杯に満ちる毒 前編
暗がりから、己の名を呼ぶ声がした。「白薇」
「……兄様?」
声の正体を確かめずとも、このように音もなく白薇の寝所に忍んでくる者は、ひとりしかいない。枕もとにある灯台に明かりを入れると、いつからそうしていたのだろう、壁を背にして立つ兄の姿がぼんやりと浮かびあがる。
寝台の上に起きだし、白薇は夜着の裾をなおした。
「兄様ったら。訪いを入れてくだされば、どんな夜更けであろうとお迎えしますのに」
「だったら、忍ぼうと訪いを入れようと、どちらも同じことだろう」
白薇が口を尖らしたのを、兄は鼻で笑い飛ばした。続けて言う。
「明日、北京大名府へむかえ」
「はい、わかりました」
なんのために、とまで兄は言わなかった。白薇もまた、尋ねなかった。
時折こうして指示を受けては、言われるままに場所を移っていく。妓楼で暮らすこともあれば、どこかの役人に囲われることもあった。なにか情報を聞きだせと命じられたらそうするし、殺せと命じられたらそうする。もっとも白薇は荒事にはむかず、兄も殺しの仕事は好まないから、後者の命がくだることはおそらくないだろうけれども。
「なかなか、面白い男だ。俺は気に入っている」
「あら。兄様がそんなふうにおっしゃるなんて、珍しいですね。愉しみです」
白薇の応えに、兄はちょっと笑ったようだった。
「もうお帰りになるのですか?」
「俺も暇ではないのでな」
「……兄様は、いつもそればかりです」
白薇はいじけた態度で顔をそむける。すると、
「なんだ。遊んでほしいのか、白薇?」
囁きが、思いのほか近くからあった。
驚いて見やれば、兄はいつの間にか寝台のすぐそばまでやってきていた。
いま拗ねてみせたばかりだと言うのに、胸が高鳴るのを抑えられない。それを見透かしたように兄はかすかな笑い声をあげ、白薇の髪の一房を掬いあげる。
「そうだな……このところ女を買う暇もなかったから、おまえと遊んでやるのもいい」
一度は問うておきながら、兄の口調は少しも答えを待つそれではない。
白薇はふるえた。恐怖や嫌悪からなどではない、躰のうちから滲みだすような、けれど違えようのない歓びに。ふるえは、声にまで伝わっていく。
「私には、兄様を拒む権利など、ないのですよね」
「そうだ」
髪を弄ぶ手を止め、兄は白薇を見やった。
吐息がかかるほど近くに、兄の顔がある。このやりとりは、房事に及ぶ前にいつも行われる、儀式のようなものだった。蕩けるような気分で、白薇は兄を見つめ返した。
「私は、兄様が情欲をそそぐためだけにある、道具なのですよね」
「……よくわかっているではないか、白薇」
兄が笑う。
声だけでなく、この近さであれば、暗がりの中でもはっきりとその表情を見てとることができた。口もとを歪ませる、酷薄な笑み――けれども兄の手が首筋にかかった時、白薇はふと、いま浮かべられた笑みとはまったく別の感情を、兄の眼の奥に見た気がした。
朝になると、兄の姿はどこにもなかった。
手筈はすべて整っており、白薇は商人の一行に紛れ数日をかけて北京大名府に入った。
北京大名府は、賑わいのある城郭である。
商店の並ぶ騒がしい通りを抜け、大きな屋敷に辿りつく。訪うと、すぐに奥へ案内された。使用人が何十人もいるような屋敷で、広大な敷地の中には家や蔵がいくつもあり、そのうちの一棟にすでに白薇の部屋が用意されてあった。
到着したその日の晩、白薇の主となる男に呼ばれた。
学者か文官という風体で、整った顔立ちだが、どこかこわい眼をした男である。白薇が挨拶をしようとしたのを煩わしそうに遮り、男はこう言った。
「おまえのことは、蘭と呼ぶことにする」
白薇にむけて最初に口にした言葉が、これだ。
おまえは人ではない、と言われたような気がした。名乗ることすら許されなかったのだ。言い方も、また冷たかった。
男は寝台に腰かけると、左脚を外した。義足だ。男には左の膝の先からがなかった。
「着物を脱いで、上に乗れ」
「はい、旦那様」
始終、従順に振る舞いながら、白薇は背筋にぞくぞくとふるえが這いあがってくるのを止められなかった。
ああ、私はいま人でなく、物であるのだわ――
物のように扱われるのが、白薇は好きだった。顔も知らぬ父母が、幼い自分をおそらくはそうやって捨てたように。男に蔑まれ、利用され、蹂躙されるのが好きだった。かつて信じていた養父がついには裏切り、己をそう扱ったように。それらの歓びは、房事で得られるものなどとは比べものにならない。
情欲を満たしたあと、男は白薇がそばで眠ることも許さず、すぐに退がるように命じた。そのすげない扱いもまた、白薇をひどく昂ぶらせた。
「ねえ、鴿灰。私、あの方の名を知りたいわ」
自室に戻った白薇は、一人の青年を呼んでそう言った。間諜の一党を統べているのは兄でも、白薇自身も自由に使える仕事師を抱えている。
白薇の命令を受けた鴿灰は、次の日には務めを果たした。聞煥章というのが、それだった。
「聞煥章様とおっしゃるのね」
「はい。この屋敷では、名を変えていますが」
その情報を得られただけで白薇は十分に満足したが、鴿灰の報告はさらに続いた。
「屋敷の執事をしているというのも、偽装のようです。北京大名府に来る前は、開封府に屋敷を持っていました」
こちらを急きたてるような喋り方をする。
白薇はゆっくり首を傾げた。
「……あのね、鴿灰? 私は、名を知りたいと言ったのよ」
「はい。ですが、聞煥章は開封府を出る際に、囲っていた女を処分しているようなのです。この城郭でも、白薇様の前にいた女を、同じように処分しています」
「ふうん……」
処分とは、殺したということだ。
別れた女を殺す。別れたのは、飽きたからだろう。飽きたという理由だけで、処分までする男はそういない。となると、女を殺したのは秘密を守るためか。鴿灰の言うとおりなら、聞煥章はこの北京大名府では身分を隠している。
聞煥章が、そこまで気の回る男とは思えなかった。女を処分したのは、おそらく兄だ。聞煥章を気に入っていると言っていたし、兄は一度、捨てた女に手を噛まれたことがあって、それから女遊びには慎重になっている。
たかが妾と言えど、処分には相応の手間がかかる。兄が白薇をここへ寄越したのは、手間を憂慮し、白薇なら聞煥章と別れた後でも口を割らぬと考えたからか。あるいは……処分するのに、市井の女よりは面倒になるまいと考えたからか。
どちらでも、それならそれで構わない。
白薇は、聞煥章のことがとても好きになったのだ。それにどちらが真であっても、兄に道具のように使われている事実に変わりはない。その実感は、白薇を甘く酔わせてくれる。
「どうされますか、白薇様」
鴿灰が焦った様子で問いかけてきた。
彼は白薇の身を案じているらしい。いささか興醒めしたような気分に、白薇はなった。
「……ご苦労様、もういいわ」
問いかけには答えず、退がらせる。
よく働くため重用しているが、彼のまっすぐな好意は、うるさいだけだった。白薇が絶えず求めているのは、そんな退屈なものではないのだから。
白薇にとっては、兄と、白薇を虐げてくれる者だけがすべてで、他には一切の価値がなかった。
「――女」
低い声がして、白薇は眼を醒ました。
聞煥章の妾となってもうふた月が経とうとしていたが、白薇が眠るのはいつも主の閨房ではなく、己に与えられた寝所である。
辺りは暗く、まだ夜半だということはすぐにわかった。窓から差しこむ月明かりを、なにかが白く弾いている。寝台に横たわる白薇の首筋に、剣の刃が当てられていた。
躰は起こさず、視線だけを動かして剣を握る男を見あげる。暗闇の中では判別しがたいが、知らぬ顔だ。
「どこの手の者だ? 答えろ」
無表情に白薇を見おろす男。纏っている殺気が、常人のものではない。
「なにをおっしゃっているのか、よくわかりません」
口を利いた瞬間、男は剣を持っていない方の手で、掴んでいたなにかを放り捨てた。それは寝台の上を転がって、白薇の額にぶつかって止まった。それと、眼が合う。
「まあ……」
白薇は小さく声を上げた。
――鴿灰の、首であった。
「答えろと言っている」
ますます強く刃が押しつけられる。
白薇は構わずに手を伸ばして、鴿灰の頭を撫でた。冷たく、硬い感触だけがあった。苦悶を孕んだ濁った眼が、白薇を見ている。溜息をつき、その生首を遠くへ押しやった。
「困ったわ。便利な耳目だったのに」
「なんだと?」
「ごめんなさい、兄様。私はただ、聞煥章様のお名前が知りたかっただけなの」
弾かれたように男は後ろを振り返った。
男の視線の先に、人影がある。壁にもたれるようにして、誰かが立っていたのだ。
「呂牛か」
男が言った。
呂牛とは、兄が周囲に名乗っている名だ。随分と長く使っていて、ほんとうの名は白薇ももう忘れてしまった。彼が白薇の兄でさえあってくれれば、名などどうでもよい。
足音もなくやってきた兄は、寝台の端に腰をおろした。
「仕方のないやつだな、おまえは」
白薇を見おろし、喉の奥で笑い声をあげる。長い指が白薇の髪を梳くのを、されるのに任せて、横たわる白薇は陶然と眼を細めた。
「……いつでしたかしら、私が常になにかを知ろうとしていると、兄様は言っておられました」
「そうだった。そして、それが女の性だと言ったのは、おまえだったな。――おい、文立。いつまで、そうしているつもりだ?」
後半の言葉は、剣を持った男にかけられたものだ。
文立と呼ばれた男は、兄と白薇をかわるがわるに見た。渋面を作りつつも剣を鞘にしまう。
「……貸しにしておくぞ、呂牛」
「それは困るな。おまえに借りを作るくらいなら、手っ取り早くこいつの首を打ってもらった方がいい」
「身内の後始末は、頭領の仕事だろう。俺はそういうことは好かん。やるなら、おまえがやれ」
そう言い放ち、文立は鴿灰の首を拾いあげた。
「この鼠を捕らえるのも、本来はおまえの仕事だったのだがな」
皮肉の言葉にも、兄は薄く笑うだけで応じないでいる。文立は返事を期待してはいなかったようで、そのまま出ていった。
――暗い寝所に、静寂が戻ってくる。
ぽつりと、兄が呟いた。
「さて、どうしたものかな」
「罰を与えてくださればよろしいわ」
白薇は言った。どんな罰が与えられるのかを想像すると、声が笑い混じりのものになってしまう。
「それが真実おまえへの罰になるのなら、俺も悩みはせん」
「あら、お見通しですのね。残念だわ」
「白薇。俺がいたことに、気づいていたようだが?」
「気づいてはいませんでしたが、どこかで見ておられるだろう、とは思っていました」
不意に、兄の表情にかすかに苦いものがよぎった。あるかなきかで、ほんとうに一瞬だけだったので、ただ白薇がそう感じただけなのかもしれない。
兄の手が離れていこうとするのを、白薇はそっと指を絡めて止めた。腹這いになり、兄を振り仰ぐ。
「……ね、遊んでくださいな、兄様」
兄は眉を顰めて、白薇を見返した。
「趣味が悪いぞ。聞煥章がおまえを抱いた褥の上で、俺にも抱けと言うのか」
「聞煥章様は、私の閨まで足をお運びにはなりませんわ。知っておられるでしょう?」
さらに指を深く絡め、軽やかな笑い声を洩らす。
兄はなにも言わずに、ただ白薇に眼をくれるだけだ。けれど白薇は知っている。その眼の奥に情欲が灯りはじめていることも、この手を、兄が振り払えないことも。
「おまえは、呂牛の妹らしいな」
媾合いのあとで、聞煥章は女にそう声をかけた。ふと、尋ねてみたくなったのだ。
蘭は身づくろいをする手を一旦止めて、こちらを振り返った。ちょっと驚いた顔をしている。そういえば、命令以外のことを口にしたのはこれがはじめてかもしれない。
「はい――兄が、そう申しておりましたか」
「いや」
文立から、報告があったのだ。蘭が間者を放っていたことも、聞いた。
ただ、呂牛はすべてを承知の上で蘭を処断しなかったと知り、聞煥章はその件についての関心を失くした。呂牛がそう判断したなら、危険はないのだろう。得体の知れぬ男だが、そう思えるくらいには信頼を置いている。
聞煥章は、仰臥したまま天井を眺めた。
衣服はすでに自らで身に着けている。妾が下女のように世話を焼こうとしてくるのは、あまり好きではない。はっきりと言葉にしたことはないが、言外に悟ったのか、蘭が進んで聞煥章の身のまわりをみることはなかった。
「私の側女として、妹を寄越すか。あの男は、なにを考えているのかわからんな」
「たやすく考えを読まれるようでは、間諜は務まりませんわ」
「ふむ。それは、そうだが」
聞煥章の独り言のような呟きに、蘭はごく自然に応えを返してくる。妾などと長く話をするつもりはなかったのだが、継ぐ言葉が自ずと口をついて出てきた。
「しかし、私が女と別れたら、その女を消すと言っているのだぞ」
「貴い身分のお方には、あらゆる用心が必要でございます。また、女には、そのような一生もございましょう」
「私も、最近はそう思えるようになってきたが、それでも気分がよいものではないな」
溜息混じりに言い、聞煥章は蘭を見やった。蘭は口もとをかすかに綻ばせ、たおやかにそこに佇んでいる。
「おまえは、どう思う。たとえば、私がおまえと別れたとしてだ。呂牛はやはり、おまえを処分するのだろうか」
「……別れるなどと、悲しいことをおっしゃいますのね」
「たとえば、と言っただろう。おまえの、身の程をわきまえているところは気に入っている。今日明日に放り出すことはしない」
「まあ、嬉しい」
鈴の音のような声で笑う。不思議と、胸をくすぐられる笑い方だった。
「ですが、そのような些事を、旦那様が気に病まれる必要はございませんわ。私に飽きられたなら、どうぞ放り出してくださいませ。私の意思も、尊厳も、すべて踏みにじってくださればよろしいのです――」
とうとうと語るうちに、女の表情は恍惚とした輝きを帯びはじめる。それを、聞煥章は深い興味をもって見つめた。蘭が情欲を解消するための道具ではなく、意思を持つ一人の人間であることに、いまはじめて思い当たった、というような気がする。己の口もとに、笑みが浮かぶのがわかった。
「面白い。それがおまえの望みか、蘭?」
「旦那様がなされるべきことでもございます。万が一にも、女で御身を滅ぼされるようなことがあっては、なりませんから」
「……女で、身を滅ぼすか」
くり返し、聞煥章は視線を宙に投げ出した。
身を滅ぼしてでも手に入れたい。そう思える女は、いる。
海棠の花――
「手折りたい花がおありなら、手折るべきですわ」
「――なんと言った」
聞煥章はさっと顔色を変え、起きあがった。
女を睨む。怒鳴りつけようとして、頭を振って思いとどまった。
「……呂牛か?」
「いいえ。兄は、なにも」
「では」
聞煥章の探る眼つきを、蘭はやわらかく微笑んで受けとめる。
「旦那様はいつも、私を抱きながら、どなたか別な方を抱いておいでですもの。なにも事情を知らずとも、その程度のこと、抱かれれば女にはわかってしまいます」
「…………」
蘭の言を聞きながら、聞煥章は躰を褥の上に沈めた。ひどく、気分が悪い。
「もうよい。退がれ」
「はい。おやすみなさいませ、旦那様」
礼をとり寝所を出ていく気配があっても、聞煥章はもう女を見はしなかった。手を振って追い払う仕草だけを返す。
――甘いな、聞煥章。
呂牛の嘲りが聞こえた気がした。そして、その嘲笑はいつまでも耳に残った。
おまえが知らぬだけで、女はいつも、なにかを知ろうとしているぞ。
「……なるほど、おそろしいものだ」
独りごちたが、応える者はもういなかった。
聞煥章の妾が、市街に出たがっていると言う。
その報告を受けた時、文立は知らず眉間に皺を寄せていた。外出を、禁じているのではなかった。ただ、聞煥章の身の安全を考えれば、女に自由を与えるわけにはいかない。
廊下に立つ女の前に姿を見せると、女は瞬きをしながら文立を見あげた。
「文立様、ですね」
こうして明るいところで見ると、呂牛とは顔かたちは似ていないな、と思った。
女は首を傾げ、なにも応えずにいる文立に問うてくる。
「文立様と、おっしゃるのではございませんか。間違っておりましたか?」
「……いや、合っている」
「そうですか、よかった」
女の顔が花のように綻んだ。
俺の前で、よく笑えるものだ。そう思ったが、思い返せばあの晩も、剣を突きつけられて少しも動じる様子がなかった。呂牛の一党の中で間者を生業にしているくらいだ、肝が据わっているのだろう。
「外出するならば供をつけるようにと、言われたのですが」
「俺が供をする。どこへ出かけるつもりだ?」
これまでは、呂牛の配下の者が遠くから見張りをしていたはずだ。それが、致死軍の動きが活発になったために、女を外に出す時は腕の立つ者をそばにつけた方がいいだろうということになった。部下にさせればよい任務なのだが、文立自身が出向いたのは、この女を捨て置いて危険がないのか直に判断したいと思ったからだ。
女は、ちょっと困ったような顔をした。
「目的は、特にないのです。ちょっと、賑やかなところを歩きたい気分になって……なんだか、申し訳ないですね。鴿灰がいればよかったのですけど」
鴿灰。聞き慣れぬ名を耳にした。
眼をやると、女は悠然と微笑む。
「文立様が首を刎ねられた、鼠の名でございます」
「……恨み言か?」
「まさか。また、次の耳目を調達すればよいだけのことですわ」
「次はない。次に妙な真似をすれば、あの方がなんとおっしゃろうと消すぞ」
「まあ。おそろしいこと……」
女は右手を頬に当て、いかにも心細そうに言った。文立の眼には少し白々しく映ったが、もしなにも知らなければ、女の態度を信じていたかもしれない。
「もしかして供というのは、私を見張るためにですか?」
「護衛も、兼ねている」
「文立様の方が、いまにも私を縊り殺してしまいそうなお顔ですわ」
なにがおかしいのか、女が笑う。
顔は似ていないが、人を食ったもの言いは確かに呂牛の妹らしい。屋敷の外へ足をむけている間ずっと、女は心の底から愉しそうにしのび笑いをしていた。
門をくぐり、大通りにむかう。女は、立ち並ぶ商店で冷やかしをしたり、なにか小物を買ったりした。文立は常に周囲に気を配っていたが、見るかぎり、おかしな素振りを見せる者も妙な気を発している者もいなかった。
そうやって、周りばかり気にしていたからだろうか。女が休みたいと言い出しても、文立は不審には思わなかった。城郭の中には、青蓮寺の手の者が自由に使える家屋が点在している。そのひとつに案内した。
気づけば、自然とそうなっていた。そうとしか言いようがない。
交情の最中にも、文立はずっと考え続けていたが、わからなかった。謀られ、惑わされたという気さえしないのだ。もしくは男にそう思わせることこそが、この女の技であったのかもしれない。
「どういうつもりだ?」
「こうするのが、好きなのです。わかりやすいでしょう。支配することと、されることが」
ことが済んだあとで問えば、女はそうやってわけのわからないことを言った。
「それに、この城郭には聞煥章様が――」
「その名を外で口にするな」
「失礼いたしました」
叩きつけるように文立が咎めると、愉しげに口もとを緩ませる。
「この城郭にはあの方がおいでですから、兄様も、手の者をたくさん放っておられます」
「……そうだろうな」
頷いて、文立は少しばかり憂鬱な気分に襲われた。
女は聞煥章の愛妾で、呂牛の身内である。そして、この交情は呂牛の知るところになるだろうと、女は暗に言っているのだ。
「どうしてかしら。ときどき、兄様をうんと困らせたくなるの。愛も、情欲も、怨嗟も、悋気も、憐憫も、後悔も、蔑みも、罪悪も、なにもかも全部、私にむけてもらいたくなるのです。でも、ほんとうは……」
艶やかな溜息をついて、女ははたと口をつぐむ。
「いやだわ、私ばかり喋って。申し訳ありません、文立様」
恥じらいの仕草。じっと女の顔を見たが、それが空々しい芝居なのか、本心からのものなのか、文立には判断がつかなかった。
褥から起きあがり、着物を整える。その時に、ふと思い立った。
「名を、聞いていなかった。なんと言う」
「白薇と申します」
――白薇。
声には出さず、口の中で呟く。
眼をくれると、白薇は夜具の中から文立を見あげ、微笑んでいる。こちらがはっとするような笑い方だった。夜具から、白い肩が覗いている。それらを振り払って帯を締めながら、文立は思った。
毒という言葉が人のかたちを取れば、それはこの女のような姿をしているのだろう。