Mar. 2002

 辺りはとても静かだ。
 それはそうだった。何せ、明日から春休みなのだ。そんな日にいつまでも学園に残っているバカはいまい――そう考えてから、都季は自分自身の思考に苛ついた。じゃあ私はバカなのかよ、くそう。
 都季だって、本来ならとうに学園とはさよならをしていたはずなのだ。都季のクラスは帰りのHRが他よりも長かったから、みんな早く教室を出たくてそわそわしていて、それは都季も例外ではなかった。落ち着かない理由は、そればかりではなかったけれど。
 説教が長すぎるんだよ、あの熱血教師。そんな空気読めないからまだ独身なんだよバーカ。などと、胸中で八つ当たりまがいの悪態をつく。本命の悪口は出尽くしてしまったので、苛立ちの対象がころころ変わってしまう。
 ふと、都季は友人たちに、カラオケに誘われていたことを思い出した。今から行っても間に合いはするだろうが、こんな顔では行けるはずもなかった。
 あーあ、今頃楽しんでるんだろうな。なのに何で、私は校舎裏で一人、寂しく惨めにぐずぐず泣いてなきゃいけないわけよ。
 溜息とともに、ようやく引っ込み始めていた涙がまた溢れてきた。
 都季は今日、失恋した。いや、それさえも、させてもらえなかったのだ。




「――桜井っ」
 校門の手前でその後ろ姿を見つけて、都季は声をかけた。
 桜井は都季の声に足を止める。ついでに、その隣を歩いていた相楽も一緒に振り返った。
「やあ、高橋さん。俺の名前は呼んでくれないの?」
「……だって相楽には用ないし」
「うわ、冷たい」
 相楽のこういう言動はいつものことなので、適当にあしらっておく。
 問題は桜井だ。都季がおずおずとそちらに視線を移すと、
「俺に何の用だ? 高橋」
 向こうからそう尋ねてきた。
 意気込みは十分のつもりだったが、いざその時となると言葉に詰まってしまう。どうしよう、何て切り出そう。
「あいにくとこの桜井ハンサム之介、スケジュール帳は一年先までぎっしりだ。他を当たってくれ」
「はあ? どんな妄想手帳よ、それ。商店街のタイルをぼんやり数えるのが日課のくせにさ」
「俺がいつそんなことをした!」
 しまった。都季は後悔した。毎度のごとくボケてくるから、ついいつものノリで切り返してしまった。桜井とは明日からしばらく会えないし、二年に上がったらクラスが別々になってしまうかもしれないのだから、何とか本題に入らなくては。
「ちょっと……話があるん、だけど」
「じゃあ俺は先に行ってるぜ、舞人」
 口ごもった都季に、察してくれたらしい相楽は、それだけ言ってさっさと踵を返した。がんばれよ、その言葉の代わりに都季に片目を瞑ってみせて。正直その仕草は寒かったが、都季は心の中で相楽を拝んだ。
 当の桜井は、校門をくぐる相楽の背中を怪訝そうに見やった後で、都季の方に向き直った。
「……で、何だ?」
「えーと……」
 緊張で、頭の中が真っ白になる。手のひらが汗でべとべとだ。
 本当だったら人のいないところまで移動するのがベストなのだが、それまで心臓が持ちそうになかった。不幸中の幸いで、HRで担任の話が長かったから、今はもう周囲に学生の影は少ない。
 うん、今しかない、言え、私。自分にそう喝を入れるが、しかし何と言うのが一番なのだろう。土壇場で悩む。いや、奇を衒っても仕方がない。ここはオーソドックスに、好きです、付き合ってください……ああダメだ。長くて噛む。好き、付き合って。よし七文字だ。
「すっ、好き……なんだけど……つまり、わ、私が、桜井をねっ。だから、つっ、付き合ってよ」
 どもりすぎた。しかも結局字数が増えている。
 桜井はすぐには何も答えなかった。俯いている都季からは、桜井の表情が見えない。
 答えを待つ時間はまるで永遠のように感じられた。緊張のあまりに吐き気まで覚える。心臓の活動は都季の人生を終わらせる勢いで、それはもう大騒音を発している。
 生殺しだ。私の寿命が尽きる前にさっさと返事をしろこの非ハンサム。
 都季が地面を睨みながらそう念じていると、ようやく桜井が言葉を発した。
「高橋――」
 むしょうに嫌な予感がして、都季は顔を上げた。その声音は、桜井がいつものくだらない冗談を言う時のそれだったのだ。
「お前もようやく、この桜坂に君臨するプリンスの魅力がわかったか」
「……は?」
「しかしな、スターは等しく皆のものであってこそのスターなのだ。これも俺のカリスマ性ゆえの宿命だと思って、諦めてくれ。桜井舞人の至高のエンターテイメントはその影に永遠の孤独があってこそなのさ」
「なっ、ちょ、さく」
「それじゃあな、縁がありゃまた新学期」
 口を挟む隙もなく、桜井はそうまくし立てると、逃げるように行ってしまった。
 呆然。
 都季は一人取り残されて、埴輪みたいな顔でその場に立ち尽くした。
「…………マジで?」
 マジだった。
 都季の告白はボケ倒されて終わってしまった。




 その後、都季は泣いた。
 わざわざ校舎裏まで行って泣いて泣いて泣きまくった。
 どうしようもなく惨めだった。
 彼は、都季の言葉を冗談と取り違えたのではなかった。都季が本気だと知っていてこその、あの態度だったのだ。
 去年の四月、教室で初めて出会った時から、桜井はずっとそうだ。社交性はあるのに、友達はいない。と言うよりも、作ろうとしない。あの軽口で巧妙に隠してはいるが、人に好意を持たれることをどうしてか避けている。それはこの一年、都季が桜井を見ていて気付いたことだった。
 それでも、いくつか例外はある。相楽や、桜井の数少ない友人。それには都季も含まれているのだと、自分ではそう思っていた。桜井にとって少しは特別な存在であるのだと。
 けれど、それはまったくのカンチガイだったのだ。
 何故ならつい今しがた、一線を引かれてしまった。これ以上こちらに近付いてほしくないという、明らかな拒絶を受けてしまった。
「桜井……」
 都季は思い返して、またさめざめと泣いた。そして何度目かの怒りも湧いてきた。
 つーか、ふつうに振りもしないって、何よ? どんだけ外道なのよ、桜井は。
 怒りはすぐに激流のようにその勢いと大きさを増して、都季の頭は瞬間的に沸騰した。
「ああもう、人の告白を勝手に冗談にするなっ、桜井のばかーっ!」
 叫ぶ。腹の底からの絶叫だった。
 声を出し切ると思いのほか気持ちよくて、都季は爽快感に身を震わせて息を吐いた。内を渦巻いていた激情が、急速に萎んで小さくなっていく。
「……はあ、スッキリした。帰ろ」
 独りごちて鼻をかみかみ立ち上がった時に、ガラリと背後の窓が開いた。
「…………」
 思わず固まる。
 窓があるのには気付いていたが、その向こうに人がいるとまでは思っていなかった。でなければあんな声は上げていない。
 振り向く。振り向きながら思った。バカ、顔を見られる前に逃げ出せばよかったんだ。もう遅いけど。そして半ば投げやりな気分でとうとう完全に振り返った都季は、心底びっくりした。
「ドっ……!」
 びっくりしすぎて変な声が出た。
 サッシの向こう側から、金髪の男が都季を見下ろしている。漂ってくるレモンバームの香り。着ている白衣は少しも似合っていない。どうやら、ここは保健室の裏だったらしい。都季の目の前にいたのはこの学園の養護教諭、ドクターイエローこと谷河浩暉だった。
「何やってんだ、てめェ」
 眼鏡の奥の瞳を露骨に不機嫌そうに細めて、谷河は言った。整った中性的な顔立ちからは想像もできないような、粗野な喋り方をする。話に聞いてはいたが、その不整合さを目の当たりにしたのは初めてで、都季はしばらく唖然としてしまった。
「……聞いてんのかよ、オイ」
「き、聞いてます聞いてます」
 腰が引けてしまう。見目はいいから女子からの人気はあるが、都季は彼が苦手だった。だって、金髪ロンゲの保健医って何かヤだ。
「何をやってるのかと言われると……泣いてました」
「うぜえ。ガキはさっさと家に帰ってクソして寝ろや」
 都季はたっぷり数十秒は絶句した。
 は? この方、今、何ておっしゃいました? うぜえとか帰れとかあまつさえク……何でこの人にそんなこと言われなきゃならないのよ? 自分のところの学生が泣いてたんだから理由を聞くとか相談に乗るとか慰めるとかいろいろあるんじゃないの?
 という諸々の思いを一言に込めて、キッパリ告げる。
「イヤです」
「……ああ? 俺の城の裏でびーびー喚かれたら迷惑だっつってんだよ。失せろ」
「そうするつもりでしたけど、たった今誰かさんのせいでその気が失せました。思う存分もう騒音公害なくらい泣き喚こうかと思います」
「…………」
 谷河の眼光がいよいよ鋭さを増す。最初は「言ってやった!」という満足感があったものの、無言の圧力に次第にそれはしゅるしゅる萎えていって、都季は無意識に後退った。
「そっ、そんなに睨んだって、怖かないですよ」
 都季が及び腰でびくびくしていると、それまで射殺されんばかりだった谷河の視線が、ふとやわらいだ。
「上がれ」
「へっ……」
 谷河はくるっと背中を向けて、ぽかんとしている都季を置いて保健室の奥へ引っ込んだ。
「茶ァくらい出してやるよ」
「は、はあ、おかまいなく……って、はあ!? 茶!? ティーですか!?」
 谷河を追うように窓枠に飛びつく。今の流れのどこからそんな話になるのだろうか。
「生憎それしかねえんだ。贅沢言うなよ」
「いやいやそういう問題ではなく……」
 まごついていると、谷河はすさまじい目つきで振り向いた。
「おい、来るのか来ねえのか、どっちだ」
「上がらせていただきます、ハイ」
 都季は即座に頷いた。決して恐怖に屈したのではない。
「お、お邪魔しまーす……」
 靴を脱ぎ、よじ登って窓枠を乗り越える。なかなか新鮮な体験だった。
「ほらよ。当てとけ」
「ぎゃあっ」
 入った途端、顔めがけて何かを放り投げられる。べちっと湿った感触に、都季は女にあるまじき悲鳴を上げた。
「うぁ、ど、どうも……」
 濡れタオルだった。ありがたく使わせてもらうが、どうせなら普通に渡してほしかった。
 ……何でこんなことになったんだっけ?
 混乱しながら促されるままに椅子にかける。その前には、やけに高そうな洒落たテーブル。保健室にこんなテーブルがあるのっておかしくない? どんな優雅な職場だよ。そんな微妙な気分になった都季に出されたのはハーブティーだった。 「似合わねー……」
 ぽろっと声に出して漏らしてしまった。途端に、ドスの効いた声が返ってくる。
「あ? なんつった?」
「いえ。大変おいしゅうございます、と」
「まだ飲んでもねえだろうが」
 テーブルに額をこすりつけていた都季は、言われて、慌ててティーカップを手に取った。向かいに立った谷河は都季をしばらく眺めて、それから言った。
「お前、桜井に告ったんか」
「ぶっ!」
 最悪のタイミングで爆弾を落とされた。盛大に噴いて、むせる。谷河は嫌悪感丸出しでこちらを睨んでくるが、文句を言いたいのは都季の方だ。今のはアンタのせいだよ。つーかわざとだろ。
「げほっ……あー、まあ、ダメでしたけどね」
「腐るなよ。男を見る目はあんじゃねえか」
「そうですか」
 友人に打ち明けた時には化け物を見るような顔をされたが、谷河はその反対の感想を持ったらしい。
 それ以上触れられたくもなかったので、都季は話を変えた。
「ド……谷河先生は、まだお仕事ですか」
「こっちは学生と違ってヒマじゃねえからな。それ飲んだら帰れよ」
 もしかして、職務妨害をしてしまったのだろうか。僅かばかり(小指の爪の甘皮くらい)の罪悪感を覚える。
「えーと、よければ、何か手伝いましょうか」
「ハッ」
 せせら笑われた。
「クソガキが、つまんねえ気遣いすんじゃねえ」
「……それはどーもすみません」
 誓った。もう二度と言うまい。
 会話を打ち切るべく、ハーブティーを呷る。けれどその間も、都季の意識は谷河に向いていた。
 これまでは何となく苦手意識だけ持っていたが、今は何だか、よくわからない。話せば話すほどわからなくなっていく。異様に口が悪くて、ガラも悪くて、でも微妙にそんなにヤな奴でもないような。いや、でもやっぱりヤな奴だよなあ。わかんない。
「ごちそうさまでした」
 最後の一口を飲み干した。
 ひとつ確かなのは、都季はもう今のところ、あれ以上泣く気はさっぱりなくなったということだ。