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元より両端が吊りあがった唇の、口角が自然と上がっていく。「どうやら、そいつは気に入ってもらえたようだな」
机に向かって一心に文字を綴っている後ろ姿に声をかけてみれば、ぴたりと手が止まる。常ならば視界には映らない、声すらも聞こえない死神の存在を、この人間は今、間違いなく認めたはずだ。
五日前、リュークが人間界に落としておいたデスノート。
ページには、すでに大勢の名前が書き連ねられている。人間の肩越しに覗き込んでそれを見て取り、リュークは声を上げて笑った。こいつはすごい。そんな軽い驚きさえ、長い年月を退屈に溺れていたリュークには心地よく感じられる。
ついで驚いたのは、
「そうだね。まあまあ、ってところかな?」
人間が極めて平然と、リュークに言葉を返してきたことだった。
椅子が回転し、人間は身体ごとこちらへ振り返る。その瞳には、確かに死神リュークの姿が映し出される。
「あなた、誰?」
夜神樹里は、リュークを仰いで首を傾げた。
「……俺は、死神のリューク。そのノートの落とし主だ」
と、ノートを示したこの指先は、ペンを持つ樹里の手と比べるとあまりにも歪んでいる。人間にとって、己の姿は異形と言い表しても差し支えないだろう。最悪、取り乱して聞く耳を持たないくらいの反応は想定していたが――
面白い。
これは完全に予想外だ。リュークは込み上げてくる愉快さに身を任せて笑う。そんなリュークを樹里はじっと見つめ、何事か口を開きかけた、そのとき。
「樹里ー、ご飯よー」
「はーい」
階下からの呼び声があり、樹里はドアに向かって大きく返事をした。それから、リュークに向き直る。
「だって。ねえ、話、ごはん食べてからでもいい?」
「えっ……ウン」
あんまりな問いかけに虚を衝かれ、思わず頷いてしまった。樹里は落ち着いた所作で机の上を片付け、デスノートを引き出しにしまいこんでいる。
「ジュリ、おまえ、俺を見ても驚かないんだな。こっちが驚かされた」
「そうかな? 十分驚いてるよ。ドアも窓も鍵かけてたのに……あなたは、どうやって入ってきたの?」
「死神だからな。壁くらいすり抜けられる」
「ふーん、そうなんだ。――あ、悪いけど、ここで待っててくれる?」
部屋を出ていく樹里の後について行こうとしたら、押し止められた。
「お母さんがあなたを見て、心臓麻痺を起こしでもしたらいけないし」
「デスノートいらずってわけか」
「……冗談で言ってるんじゃないんだけど」
樹里はリュークを扱いあぐねているらしく、眉根を寄せて困ったような表情を作った。それにしては、本人を前にして――人間ではなく死神だが――随分な言い草である。まあ、いいけどな。リュークは心の中で独りごちる。
「心配しなくていい。俺の姿は、ノートを拾ったおまえにしか見えない」
「へえ……?」
ちらとリュークを見上げる樹里。
どことなく含みがあったものの、樹里はそれ以上言及することなく、階段を下りていく。リュークも大人しくその後に続いた。
リビングで夕食をとっている間中、樹里はリュークがそばにいる素振りを微塵も見せなかった。ごく自然に母娘の会話を交わし、そこから樹里の家族構成が窺い知れたが、父親と兄は今日の食卓には不在らしい。
食事が終わると樹里は部屋に戻り、改めて二人は向かい合った。
「リューク、だったよね、名前。それで、デスノートの持ち主」
「ああ、そうだ」
「リュークってどんな綴り? 英語?」
「いいや、死神界の文字だ。教えたっていいが……死神は、デスノートじゃ殺せないぞ」
「なーんだ、そっかぁ。残念」
樹里はあっけらかんと言い放った。椅子にかけたまま足を投げ出し、デスノートでパタパタと顔を煽ぐ。樹里の前髪が微風に揺れるのを、リュークは黙って眺めやった。
樹里は、死神を見ても驚かない。恐れない。それどころかリュークに笑みを向け、友好的な態度で接する……なのに、こうして殺意を隠しもしない。
知らず、喉が鳴った。まったく人間っていうやつは、本当に面白い――
「で、リュークは何しに来たの?」
次なる問に、リュークは目玉をギョロリと動かした。
「ん? 何って?」
「ノートを取り返すため、じゃないよね。だったら、勝手に部屋に入ってこれるのに、わざわざあたしの前に出てくる意味ないもん」
問いかけておいて、こちらの返答を待つことなく、自ら答えを提示する樹里。ふと、その瞳が翳った。樹里は姿勢を正し、まっすぐにリュークを見上げる。
「あたしを殺しに来たの」
「いや、別に? 俺はおまえに何をするつもりもない」
「……死神なのに?」
疑わしげな視線。
リュークは樹里に、ノートを落とすことにした経緯を説明してやった。そもそもの動機はただ単に退屈を紛らわすためだと告げると、理解はともかく納得はしたようだ。
「そう……そっか。じゃあ、問題ないかな。会わせても」
「何だって?」
樹里が口の中で呟いたのを聞き返したところで、玄関のチャイムが鳴った。続いて「ただいま」「おかえりなさい」のやりとりが聞こえてくる。どうやら家人が帰宅したらしい。階段をのぼる足音、そしてドアの開閉音。
「あっ、お兄ちゃん帰ってきた!」
樹里は顔を輝かせた。跳ねるように立ち上がり部屋を出ると、ほとんど駆け足で隣の部屋に入っていく。
「お兄ちゃん、おかえりなさーい」
「ああ、樹里、ただいま……う、うわっ」
それを迎えた兄――夜神月は、樹里の姿を目にした途端に仰け反り、床に尻もちをついた。いや、樹里を見て驚いたのではない、どうしたことか夜神月には、樹里に憑いている死神リュークの姿が見えている。
「お兄ちゃん!」
樹里が泡を食って膝をつき、月に寄り添った。
「だっ、大丈夫? 怪我してない?」
「ああ……」
「あのね、この人――人じゃないんだけど、ええと、死神のリューク。デスノートの元の持ち主で、あんまり暇で退屈してたから、人間界にノートを落としたらどうなるのか、拾った人間がどういうことをするのか近くで観察したくって来たんだって」
茫然自失の月に、樹里は先のリュークの話を一から十まであますことなく伝えた。さすがのリュークも、その短慮にはちょっと呆れる。
「おまえ、いいのか? そんな簡単にぺらぺら喋って……」
「何で? 隠す意味ある?」
「ジュリがいいならいいんだが。兄貴には、もうノートを触らせてるようだしな」
「……リュークが見えるようになるのは、ノートに触ることが条件?」
「あ!」
リュークは「しまった」と青白い顔をさらに青ざめさせた。
デスノートの使い方や死神のルール、それらをすべて最初から打ち明けていたのでは面白くない。だから樹里には「ノートを拾ったおまえにしか見えない」という言い方をしたのだった。今後の状況によっては少しずつ明かしていってもいいし、もちろん何も教えないという手もある。あったのだが……
「さっき言ってたことと違うんじゃない、リューク」
「嘘はついてなかっただろ、嘘は」
責める視線を突き刺してくる樹里に、リュークは苦しい言い訳をする。
「死神、か……」
しばらく放心していた月が、呟いた。
「ああ、驚かせて悪かったな、ライト」
「……驚いてないよ」
いや思いっきり驚いてただろ…という無粋な台詞は口にせず、リュークは月の次の言葉を待った。
立ち上がった月の表情は凪いでおり、今までの動揺は影も形も見当たらない。感情の制御がよくできている。リュークを目の当たりにしたときの反応は違えど、その点に関しては、兄妹で似通っているらしい。
月は、唇を笑みのかたちに歪めてみせた。リュークのそれほどに歪な笑い方だった。
「待ってたよ、リューク」
「ほう?」
「いろいろと聞きたいことがあったんだが……どうやら全部、樹里が聞いてくれたみたいだ」
頭を撫でられた樹里が、満面の笑顔で月にデスノートを差し出す。
「お兄ちゃん、はい。お兄ちゃんが塾に行ってる間に、今日の分は書いておいたから」
「ああ、ありがとう。偉いな、樹里」
「えへへ」
過去、人間の手にデスノートが渡ったという話は、リュークもいくつか耳にしたことがある。しかし、たったの五日間であれだけを殺した例も、複数の人間がこうして穏便に手を組んでいた例も、いまだかつて聞いたことがない。
兄妹の間でどういう取り決めが交わされているのか、非常に興味深い。後でジュリに聞いてみるか。
「それじゃ、あたし宿題しなきゃだから」
「おっ、じゃあ、俺も……」
「待て、リューク」
と、月がリュークを引きとめた。表情と声音がいやに硬い。
「どうして、リュークが樹里についていくんだ?」
「死神界の掟でな。ノートの結末、もしくはノートを拾った人間の死を、俺は最後まで見届けなきゃならない」
「えーっ。じゃあ、リュークはこれから一生あたしの後をついてくるってこと?」
「ジュリがノートを手放さなきゃ、そうなる」
リュークの言に、樹里はあからさまな不満顔だ。
一方で月は腕を組み、思案に暮れている。やがて、その目が鋭くリュークを射抜く。
「――リューク、オスだろ?」
「えっ……ウン」
突拍子もない問に、ポカンとしながらも頷いた。急に何を言い出すのやら。
「そ、それが、何なんだ?」
「リューク。普通に考えて、中学生の妹が異性と同じ部屋で生活するなんてことを許可できると思うか?」
「そりゃ……いや、だが……死神はそういうのないし……」
思ってもいなかった方面から攻められて、リュークはついしどろもどろになった。両手をわたわたと動かして主張するが、月は追及を緩めない。
「なくてもだ。僕は樹里の兄だからね」
「お兄ちゃん……」
樹里は何やら感動のまなざしで月を見つめている。勘弁してくれ。
「だから樹里、僕にノートの所有権を譲るんだ」
「えっ、で、でも……」
「さっきの言い方だと、そういうこともできるんだよな、リューク?」
うろたえる樹里を置き、月はリュークを見やる。
「そしてそうすれば、リュークは僕に憑くことになる」
「ああ、ライトの言うとおりだ」
「だっ、駄目だよ!!」
突然、樹里が大声で叫んだ。
これが数時間前には、泰然とリュークと言葉を交わしていたのと同一人物だとは到底思えない必死さで、樹里は月に取り縋る。
「お兄ちゃんは受験生なんだよ? こんなのが四六時中そばにいたら、成績が下がっちゃうかもしれないじゃん!」
「……あの、こんなのって、俺?」
「大丈夫だよ、樹里。僕の成績はこの程度じゃ下がらない」
「なあ、この程度って俺のこと?」
「それはわかってる。お兄ちゃんは頭いいし、運動もできるし、かっこいいし、何でも完璧だもん。でも、あたしのせいで、お兄ちゃんに要らない負担をかけるなんて」
「馬鹿だな、樹里……僕が樹里のためにすることを、負担だなんて思うわけないだろ?」
リュークの抗議なぞ、兄妹には聞こえちゃいなかった。
手持ち無沙汰になったリュークは、放置されていたデスノートを摘み上げ、適当に中をめくった。二人がかりで書き込んでいるという点を考慮しても、記された名前の数は異常だ。並の人間じゃこうはいかない。いや、少なくとも兄妹仲は並じゃないようだが。
「そういや、所有権を放棄すると、ジュリからデスノートに関する記憶が消えるぞ」
リュークがふと思いついた一言をこぼすと、樹里は勢いよく振り向いた。……おい、聞こえてるじゃないか。
「ほら、ねっ、記憶がなくなったら困るよね? お兄ちゃんのことも手伝えなくなっちゃう」
「……わかったよ。リューク、だからって妙な真似はするなよ」
「だから、死神はそういうのないからな」
月が無言で手のひらを向けてきたので、リュークはデスノートを渡した。ついでにノートについて気にかかったことを聞いてみた。
「なあ、何で二人目のやつ以外は、死因を書いてないんだ?」
「……へえ、いいところに目をつけるな、リューク」
「どうも」
「死因を書かなければ心臓麻痺。犯罪者が次々と心臓麻痺で死んでいくんだ、どんな馬鹿だろうと、僕たちの存在に――正義の裁きをくだす者がいることに、嫌でも気が付く」
「そうだろうな。だが、人間界の掟には詳しくないが、バレたらまずいんじゃないか?」
「いいんだよ、僕たちの正体さえ知られなければ。そのうち、誰も悪いことはできなくなる。真面目で心優しい人間だけの世界が築き上がる。そして、」
月は両手を広げた。仕草も、語調も、まるで演説者のそれである。狂気のような何かを孕んで、ぎらぎらと輝く瞳。
そういった者たちが、大抵はどんな末路を辿ることになるのか。暇を持て余していたため人間界を覗くことも多かったリュークは、よく知っている。
「僕たちは、新世界の神となる!」
さて――この二人は、リュークを長らく楽しませてくれるのか。
「ククッ。おまえの兄貴、面白いなあ」
「え? ああ……お兄ちゃんのこと」
樹里は陶然と兄の演説に聞き惚れていたらしく、夢から覚めたかのように瞬きをしてからリュークを見やった。
「うん、ね、素敵だよね?」
「いや、一文字も合ってない」
やっぱり、人間ってやつは面白い。ただ、リュークが思っていたよりもずっと、面倒なことは多いようだけども。