杯に満ちる毒 後編
北京大名府を、一時梁山泊軍が占領した。白薇は占領前に屋敷を出ており、聞煥章は危ういところで開封府に逃れたと聞いた。
梁山泊軍が兵を退くと、聞煥章は北京大名府に舞い戻ったが、白薇があの屋敷に戻ることはなかった。兄がそういう指示を出さなかったし、なにより白薇自身も、そろそろ潮時だろうと思っていた。あまり長くそばにいて、情を移されるようなことがあっては困る。
聞煥章は、己が蘭と名づけた妾のことなどとうに忘れて、いまも手折れぬ花に胸をかき乱されながら淫蕩に耽っているのだろう。それでよかった。あの男は、そうであるべきだ。
ある日、開封府の外れで宋の高官に囲われていた白薇のもとに、文立が訪ねてきた。
「まあ、文立様。お久しぶりですね。どうしてここがおわかりに? それに、お怪我を」
文立の顔は、右側が晒布で覆われていた。顔の半分が隠れているので、表情が読みとり辛い。白薇の言葉にはひとつも応えずに、文立は重々しく口を開く。
「……呂牛が、捕まった。梁山泊軍にだ」
「存じておりますわ」
白薇は微笑んだ。
文立はひどく驚いたのか、一瞬言葉を失ったようだった。愕然と白薇を見おろす。そのさまがおかしくて、白薇はこらえきれずに笑い声をあげた。
「殿方はいつも、女をまるで盲かなにかのように思っておられるのですね」
「……知っているのなら、話は早い。一党の者と、渡りをつけられるか?」
「でしたら、呂英に会われるとよいでしょう」
名を挙げると、文立は片方の眼だけで問うてくる。白薇はひとつ頷いた。
「呂牛の息子です」
「息子が」
いたのか、と、文立は皆まで口にはしなかった。
「まだ若いですが、部下をまとめる力量はあります。兄様と比べると、実直すぎるところはありますが……いえ、それは文立様が直にお会いして判断されることですね」
一旦言葉を切り、また続ける。
「書簡を出します。呂英の方から、会いにゆかせましょう」
「そうしてくれ。――呂牛のことだが」
「はい」
「詫びを。呂牛が攫われた時に、護衛をしていたのは俺だ。すまなかった」
白薇は、晒布で覆われた文立の顔を見つめた。
「……お顔は、その時に?」
「浪子燕青に、不覚を取った。俺の力不足による」
外気に晒されている方の眼に、沈痛な色が滲んでいる。
もしかしたら、文立と兄は個人的な付き合いがあったのかもしれない。それは、白薇にそう思わせるのに足るものだった。お互いに同じ者を主としていたのだから、ありうることだ。白薇の居場所を知っていたのも、そのためか。
「用件はそれだけだ」
「あら――詫び、だけですか」
文立が立ち去ろうとしたのを、白薇はその腕を取って引きとめる。文立は眉を顰め、怪訝そうに振りかえった。
「なにを……」
「私を、慰めに来てくださったのではないの?」
微笑をむける。それが男の眼にどう映るのか、十分すぎるほどに熟知している。
白薇は、彼らのもたらすものを愉しんでいた。白薇を打ち、なじり、屈服させ、虐げてくれる。彼らにそうされている間だけ、歓びを感じた。自分は生きているのだという、実感のようなものがあった。
他の時間は、ただ、空虚でさえある。
地下の牢には、呂牛ひとりだけが入れられていた。
脚が、ひどく痛んだ。捕らえられる際に膝を砕かれたうえ、牢に入れられる時にも両脚を折られたのだ。挙句、食料も水も与えられずに放置されていた。
沈機が慮俊義にやった拷問に、興味があった。闇塩に関わる者たちを捕らえ、実際に試しもした。だから、このあと自分がどのような目に遭わされ、どのように毀れていくのか、ありありと想像することができる。
飢えと渇きに耐えている間、何度も昔のことを思い出した。
「一度抱いた女は、処分するのがよろしいと思います」
はじめにそう言い出したのは、白薇だった。房事のあとにだ。
「なんだ、急に。物騒なことだ」
「別れれば、女はどんな秘密も喋ってしまいます。ですから、いらぬことを喋る前に消してしまえばよいのです」
「そのような手間をかけるほどか。そもそも、秘密を教えなければいい」
呂牛は軽くあしらった。閨でまで、そんな話をしたくはない。
ところが、白薇は悪戯が成功した童のように笑うのだ。
「そうですか。先日は、随分と銀と手間をかけられたと聞きましたが?」
鼻白む。
確かに、そういうことがあった。女が外に洩らした情報自体はつまらないもので、痛手にはならなかったが、端女に手を噛まれたことは呂牛の自尊心をいささか傷つけてもいた。
だが、なぜ白薇がそれを知っているのか。
「私にも耳目はありますもの」
尋ねると、白薇はそう言って微笑んだ。
白薇には鴿灰という男をつけ、呂牛がいぬ間の様子を逐一報告させていた。しかし鴿灰は白薇に懐柔されてしまったのかもしれない、と呂牛は思った。
「なるほど。そうやっていつも、なにかを知ろうとしているのか?」
「女とはそういうものですよ、兄様」
「おまえが、女を語るか」
得意げな顔をして白薇が言うので、呂牛はおかしくなった。こらえようとしたが叶わず、くっと喉が鳴る。すると、白薇はむくれてむこうをむいてしまった。
「おい、拗ねるな」
「兄様、いまのはあんまりです」
「すまんな。おまえの忠言も、心にとめておこう」
「はい、そうしてください」
むくれていたのに、白薇はもう笑っている。
先の理屈に従うなら、おまえも消さねばならなくなるな――とは、口にはしなかった。言えば、白薇はきっと頷いて、いまと同じ言葉を返すのだろう。眼を恍惚と輝かせながら。
白薇がいつから毀れていたのか、呂牛にはわからない。
物心がついた時には親はいなかった。
人のいない、さびれた村。それが呂牛の最初の記憶に残る場所である。村人の皆が盗賊に殺されでもしたか、疫病が流行り滅びでもしたか。あるいは呂牛はそこに捨てられていたのかもしれない。
気づくと、痩せこけた己の手を、さらにひとまわり小さな手が握っていた。なんとなく振りほどくことができずに、ずっと手をつないだまま、あたりをさまよった。
飢えに苦しんだのは、そう長い間のことではない。
男に拾われた。
間諜を生業としている男。捨て子を拾ったのは善心からなどではなく、手の者を増やすためだ。
呂牛は気配を断ったり、誰にも悟られずに建物に侵入したりする術を教えられた。むいていたのか、すぐに身について、仕事を任せられた。老人や女に化ける、人心を転がしうまく操る、そういうこともできるようになった。
白薇もともに拾われたが、それは呂牛が男に頼み込んだからだった。代わりに呂牛が二人分の働きをする、という約束をしたのだ。
汚れ仕事で、ひたすら銭を稼いだ。それで、白薇には少なくとも飢えることだけはない生活をさせてやれる。そう思っていた。
ある時、その男を殺した。
白薇の閨の、褥の上だった。白薇が何年も前から男に媚術を仕込まれていたことも、遊妓のような真似をして間諜の仕事に携わっていたことも、呂牛はその時はじめて知った。
呂牛は長を失った間諜の一党をまとめあげ、白薇をすべての仕事から退かせた。城郭の外れに家を買い、二人でともに暮らすことにした。
白薇は昔から呂牛を兄と呼び慕い、呂牛もそれを許していたが、実のところ呂牛が白薇を妹だと思ったことは一度としてない。でなければ、抱けまい。
そうしてはじまった夫婦の真似ごとのような生活は、しかし、半年も続かなかった。白薇が河水に身を投げようとしたからだ。
「兄様。お願いがございます」
すんでのことで呂牛が助け出し家に連れ戻すと、白薇はずぶ濡れのまま、そう切り出した。
「私を、兄様の一党に加えてください。どうか、父様がされていたのと同じように」
「やめろ。あいつを父などと」
呂牛は、白薇の言を途中で遮った。あれを父と呼ぶなど、反吐が出る。
「はい。では、あの男がしていたように、私を間者として使ってくださいませ」
「ほんとうに、死ぬつもりではなかった。そういうことか?」
白薇の口ぶりには明らかに、それが叶わなければまた同じことをする、という脅しのようなものが含まれていた。問われた白薇は、肯定も否定もしなかった。
「……あのまま死ぬのであればそれもよい、と思いました」
「なぜだ」
己のものでないような、冷えた声が出た。
肚の底から、冷たいものが満ちていく。まるで、いまも河水に浸かっているかのように。
「おまえに、不自由をさせたつもりはない」
「不自由がなくとも、一切の歓びのない暮らしなど、なんの意味がありましょうか」
躰が冷えているからだろう、白薇の顔は青白くなっている。
「生きている、と感じないのです。それはもはや、死んでいるのと同じではありませんか」
眼に宿る光が、尋常のものではなかった。そういう眼をしている者を、呂牛は仕事の過程で何度か見たことがある。躰ではなく、心が毀れてしまった者……
呂牛はふと、己が掌中で大事にしていたものは、とうの昔にこなごなに砕け散ってしまっていたのだと気がついた。繋ぎとめようとしても、どうにもしようがない。それは、ついいましがたそうなったのではなく、もっと前からそうだったからだ。
ただ、気づきたくなくて、ずっと知らぬ振りを通していただけなのだろう。
手を伸ばし、指の背で白薇の頬に軽く触れた。
呂牛自身も、先ほど白薇を助けるのに河に浸かったために、指先が冷え切っている。触れると、ほのかな温かさを感じた。互いに触れられる近さにあり、温もりも感じると言うのに、白薇の心はここではない遠くにある。
「……わかった」
歓びがない、と白薇は言った。死んでいるのと同じだと。呂牛に慈しまれる生活を。
「おまえの望むようにしてやろう。望むかぎりの、ことをしよう」
「ありがとうございます、兄様」
白薇は花が開くように微笑んだ。笑顔だけは、昔と変わらぬままだった。
白薇は、いつから毀れていたのか。
その日から、常に呂牛の心の中にある問だった。
あの朽ちた村をさまよっていた時にか、木の根をかじって飢えを凌いでいた時にか。養父に犯された時にか、――兄と呼ぶ男に抱かれた時にか。
必死に銭を稼ぐ必要がなくなったので、呂牛は自分が面白いと思う仕事だけを選んでするようになった。それに白薇を使ってみると、驚くほどよい働きをした。
権力者同士の諍いに、ほんの少し手を出して退く。そして、自分の関わりでどう情況が変わっていくのかを遠くから眺める。そういうことを、愉しいと感じた。暗殺や人の命を奪う仕事よりも、拷問などの、人の心を毀す仕事の方が愉しかった。
躰を殺すよりも、心を殺すことに興味がある――それを言うと、聞煥章などは薄気味悪そうな顔をしたものだった。己とて、扈三娘には狂気じみた執着を見せるというのに。
……地下牢に、柄杓を持った燕青が姿を見せた。
華奢な優男だが、見目に反しておそろしいほどに腕は立つ。呂牛は武術はできないし、なにより脚を折られている。
「二日ぶりか、呂牛。これを飲むといい」
与えられる水を、貪るように飲んだ。燕青はそれをじっと見おろしている。
すでに、術中にはまってしまっているのか。そう思ったが、渇きはどうにもしがたかった。
「浪子燕青。おまえがいるのだったら、軍を用意しておくべきだったな」
「軍がいれば、致死軍は別のやり方でおまえを捕らえただろう」
「それも、そうか。俺が、甘かったということかな」
燕青とやりとりを交わす間さまざまに考えたが、どう思考を巡らせても、生きてここを抜け出す術はなかった。
不意に、途方もない衝動が湧きあがる。なりふりかまわず喚き散らしたくなるような――恐怖と呼べるであろうそれを燕青に気取られぬよう抑えながら、呂牛ははたと腑に落ちた気分になる。
己の心を殺して、白薇をひたすら道具のように扱った。白薇がそれを望んでいたからだ。仕事で、どんな非道な真似もした。惨たらしく人を殺しもしたし、拷問で人の心を毀し尽くすこともした。白薇の心がこの世にないなら、呂牛がそちらへ行けばいいと思った。
けれども、それでいて、呂牛は少しも毀れてはいなかったのだろう。なぜなら、いま、こんなにも、この先に待ち受けるものを呂牛はおそれている。
「訊問は、そのうちにしてやる。待っていろ」
燕青がしゃがみこみ、呂牛の眼の奥を覗きこむようにしてきた。白薇も、いつもそうやって呂牛を見つめてきていたことを、どうしてだか呂牛は思い出していた。
ある日、文立が報せを持ってやってきた。兄が見つかったという報せだ。
「兄様が、生きておられたのですか」
白薇は歓ぶよりも先に、とても驚いた。部下に探させるが、もう生きてはいないかもしれない。そう文立には言われていたのだ。
文立は、ひとつの眼で白薇を見た。晒布は取れたが、顔の片側は潰れたようになってしまっている。
「盲でないおまえも、これは知らなかったか」
「まあ、文立様、意地が悪いわ。よい報せが台無しです」
「あまりよい報せではない。命はあるが、あるだけだ」
命があるだけ――不可解なことを、文立は口にする。
文立の語るところによれば、兄は相当の拷問を受けたようだという。文立の部下に見つけられた時には言葉も喋れず、己の名さえわからぬ状態だったと。
呂牛であって呂牛でない、と文立は言った。会っても、おそらく白薇のことすらわからぬだろう、とも。
「……では、兄様は、どうなります」
「どうとは?」
「使えなくなった間諜など、必要とはされないでしょう」
「呂牛は、これまで何度もあの方のお命を救っている。とりあえずは、一党の中に戻すことになるだろう」
「私が兄様にお会いすることは……」
「手配する」
それだけ聞いて、白薇はひとまず安心した。
白薇が北京大名府に移ったのは、兄が行方知れずとなってからである。
兄の一党は呂英が率いているが、いまのところ、聞煥章のもとに間諜を用いる仕事はないようだった。それでやむなく、北京大名府の文立のもとに身を寄せていたのだ。
文立はほとんどの時間を聞煥章の屋敷で護衛として過ごすので、顔を合わせることはあまりない。
文立は白薇をさほど手荒に扱ってはくれないが、情を交わしたあとで、彼がきまって暗い顔をするのを見るのは好きだった。その日はなんだかもっとその表情が見たくなって、文立の腰に手を回し帯を締めてやる時に、白薇は尋ねてみた。
「呂英はどうしております」
「いまは、あの方が力を測られている」
「ご評価に適いますかしら」
「おそらくは。父親と違って、武術の才もある」
彼が呂英に剣を教えていると、いつだったか聞いたことはあった。
「……呂英の母が誰だか、文立様はご存知ですか?」
「いや。呂牛から、女の話は聞かなかった」
そう答えるのも、当然である。白薇に知らされるまで、文立は呂英の存在も知らなかった。
白薇は睦言を囁くような、甘やかな声で告げた。
「呂英は私が産んだ子です」
頭上で、はっと息を呑む音が聞こえる。
「まさか」
「あれは私の子なのですよ、文立様」
見あげた先にある、いまや左半分にしか表情を宿すことのできなくなった分立の顔は、まさに白薇の欲していたとおりのもので――愕然とする文立の前で、白薇はいつまでもくすくすと笑っていた。
のちに、白薇は文立に案内されて、兄がいるという家にむかった。
その家の一室で、兄はぼんやりと壁際に座りこんでいた。躰は、どこも傷んではいないという。しかし白薇が目の前に立っても、なんの反応も示さない。視線はただ、兄と白薇の間のどこか、どこでもない宙にむけられている。
文立が部屋を出ていき兄と二人きりになると、白薇は兄のそばに膝をついた。
「……兄様」
呼んでも、返事はない。うつろな眼は変わらぬままだ。
兄は人に心を読ませぬようにするのがうまかったが、いまの兄の表情は、そういうものとはまるで違った。表情がないとは、ほんとうはこういうものを言うのだ、と白薇は思った。
床の上に投げ出されていた手を取る。兄の手はだらりと力なく垂れさがり、白薇の手から抜けて再び床に落ちた。その間も、兄は身じろぎすらしなかった。
「兄様」
白薇の振る舞いが兄を苦しめていることを、白薇は知っていた。白薇を道具として扱うのが兄の本意ではなかったということも、知っていた。ただ、それだけが――
それこそが、白薇の愛だった。
白薇はそんな兄を、真実、愛していた。兄が苦しみ、毀れた白薇とともにあろうともがくさまを眺めているのは、格別な愉しみであり歓びであったのだ。
「兄様」
眼を覗きこむと、そこにはなにもなかった。愛も、情欲も、怨嗟も、悋気も、憐憫も、後悔も、蔑みも、罪悪も、なにひとつ。
白薇は微笑をこぼし、兄の躰を抱きしめた。
「やっと、私のもとまで来てくださったのですね、兄様……」
心からの蕩ける笑みは、けれど深い穴を覗きこんだ先のように、どこまでもほの暗かった。