18
ふと気が付くと、樹里はぼうっと天井を眺めていた。消毒液の匂い。やわらかなシーツの感触。霞みがかった記憶を手繰り寄せるよりも先に、懐かしい声がした。
「樹里! 気が付いたか」
「お兄ちゃん……?」
樹里は声の方へ首を巡らした。まだ頭がぼんやりとしている。兄が心配そうな顔で樹里を覗き込んでいる、それを認識した瞬間、
「お兄ちゃん!」
ベッドから転がり出んばかりに飛び起きた樹里を、月が咄嗟に抱きとめてくれる。必死にその首にしがみつく。
「お兄ちゃんっ、お兄ちゃんっ……」
「ごめん、樹里、怖かったな。早く助けてやれなくてごめん」
「ううん、怖くなかった。怖いことなんて何にもなかったよ。だって、お兄ちゃんが助けに来てくれるって、わかってたから。来て、くれたから……」
「ああ、そうだな。樹里はよく頑張ったよ。偉かったな」
つい子供っぽい強がりを口にしてしまう樹里の背中を、月はあやすように優しく撫でてくれる。ああ、夢じゃない、本物のお兄ちゃんだ。せっかく堪えていたものが堰き止められず、樹里は激しく泣き出した。
月はベッドの縁に腰かけ、樹里が辛くないように体勢を整えたうえで、改めて樹里を抱きしめてくれた。
ひとしきり泣くと現実感が戻ってくる。そうだ、樹里が捕らわれていた廃墟を警察が囲んで、月が助けに来てくれた。あれからどのくらいの時間が経ったのか、おそらくここは病院だろう。樹里の身じろぐ気配を察して月が腕を緩める。周囲を見回すと、どうやら個室のようだ。散々泣いた後で今さらだが、他の患者がいなくてよかった。
「あ、リューク」
「よお、ジュリ」
至って軽い挨拶。
この死神は樹里が誘拐されていた間も助かった今も、いつもどおりだ。……しまった。レムの手前、兄がいるときにリュークと会話するのはよくない。ハッとなった樹里に、すかさず月が言った。
「レムなら死んだよ」
樹里はびっくりして月を見上げた。月が返すまなざしはこれ以上なく優しく、思わず顔がほころんでしまう。
「なーんだ、よかったあ! これでやっと、あの女を殺せるね。またお兄ちゃんと一緒にキラをやれる」
「まだ駄目だ。樹里はこれから入院だからな」
「えっ、あたし、家に帰れないの?」
月がしかつめらしく言うので、樹里は戸惑った。やっと平穏が戻ってきたと思ったのに、どうやらまだ時間がかかるらしい。
「検査入院だよ。二、三日で済む。母さんも僕も見舞いに来るし」
「うん……」
「弥については、もう少し機会を見計らってからかな」
あからさまに落ち込んだ顔を見せたせいか、月は優しく樹里の頭に手を置いた。あまりごねては兄に迷惑をかけるだけだろう。邪魔者はいなくなったのだから、焦る必要はない。樹里は気を取り直して笑う。
「うん、いいよ。そういうの考えるのは、お兄ちゃん大得意だもんね。頭脳派の兄を持って助かってまーす」
「それはおまえが非頭脳派すぎるだけだろ」
「もおっ、本当のこと言われたら反論できないじゃん!」
「そこは反論できるようにちゃんと勉強してくれよ。母さん愚痴ってたぞ」
「うわっやぶへび……」
「ほら、あんまり無理をすると入院が長引く。そろそろ横になるんだ」
促され、樹里は大人しくベッドに背をつけた。
月は布団を肩まで引き上げて、樹里の頭を撫でてくれる。月の仕草ひとつひとつを宝物をもらうような気持ちで見つめていた樹里は、兄の手が離れる前におずおずと切り出した。
「お兄ちゃん。あたしが眠るまで、ここにいてくれる……?」
「ああ、当たり前だろ」
ありがとう、お兄ちゃん。返事をしたつもりが、いまいちきちんとした音にならなかったかもしれない。瞼が重くてくっついてしまう。眠らなければ、兄はずっと一緒にいてくれるのに……
「そうだ……あたしね、お兄ちゃんに教えてあげたいことが……」
何を喋っているのか、自分でももうよくわからない。抗いようのない眠気に引きずられて、樹里の意識は再び沈んでいく。薄れていく感覚の中で、手を握ってくれる兄のぬくもりだけを、樹里はいつまでも感じていた。
内田組の主たる構成員は全員死亡。
それがこの誘拐事件の結びとなった。死因は心臓麻痺、つまりキラによる殺人だ。警察としてはキラに遅れを取った形になるが、捜査員たちの表情は明るい。
「ちょうどよくキラの裁きが下るなんて偶然、起きるもんなんですね~」
「偶然とは限らんだろう。我々がLのもとで捜査を始めるまで、キラには捜査情報が漏れていたんだ。キラも警察関係者との繋がりを持っている」
「ええ、誘拐事件の情報の流出元を探れば、ひょっとするとキラの方の手がかりがつかめるかもしれません」
「そういう意味では、事件はまだ終わっていないと言っていい。気を緩めるなよ、松田」
「な、何で僕だけに言うんですか……」
刑事たちの間で小さな笑い声が上がる。
彼らの会話を背に、Lは監視カメラの映像を隈なくチェックしていた。現場の廃ホテルから押収された証拠品である。
死亡した内田組の構成員の中には、身元不明の欧米人の少年が一人いた。不法入国者が金目当てに組織の使い走りでもやっていたのではないかというのが警察の見解だった。
……何とか手を回して、イギリスに帰す算段はつけている。
殺人はそれを犯した人間が悪なのであって、他者が責任を負うものではない。――ないのだが、Lにも自責の念はあった。メロの行動はLが焚きつけた結果だ。メロがあそこまで無茶をするとは……いや、言い訳はすまい。メロのそういった気質に期待をかけていたことは確かなのである。
彼のことで、Lは刑事たちの目を盗んでニアと一度だけ言葉をかわした。
「メロではキラに勝てなかった。それだけのことです。ただ、もし……」
……ニアはその先を口にはしなかった。
監視カメラのデータは、メロが遺したキラの手がかりだ。Lは月が映る映像を繰り返し確認した。あのタイミングでのキラの犯行。夜神月と無関係とは思えない。
内田組の構成員の顔と名前を知るのは、警察のデータベースにアクセスすればたやすいだろう。実際、月当人から報告されたことだが、月の携帯電話には二人分の情報が入っている。
しかし、誰も月を疑っていない。監視カメラの映像で、月が何もしていないことは明らかだからだ。音声データは破損していたため話の内容はわからない。夜神月の報告では、当たり障りのないこと(誘拐犯と人質の身内の会話としては、という意味でだが)だったようだ。Lから見てもこれらに不自然な点はない。
では、メロが殺されたのはどういうことだ……?
夜神月はメロと顔を合わせていない。彼にはメロを殺すことはできない。Lの月への疑いが間違いだったとして、キラにはメロが殺せるのだろうか? キラはどうやってメロの素性を知った? あの状況でメロの顔と名前を知りえた人物。それは――
夜神樹里だ。
……いや、彼女に兄ほどの頭脳はない。キラほど知恵が回るようとも思えない。やはりキラと思しきは夜神月である。だがメロを殺すなら樹里だ。キラは裕福で純粋な子供。幼稚で負けず嫌い。それでいて挑発に乗らない冷静な人物。二面性。単独犯。私は重大な思い違いをしていやしないか。まさか。
天啓のように、Lは閃いた。
キラは二人いるのでは――?
病室で、月は眠る樹里をずっと見つめていた。
樹里はこちらが不安になるくらいに深く眠っている。先ほどはすっかり元に戻ったかのように明るく振る舞っていたが、まだ本調子でないのは当然だった。起き上がって話しただけでも負担だったのだ。
泣き出した樹里を抱きしめて宥めた。くだらない会話をした。今は穏やかな寝顔を見守っている。いくつもの積み重ねで、月の中では、妹を取り戻したという実感がようやく現実のものとして形を作りつつある。
そんな大事な兄妹の時間を、ククッという不気味な笑い声が邪魔をした。
「――まさか死神まで殺すとはなあ」
「何だ、リューク。恨み言か?」
「いいや? 人間が死神を殺すってのも、なかなか面白かったぜ。でもさっきの話、いいのか? あの娘を助けると、レムと約束したんだろ」
「ああ、レムとしたのは約束じゃない、取引さ。取引っていうのは相手がいて初めて成立するんだ。死んでるんじゃ話にならないよ」
「おまえ詐欺師に向いてるよな」
「ははっ。うまい冗談だな、リューク」
「…………」
応酬の間も、月はリュークに背を向けていた。月が包み込んでいる樹里の手。月とは違う、その小さな爪の輪郭を何とはなしに観察しながら告げる。
「まあ、そうだな。面白いものはまだまだ見せてやれると思うよ」
「おっ、Lとの対決か?」
「その前にNだろうな。弥の処分もうまくやらないと。まったく、やることが多くて参るよ。けど、今回のことでよくわかった。障害はきちんと取り除いておかないといけない」
目を覚ました樹里は怖くなかったと言ったが……月は、怖かった。このぬくもりが、いつまでも存在すると思っていたものが、失われるのかもしれないと考えたとき。
樹里が欠けたら月はどうなるのだろうか。うまく想像できないし、したくもない。
……さて。樹里が目覚めたことを、気を揉んで待っている両親にそろそろ連絡しなければ。月は樹里の手をそっと外して布団の中に入れてやる。立ち上がって病室を出ていくと、樹里に憑く死神はついてはこない。
「次も期待してるぜ、ライト」
立ち去る背中にリュークはそう投げかけた。兄妹が邪魔者をすべて片付けるのが先か、足元の薄氷を踏み抜くのが先か。それは神にも――神と名の付く死神にもわからないことだった。