May. 2002

 授業終了のチャイムは耳に心地よい。それが、特に四時限目のものだとなおさらだ。
「やったーお昼だねっ、都季ちゃん」
 教師が教室を出て行くやいなや、弁当箱を持った希望がやって来た。席が近いこともあって、都季はよく希望と一緒に昼食をとる。それにつばさや桜井、相楽が混ざることも多い。
「そだね。私さっきの時間、もうお腹鳴りっぱなしだったよ」
「うんうん、私もー」
 昼食を用意しながら談笑していると、教室の入り口から浅間が顔を出した。
「――高橋、いるか?」
「いませーん」
「こら、嘘をつくな」
 やって来た浅間に、出席簿で頭を軽く叩かれた。
「HRで言い忘れたんだがな、保健委員は昼休み、保健室に来いとのことだ」
「昼休みって……今からってことじゃないですか?」
「ああ、そうだ。すまんな」
 浅間は用件だけ伝えると、行ってしまった。都季は額を抑えて天井を仰ぐ。
「マジで? めんどーい」
「大変だね。都季ちゃん、お昼どうする?」
「戻ってきてから食べる。どれくらいかかるかわかんないし、希望、先に食べてていいよ。桜井でも誘ってさ」
 桜井は授業が終わったのにも気付いていないのか、机に突っ伏して居眠り続行中だ。都季が桜井の席の方を指差せば、希望は目をぱちぱちとさせた。
「えっ、さくっち?」
 一度五人で遊びに行った頃から、希望はつばさに倣って桜井をあだ名で呼ぶようになっていた。
「あいつ友達いないから、喜ぶんじゃない?」
「……う、うん、どうしよっかなあ」
 微かに頬を赤らめて、希望は迷うような素振りを見せた。それがフリだけなのはすぐにわかる。
「私が誘ったら……ほんとに喜ぶと思う?」
「それはもう。泣いて踊り狂うね」
「ええー、ありえない。うそっこだよ」
「喜ぶのは間違いないって。じゃあ、私、行くね」
「あ、うん。行ってらっしゃい、都季ちゃん」
 希望に手を振って、都季は保健室へ向かった。
 廊下を歩きながら、自分の髪の先をくるくる指でもてあそぶ。
「何だかなあ……」
 希望はかわいくて、気さくないい子だ。その不思議な人当たりのよさで、するりと桜井の心の中に入っていってしまった。そして希望の方も同じように、桜井に惹かれているように見える。
 相楽は、相手が誰であれ、桜井が一人の女の子にふつう異性に抱くような好意を示し始めているのが喜ばしいようだ。都季だって、これまで人を拒み続けていた桜井の変化は嬉しい。たとえ、その対象が都季でなくても。
 ……けれど、少しも含むところがないと言えば、嘘になる。桜井を後押ししたがっている相楽の手前、そんな感情はひとかけらも表には出せないが、桜井や希望と一緒にいて胸が晴れないことはしばしばだ。自分では、桜井のことは完全に割り切って、諦めているつもりなのだが。
 希望のことは好きだ。でも、だからこそ、後ろめたさを感じてしまう。
 保健室に着いたので、都季は自分の思考をむりやり打ち切った。
「失礼しまーす、2A保健委員です」
 何か作業中だったのだろう、オフィスチェアに腰かけている谷河は、相変わらずの鋭い目つきで、半身をこちらに向けた。その拍子に、ギッと背もたれが軋む。
「遅え」
 谷河の第一声はそれだった。
 昼食を後回しにしてすぐに来てやったのに。カチンと来て、都季は口を尖らした。
「……文句なら、浅間先生に言ってくださいよ」
 谷河はそれには応じずに、短く言った。
「パン買って来い」
「パシリかよ!」
 思わず大声で突っ込んでしまってから、都季はハッとなって口を塞いだ。
「…………」
 少しの沈黙の後、谷河は立ち上がってずかずかと都季の目の前までやって来た。たじろいだ都季が後退りをする寸前に、片手で都季の両頬を掴む。ぐぐっと圧迫されて、都季はタコみたいな顔になった。
「てめェ、この俺にそんなクチ利いていいと思ってんのか? あァ?」
「ひはひっ、ひあひへうっ」
 手加減はしているのだろうが、とてつもなく痛い。何とかどかそうと谷河の手を掴んだが、びくともしなかった。やがて気が済んだのか、谷河は都季を解放すると、五百円玉を投げ渡した。
「五分で戻って来いよ」
「は~?」
「返事が聞こえねえなァ?」
「りょ、了解いたしましたっ」
 都季は再び谷河の手が伸びてくる前に慌てて後ろへ下がると、購買へ駆け出した。
 保健室と購買は正反対の位置にあって、少し遠い。使い走りを終えて息も切れ切れに戻ってくると、
「遅え」
 二度目の駄目だしをされた。
「……だったら自分で買って来いよ」
「ンだと?」
 こっそり呟いたつもりだったのだが、すぐさま人も殺せそうな視線が飛んでくる。都季はごまかしに恭しくパンを差し出した。
「いえ。こちらが献上品でございます、と」
「菓子パンかよ」
「しょうがないじゃないですか。こんな時間だと、いいやつはもう残ってないですよ」
 谷河は都季の手の上のパンを毟り取るように受け取った。
「あ、おつりを」
「取っとけ」
「いや、取っとけって言われても……」
 横暴なのだか良心があるのだかわからない。いや、まあ、前者なのだろうけれども。
 保健委員とは名ばかりで、都季はこうして呼び出されては雑用やら何やらをよく押し付けられた。時折、本来の保健委員の仕事があったりもするので、なかなか不用意には無視できないのである。それでなくても谷河はこんなだし終業式のこともあるしで、何だかんだ言いつつ、都季は言われるままに請け負っていた。……それに、クラスを離れる口実ができるのは、ほんの少しだけありがたい。
「先生、今日のパシリはこれだけですかー?」
「コピー」
 紙の束を押し付けられる。
 私はOLか。
 学習した都季は、今度は声には出さなかった。
「コピー機って職員室ですよね?」
「ああ、ヤタローにはチクんなよ」
「やたろう?」
「てめぇンとこの熱血バカだよ」
 ひどい言い草だが、その低い声には不思議と親しみのようなものが滲んでいた。
 ああ、浅間か。思い当たって、都季は頷く。二人が同期らしいというのは聞いたことがあった。浅間なら、都季のこのパシリ状態を知れば、谷河にだって説教のひとつやふたつ喰らわせるだろう。
「へー……」
 あの戦慄のドクターイエローにも、弱点はあったのか。都季がにやにやしていると、いつの間にか谷河の顔がすぐ近くにあった。避ける間もなく顔を鷲掴みにされる。
「……なに考えてんだてめェはよォ?」
「はひほはんあえへはいえふっ」
 学習できていなかった。
 必死に谷河の魔の手から脱け出して、都季はひりひりする頬をさすりながら、任務を果たすべく保健室の扉に手をかけた。
「おい、高橋
「何ですか?」
 呼び止められ、つっけんどんに応じる。急がなければ、昼食を食いっぱぐれてしまう。
 振り返った先にいる谷河の表情は、思いのほか真剣さを帯びていた。
「そのひでぇツラ、どうにかなんねえのか」
 その表情でそんな暴言を吐くものだから、都季は素で「は?」と返してしまった。
「……失礼な。生まれつきです」
「違ぇよ。いつまでもウジウジしてねえで、ちったあマシなツラできねえのかっつってんだ」
 ――横面を張られたような気がした。
 谷河は都季の視線を絡め取って、それを逸らすことを許さない。都季は自分でも蓋をし続けているような、心の底までを見透かされた気がして、羞恥と怒りで目の前が真っ赤になった。
「そんなの、言われなくたってわかってます!」
 言い捨てて、保健室を飛び出す。
 自惚れて、特別だと勘違いしていたことが恥ずかしかった。いつまでも桜井のことを引きずっている自分が嫌だった。
 それなのに、希望が羨ましい。都季がずっと望んでいたものをあんなに簡単に手に入れてしまった希望が。
 そんなふうに考えしまうことだって、みっともなくて情けないことだ。希望と笑い合いながら、その実、胸のうちではいつも負の感情が吹き荒れている。桜井と希望にはうまくいってほしいと願っているはずなのに。願っていないといけないのに。
 都季は目元をごしごし擦った。
 よほどトイレかどこかに駆け込もうかと思ったが、谷河に逃げたと思われるのは癪だった。意識せずとも、足はすでに職員室に向かっている。
 きっちり仕事を済ませて保健室に戻ると、谷河は煙草をふかしていた。戻ってきた都季を見て、僅かに瞠目する。それに少し溜飲を下げた都季だったが、それくらいでは苛立ちは治まらない。
 大股に歩いていってプリントの束を突き出すと、煙草を口から離した谷河は喉の奥で笑った。
「……何かおかしいですか?」
 都季は顔を顰めた。谷河は答えずにいつまでも笑っている。
 イライラして、都季はしかめっ面のままプリントを机の上に叩きつけると、踵を返した。
高橋
 扉の前まで来たところで、声をかけられた。都季は足を止めただけで顔をそちらに向けることもしなかったが、谷河は続けた。その声は、もう笑ってはいなかった。
「もうしばらくは逃げ場所になってやンよ。てめぇの働きぶりに免じてな」
 都季はドアを開けて、廊下へ踏み出しながら振り返ると、
「お断りします」
 そう言って、乱暴にドアを閉めた。
 教室へ向かって駆け出す間際、扉の向こうから、不良教諭の笑い声が聞こえてきた気がした。