自身がそうだからだ。沙耶が抱える不幸や纏う寂寥感が、あらわになっているその弱さが、そうさせる。沙耶を見ているだけで、人の弱さというものを見せつけられているような、そんな気持ちになってくる。ゆえに阮小五は、自らのそれを自覚せずには、それと向き合わずにはおれぬのだ。
「……愚痴なら今、言った」
「そう、ですか?」
 拍子抜けしたような様子の沙耶である。さまざまに思ったことを秘し、阮小五はにやりとした。
「だからもうしばらく、おまえの拙い策を披露してみろ、沙耶。それで、いくらか気が晴れる」
 沙耶はむっと眉根を寄せる。
「頭のいい人の息抜きの仕方ってわからない……」
「何か言ったか?」
「……何でもありません」
 拗ねたふうではあったが、沙耶はまた卓上の地図を睨み始めた。
 難儀なやつだな。女のつむじを眺めながら、阮小五は思う。
 おそらく梁山泊には、沙耶と対するだけでただひたすらに苦痛を覚える男もいる。そして沙耶は自身の抱えるものだけで手いっぱいで、相手のそれを分かち合い、癒すことなどは到底敵わぬに違いない。

鴬啼如有涙
――その嘆きは、露に湿らぬ高枝の花さえも濡らすのだ