Jun. 2002

 六月一日――衣替えの日、都季は登校中に桜井とばったり出くわした。
「衣替えっていいよね」
「まあ、そうだな……って、女も嬉しいもんなのか?」
 桜井は一旦頷いておきながら、不可解なものを見るような目つきで都季を見返す。
「だってさあ」
 都季は制服の白い襟を摘んだ。
「脱・食い倒れ人形」
「ああ……」
 桜井の脳裏には、冬のあのストライプのブレザーが思い描かれていることだろう。
「女子の夏服はかわいいけど、男子はどっちもヒサンだよね。桜井なんて目も当てられないしー」
「うるせーよ」
「てかアンタ、衣替え嬉しいんだ? 異性なんて興味ありまセーンみたいな顔して、むっつりですか」
「ばっ……ぷ、ぷじゃけるなよ貴様! 全宇宙に名を轟かす精神的インポテンツのこの俺が、女の薄着ごときで期待に胸を弾ませると思うな!」
「あーはいはい、学園はまだかな~。希望ちゃんの夏服お披露目が楽しみですねえ~」
「……くそっ、どうせ俺の血潮は桃色だよ! ぷんぷんっ」
「ぷんぷんて……どんなキャラだよ」
 最近では、桜井や希望と話をする時も幾分か心穏やかにしていられた。それは今の関係に慣れたからでもあるし、自分の中の葛藤を自覚できたからでもあるだろう。それに関しては、あの養護教諭にほんのちょっとくらい感謝の意を示してやってもいいと思わなくもないような気がしないでもないと言えないことも……いや、やっぱり、ない。
 あれだけ頻繁だった保健委員の呼び出しは、あの日以来、ぱたりと止んでいた。
 谷河のことを思い出すたびにむかむかして、都季はもちろん、自主的に保健室には足を運ぶことはしなかったが、その時はまもなく訪れた。




 それから何日も経たないうちの昼休み。
 都季は保健室の前で煩悶していた。右手をドアにかけようとしては戻し、かけようとしては戻しを繰り返している。
 入りにくい。とてつもなく入りにくい。
 いや、でも、別に、臆する必要は全然まったくこれっぽっちもないのだ。都季は自身を奮い立たせた。うん、そう。ドクターイエローがどんなにヤな奴だろうと、これは保健委員の務めだから。だから、私がしり込みする理由もなし。よし、入る。
 と、ようやく決意して取っ手にかけた手に力を込め、引き戸を引く瞬間、
「……何やってんだ?」
 後ろから声がかかった。
「――た、谷っ!」
 ぎょっとして振り向く。さらに舌を噛んだ。勢い余って背中がドアにぶつかって、高い音が響いた。
「あァ? 何だ、その反応は。何かやましいことでもやってたンか」
「いえっ、そ、外にいたんですか、谷河先生」
 目当ての人物と思いがけないところで鉢合わせして挙動も不審な都季を谷河は訝しげに見下ろしていたが、都季がそうやって尋ねると、その口元に意地の悪い笑みが浮かんだ。
「ああ、召使いがいなくなっちまったんで、食糧を調達によ」
「はあ? 誰がめしつかいたいいたいいたいいたいっ」
「話は中でしろ」
 谷河は片手で都季の頭を鷲掴みにすると、もう片方の手で保健室のドアを開け、都季を引きずるようにして中に入った。後ろ手にぴしゃりとドアを閉めた途端、ごみをポイ捨てするみたいに都季を放り出す。
「横暴ですよ!」
 都季はふらつきながら、再び伸びてくるかもしれない魔の手に備えてガードの姿勢を取った。
 しかし、谷河は都季を放って奥まで行くと、オフィスチェアに腰を下ろして乱暴に足を投げ出した。煙草を取り出して火をつけるまでの一連の動作を見守ってから、都季は構えを解く。
「……で、何だ」
「はい?」
「何か用があんだろ?」
「あー……っと」
 都季は口の中でもごもご呟いた。谷河自身は何も告げずとも、苛立たしそうな目が早く言わねえとツブすぞこんボケと語っているので、仕方なく続ける。
「桜井、……来ましたよね? 今朝」
 くわえ煙草の谷河はうんともすんとも言わない。都季は急に恥ずかしくなって、早口でまくし立てた。
「あのバカ、朝から具合悪いってはしゃいでて、演説までしてノリノリで保健室行ったってのに、わりとすぐ戻ってくるし、戻ってきてもまだ気分悪そうだし、何か聞いても要領得ないし……だから、桜井の病状を聞きにきたんですけど」
 場合によっては、それを浅間に報告して、早退を勧めるつもりだった。桜井が具合が悪いのも押してでも、授業を受けるような真面目さを持ち合わせているとは思えないが、都季にはひどく無理をしているようにしか見えない。
「ほーお。健気だねェ」
 谷河が馬鹿にするような口調で言うので、都季はムキになって反論した。
「違いますよ! 保健委員の務めとして!」
「ンなもんに責任感持ってる奴がいるかよ。素直に言ってみ、桜井クンが心配でーってな。そしたら教えてやってもいいぜ」
「……もういいです!」
 やっぱり、どんなことがあっても、こいつに会いになんか来るんじゃなかった! 頭に来た都季は吐き捨てて、谷河に背中を向けた。
「二日酔い」
「は?」
 呟くように言葉を投げかけられて、思わず振り向く。目が合うと、谷河はにやりと笑った。
「二日酔いだよ。クソジャリが、いっちょまえにな」
「は……ふっ、ふつかよい~!?」
 衝撃の事実である。
 都季は脱力して、ふらふらとドアにもたれた。
 おそらく、本人も谷河に指摘されるまでそうと気付かなかったのだろう。それでは確かに、都季や希望らがあれだけ心配した後だ、言葉を濁すしかあるまい。恥を忍んでここまでやって来た自分が馬鹿馬鹿しい。
「おい」
「何ですか……」
 すぐに立ち直れないでいた都季は、緩慢な動作で顔を上げて谷河を見やった。
「放課後、保健委員のお勤めだ」
「……具体的には?」
「保健室の配置換えをやんだよ」
「それ、私用ですよね!?」
 職権乱用だ。都季がそう訴えると、谷河は煙を吐いて口角を吊り上げた。
「貸し一つ。それで済むなら、安上がりだろ?」
「ぐう……」
 桜井のやろう、いつかシメてやる……都季は歯軋りをした。


「おーもーいー。超重いー」
 都季は不満たらたらの体で保健室の備品を移動させていた。
「キリキリ働けよ」
 そう言う谷河は涼しい顔で椅子にかけている。憎たらしい。
 都季はゆっくりテーブルを運ぶ。その重みに力尽きてしまいそうで、腕ががくがくしている。傷を付けたら怖ろしい目に遭わされそうなので、一旦床に下ろした。
「ぶっちゃけて言わせていただきますが、これは女子にやらせる仕事じゃないんじゃないですか」
 都季が抗議すると、谷河は眉を顰めた。
「人手が捕まらねンだよ。先週は桜井を捕まえたんだけどよ、弥太郎に見つかっちまった。間の悪いこった」
「てか自分でやれよ」
 つい本音が漏れた。案の定ギロリとねめつけられる。
「ああ?」
「いえ。労働の汗は気持ちがいいなあ、と……」
 慌ててテーブルを抱えなおそうとして、都季は足を滑らせた。
「わっ」
 テーブルごとという事態は何とか避けられたものの、都季は間抜けにもその場で転んでしまった。
「いっ、たー」
「何やってんだバーカ」
 浴びせられたのは谷河の呆れ返った声である。
「ば、バカはないでしょう、バカは」
 都季は口を尖らした。しかし自分でも情けないとは思う。急いで立ち上がろうとして――
「痛っ」
 呻いて、ぺたんと座り込んでしまった。右の足首が、燃えるように痛い。変に捻ってしまったのだろうか。悪いこととは重なるものだ、よりにもよって天敵ドクターイエローの前でこの失態とは、恥の上塗りだ。
「見せてみろ」
「うわあっ!?」
 突然右足を掬い上げられて、都季は後ろにひっくり返りそうになる。それは寸前で免れたが、代わりに強く床に肘をぶつけて、びりびり痺れたようになった。
「ちょ、ちょっ、――谷河先生!?」
 いつの間にか谷河が隣に膝をついていて、都季の足を診ているのである。都季の声に、谷河は煩わしそうに目を細めた。
「ンだよ」
「別にそんなに痛くないんで、いいです! 放してくださいって!」
「今痛いっつったろ。俺はこれが仕事なんだから、変な遠慮すんな」
「…………」
 何故だか、都季は言葉に詰まってしまった。
 都季が口を閉ざしていると、谷河も言葉を発しない。さりげなくスカートの裾をなおして、大人しく谷河にされるがままになる。
 手持ち無沙汰に、間近にある谷河の顔を眺めていると、自然と溜息が出た。
「人の顔見て溜息ついてんじゃねえよ」
「無理です。嫌でもつきます」
 ……本当に、今日は散々だ。