1
とある、ひとつの情景がある。たとえば夜の空。
深い夜を背にして、外灯が頼りなげに瞬いているのが見える。雨上がりのやわらかな土。むせ返るような草と鉄錆のにおい。耳の奥で低く響く鼓動、荒い息遣い。腹部からとめどなく流れる血はあたたかいのに、空気に触れるとすぐに熱を失っていく。肉の内側に刺し込まれたステンレス鋼の感触だけが、いつまでも冴えわたって冷たく――
門柱に背中を預け、首を反らして、樹里はぼんやりと空を見上げていた。
秋から冬へと移り変わりつつある季節、空は青く澄んでいる。近頃めっきり寒さが増してきたとはいえ、日差しの下にいれば、まだそう耐えがたいほどでもない。けれど、今では思い返すことも減ってきた情景を想起したのは、頬に当たる風が少しだけあの冷たさに似ていたからだろう。
――赤ん坊は白紙の状態で生まれてくる、という言葉を聞いたことがある。
それってほんとかな、と樹里は思った。少なくとも、樹里はそのかぎりではなかった。このたとえに沿って言うなら、樹里が生まれたとき、すでに紙面は他の誰かの記述で埋め尽くされていたからだ。
この世に生まれ落ちて最初の呼吸をした瞬間、樹里が思い出したのは、あの情景である。
簸川樹里という人間の、臨終の記憶。
混乱する樹里がひどく泣き喚いたのを、両親をはじめとした周囲の人々は、赤ん坊の当然の習性として受け止めていた。……だったらひょっとして、赤ちゃんが泣くのは、あたしのときと同じ理由じゃないのかなあ。と、とりとめのない思考は続く。他のみんなはあたしと違って、大きくなったら元の記憶をぜんぶ忘れちゃうってだけで、
バサッ――空を縦に断ち切った何かが、同時に樹里の散漫な思考をも遮った。
まだ授業が終わらない学校の静けさの中であっても、樹里のいる場所までは音が届きようのない距離。ちょうど地面に落ちるさまを目撃したから、そんな幻聴がしたのかもしれない。
黒くて平たいものが、校庭にぽつんと落ちている。
「……ノート?」
呟いた樹里は、門のうちへと、そっと足を踏み入れた。
部外者が侵入するのは気が引けるが、好奇心が後ろめたさを圧倒的に上回る。そろそろと近寄ってみると、やはりそれはノートだった。何の変哲もなさそうな、無地の真っ黒なノート。
樹里は空を仰いだ。そこにはただ青い色が広がっているだけで、何もない。校舎からは離れており、窓や屋上から投げ捨てられたとは考えにくかった。
拾い上げて裏返してみれば、どうやらそちらが表紙らしい。白い歪な文字で題が記されている。
DEATH NOTE
「物騒な名前……」
興味をそそられるタイトルではある。
表紙を開く。一ページめは白紙――何となく、さっきの考えごとを連想させる。ただし、表紙の裏側には、題名と同じ癖のある英字が長々と綴られていた。
英語かあ。樹里はすぐに諦め、次のページをめくった。白紙にあらかじめ書き込まれていても、苦手分野は苦手なままだ。
しかしページをめくれどめくれど、誰かが書き込んだ痕跡は一向に見当たらない。
「樹里――」
呼ばれて、樹里はハッと顔を上げた。咄嗟にノートを閉じる。
いつの間にやら、辺りはざわめきに包まれていた。一日の課程を終えて昇降口からあふれ出す高校生たち。その波を外れて、兄の月がこちらへやって来る。
「樹里、今日は早かったんだな。待ったか?」
「掃除当番が早く終わったから。でも、そんなには待ってないよ」
笑顔の樹里をじっと見下ろし、月は溜息をついた。
「……嘘つくなよ」
ごまかしは、あえなく見破られてしまう。
月は眉根を寄せながら、樹里の頬に触れ、指先でさするようにした。触れられたところが、じんわりとあたたかい。それはつまり、あの末期を思わせた冷たさを今は樹里が兄に味わわせているということであって、申し訳ない気持ちになる。
「こういうときはコンビニかどこか屋内で待てって、いつも言ってるだろ」
「だって、早く終わったから、そのぶんお兄ちゃんに早く会えると思ったんだもん」
口を尖らすと、月の手が、今度は樹里の頭をかき回した。つい身を縮めてしまった樹里だが、見上げた先の月は口元を緩めて笑っている。
「帰ろう」
月が歩き出したので、樹里もその隣に並んだ。
高校の敷地内で中学の制服を着ている樹里がもの珍しいのか、じろじろと無遠慮な視線を寄越してくる人もいる。容姿の整った兄と一緒ならどこにいたって目立つので、そのくらいではあまり気にならない。
「お兄ちゃん、今日は学校どうだった?」
「どうって、母さんみたいなこと聞くな……普通だよ。いつもどおり、退屈なだけ」
「余裕だねー、受験生」
「今になって慌てる方がどうかしてるよ」
「はい、お兄様のおっしゃるとおりです」
もっとも、当の受験生の身でそう断言してしまえるのは、世界広しと言えど月くらいだろう。樹里が大仰に頷いてみせたところで、月が不意に、訝しげに目を細めた。
「……なあ、樹里。それ何だ?」
「あっ!」
月の細長い指が示す先を辿り、樹里は声を上げる。手にしていた黒いノートのことを、すっかり意識の外に追いやっていた。拾ったまま、ここまで持ってきてしまったのだ。
校門はとうに出ていた。振り返ってみても、曲がり角で兄の高校はもう見えない。今からでも戻って、落とし主の目につきそうな場所に置いてくるべきだろうか。あるいは、職員室に届けるという手もあるが……慌てる樹里に、月は呆れ返った視線を注いでくる。
「何でも拾ってくるなよ。猫じゃないんだから」
「だっ、だって! このノート、空から落ちてきたんだよ?」
「おいおい、夢でも見たんじゃないか? 立ったまま寝るなんて器用だな」
月は意地悪を言いながら、ひょいと樹里の手からノートを取り上げた。
「……このノートに名前を書かれた人間は死ぬ、ね。ふーん、それでデスノートか」
「そんなこと書いてあった?」
横から覗き込もうとしたら、ノートを高い位置まで持ち上げられてしまった。
「あ、お兄ちゃんずるいっ、拾ったのあたし!」
「だからっておまえのものじゃないし、それにどうせ見ても読めないだろ」
「じゃあ、お兄ちゃんが読んでくれればいいじゃん」
「この程度の英文、自分で読めよ」
「だから見せてってばー!」
三十センチ以上も身長差があると太刀打ちしようがなかった。飛び跳ねて何とか中を見ようとしても、空いた手で余裕たっぷりに頭をポンポン叩かれてしまう始末だ。
そうこうしているうちに、家まで辿り着いた。門扉や玄関を開けるときも、靴を脱ぐときまで、月はノートを手放さない。
「もーっ、そこまでして意地悪する?」
「人聞きの悪い。今、訳してるところなんだ」
澄ました顔の月だが、それでも樹里にノートを見せてはくれない。
「ライト、樹里、おかえりなさい。もう、なに騒いでるの」
「何でもないよ。ただいま」
「ただいまー、お母さん」
リビングから出てきた母に、それぞれ応じる。
母の背後、半開きになったドアの向こうから、テレビの音声が漏れ聞こえていた。ニュース番組だろうか、無機質な声が流暢に語っている。『昨日、新宿の繁華街で起きた、六人がナイフで刺され死傷した事件で……』
――それはたとえば、夜の空だ。
いきなり突き飛ばされた。すりむいた手と膝がひりひりする。朝から降り続いていた雨は夕方に止んで土がすっかり湿って、草の匂いのせいで声が聞こえない。倒れて肩越しに見える外灯と、公園の奥にずっと、包丁が光っている。赤い、痛い、気持ち悪い、痛い、助けて、痛い、何で、やだやだやだ死にたくない死にたくない死にたくないしにたくないしにたくない
「樹里」
声がした方へ目をやる。
端正な顔立ちをした、すらりと背の高い男の子が、階段の半ばあたりからこちらを見下ろしている。ええと、誰だっけ。瞬きをした拍子に、目尻が僅かに濡れた。
「樹里」
男の子が、もう一度言う。
……ああ、そう、そっか、そうだった、樹里、あたしの名前は夜神樹里で、そしてあの子は、夜神月、あたしのお兄ちゃん。
「樹里、ノートはもういいのか?」
「よくないよ!」
樹里は脱いだ靴を揃えて、急いで兄に続いた。
リビングのドアはもうしっかりと閉じられていて、中のテレビの音声はよく聞き取れない。ドアの前に立つ母は、心配そうに樹里を見つめている。階段を駆け上がる樹里の背を、不安を拭いきれていない母の声が追う。
「ライトの勉強の邪魔しないのよ、樹里」
「はーい」
樹里は何にも知らないふりで、子供らしい返事をした。
月の部屋は、いつもと変わらず几帳面に片付けられている。後から入ってきた樹里を、月が振り返る。
「制服くらい着替えろよ」
「うん。何て書いてあるのか教えてくれたら」
「……まったく」
肩をすくめつつも、月は樹里を自室から追い出したりはしない。樹里にノートを手渡し、自分は制服のブレザーに手をかける。
その間に、樹里は壁際に寄せられていた専用の椅子を引っ張ってきて、兄の学習椅子の隣に並べて座った。これで準備完了、ちょうどよく、脱いだブレザーをベッドに放り終えた月も椅子にかける。
月は今度は意地悪せず、英文の訳をすらすらと読み上げてみせた。
「このノートに名前を書かれた人間は死ぬ、書く人物の顔が頭に入っていないと効果はない、名前の後に四十秒以内で死因を書くとその通りになる、死因を書かなければ心臓麻痺となる……」
「へーっ、すごいねー」
「すごいって……こんなもの、不幸の手紙なんかと一緒だよ。低レベルだ」
「とか言っちゃって、お兄ちゃんだって興味あるくせに」
「まあ、否定はしないかな」
苦笑いの月は机上にあったシャープペンシルを取った。樹里が驚いて目を上げれば、ちょうど互いに額を合わせる格好になる。
「ほんとに試しちゃうの?」
「ああ――いや、待てよ」
一旦はノートに向かった月だったが、はたと上体を起こすと椅子に背を預けた。ペンの芯をカチカチと送り出しながら、何やら考え込んでいる。
「これで本当に人が死んだら、僕は殺人犯か?」
「そんな、こと……ないと思うけど」
もし、このノートに名前を記した人物が、本当に死んでしまったとしたら?
馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばすべき場面なのかもしれないが、樹里にはどうしてもそうすることができなかった。樹里は身をもって知っている。この世界には、科学では説明できない不可思議な現象も確かに存在しているのだと。
この「不幸の手紙」の実験台に適した人物――
「もし」が起こると困るから、当然、樹里たちとはまったくの無関係でなくてはならない。そして、死んでしまっても問題ないと思える人物でなくては――ざらり、無機物の冷たさが、樹里の腹の内側をなぞる。
「悪い、樹里」
青ざめた樹里にすぐ気付いて、月が優しく樹里の頭を撫でた。
「冗談が過ぎたよな。悪趣味だった」
「……ううん。いいの、お兄ちゃん」
しかし、樹里は首を左右に振り、すばやくテレビのスイッチをつける。
「おい、樹里……」
ニュース番組が、新宿の事件を報道している。
『昨日、新宿で六人を殺傷した通り魔事件の犯人は、今もなお保育園に立てこもっております――犯人は音原田九郎 無職 四十二歳――』
テレビに映る、中年男性の顔写真。
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「四十秒で、心臓麻痺だっけ?」
「……ああ」
呆気に取られていた月は、けれど樹里の問にははっきりと頷くと、視線を机上のデジタル時計へ向けた。
時刻は十八時二十三分。樹里と月は、言葉なくテレビの画面を見つめる。現場のリポーターが、似たような情報を何度も繰り返し告げている。
「……何も、起こらないな」
「うん――」
そうだね、と答えようとしたそのとき、テレビの向こうのリポーターがやかましく叫び立てた。園内から人質たちが駆け出してくる映像、警官隊の突入、事件現場の様相が目まぐるしく変化を始め、『犯人は死亡! 死亡した模様です!』
……死亡?
「ライトー、今日は塾の日でしょー!」
ビクッと樹里の肩が跳ねる。月は即座に立ち上がり、テレビを消して「わかってる、すぐ出るよ!」と階下の母へと返事を投げた。
「お兄ちゃん、ねえ、今の――」
兄に追い縋る樹里。
あまりにもありふれた、日常を象徴する母の声が樹里を現実へと引き戻し、同時に、今の非現実的な出来事――この黒いノートに名前を記した人物が死んだということ――も、紛れもなく現実だと樹里に知らしめていた。
犯人は死亡。
リポーターの言葉を胸中で繰り返してみる。死んだ? 樹里がノートに名前を書いたから?
「気にするなよ、樹里。あんなもの、ただの偶然だ」
「でも……」
月に両肩を押さえられ、されるまま、樹里は椅子に腰を落とす。
「偶然なんだ。だから、樹里は何も気にしなくていい」
兄の蒼白な顔色は、決してそれと同じことを語ってはいない。しかし月は強引に樹里に言い含めると、慌ただしく出ていってしまった。あのノートを――デスノートをしまった鞄を持って。
……数時間後、塾から帰ってきた月は、家を出たときよりも明らかに狼狽していた。
母には、風邪を引いたかもしれないとうまく言い訳をしたようだ。樹里はいつもならリビングで音楽番組を観ている時間に二階に上がった。
「お母さん、あたし、お兄ちゃんが心配だからちょっと見てくるね」
「お願いね。ライトが寝てたら、起こしちゃ駄目よ」
「うん、わかってる」
普段から良好な兄妹関係を築いているおかげで、何も不審には思われなかった。
「お兄ちゃん。お兄ちゃん。……入るよ?」
ノックをしても返事がないので、一言だけ断りを入れてからドアを開ける。母にはああ言っても、樹里はもちろん、兄の変調の原因は風邪などではないとわかっているからだ。
部屋の中は真っ暗だった。
「お兄ちゃん」
月は小さな子供みたいに、ベッドの上で布団に包まって、丸くなっている。寝具から覗く兄のやわらかな髪を、廊下から差し込んだ明かりが淡く照らしている。
樹里は明かりを点けぬまま部屋に入った。後ろ手にドアを閉める。ドアの隙間から光が漏れ出ているため、完全な暗闇にはならない。
「お兄ちゃん、ちょっとごめんね」
床に乱雑に放られた鞄の中を探ってみれば、デスノートはすぐに出てきた。樹里はベッドの端、兄の傍らに腰を下ろす。
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「……やっぱり。殺しちゃったんだね、お兄ちゃん」
「そうだ……僕が、殺した……人を……」
布団の中から、くぐもった声が聞こえる。いくら姿を隠しても、声の震えまでは隠しようがない。
「ねえ、でもね、お兄ちゃん。それって」
樹里は布団越しに兄の頭を撫でた。
「殺したって構わない、悪い人だったんだよね?」
「……それは……結果的には、僕はあの女性を助けたのかもしれない。けど、殺すほどの、死刑になるほどの悪人じゃ……」
「ううん。そんなことない。そんなことないよ、お兄ちゃん」
ああ――樹里は感動と歓喜に打ち震えた。やっぱり、月は樹里の大好きな兄だ。
労わる手つきで兄を撫でながら、もう一方の手を自身の腹に当てる。かつて樹里は、ここから命を流して失った。そのときの苦痛は、絶望は、悔恨は、憎悪は、いまだに樹里をひどく傷付ける。でも――
「お兄ちゃんは、殺してない。ただ、救っただけ」
夜神樹里を。
簸川樹里というひとを。
彼女のように、非業の死を遂げるはずだった人々を。
「このノート、燃やしちゃおっか?」
樹里はことさら明るく言った。
「ノートに名前を書いたことが罪に問われるかはわからないけど……でもそうしたら、証拠は残らない。あとは、あたしたちが口を噤んで生きていけばいいだけだもん」
まるで、いつもと逆だなあ。月を宥めながら樹里は笑みをこぼした。
樹里は最初、自分が死んだことも新たな生を得たことも受け入れられなかった。何事にも怯えて、すべてを拒絶して、泣いてばかりだった。手のかからない兄と違い、樹里は齢を重ねてもぐずってばかりで、母はノイローゼに陥りかかっていた。刑事の父は、仕事の都合上なかなか家に帰ってこれない。
そんななかで、樹里の面倒を見てくれたのは月だった。
辛い記憶に泣き暮らす樹里のそばにいてくれた。人を怖がる樹里の手を引いて一緒に歩いてくれた。おかげで樹里は少しずつこの世界に慣れていき、殺人事件の報道や新聞記事を見て取り乱しそうになってしまうことはあるけれど、今では普通の人とほとんど変わりのない生活を送っている。
月のおかげで、樹里は今を生きている。この世界に受け入れられ、この世界を受け入れている。樹里にとって、月は神に等しい――と、そう言っても過言ではない。だって、樹里の世界のひとつひとつを形づくっているのはすべて月なのだから。
「いや……違う。それじゃ駄目だ、樹里」
「うん。どうして?」
「これは、誰かがやらなくちゃいけないことなんだ」
呟きめいた月の言葉は、次第に力強さを増していく。
「世の中は腐ってる。このままじゃいけない。デスノートがあれば……デスノートの力なら、できる。世界を変えられる。腐ってる奴らを一掃して、心優しい人間だけの理想の世界を築くことができる!」
たとえ樹里が慰めなくたって、兄はそのうちこの結論に辿り着いていたかもしれない。それは――月が自身に必死に言い聞かせているようにも聞こえたけれど。
「ねえ、お兄ちゃん」
呼びかけると、月はようやくこちらへ顔を覗かせた。薄闇の中、もっとはっきりと兄の明眸を目にしたくて、樹里はベッドに手をつき、月に身を寄せる。
そうして、微笑む。心から。
「もちろんあたしにも、お兄ちゃんが理想の世界を作る手伝いをさせてくれるんでしょう?」
「樹里……」
そのとき月が見せた表情を、言葉で表すことは樹里には到底できそうにない。
けれど、兄は樹里がそう言うのをいたく待ち望んでいたに違いなかった。そして同じくらい、それと逆しまの言葉を期待してもいたのだ。そんな顔だった。