17

 メロには、キラがどうやって殺人を行っているのかわからない。
 だから夜神月が「三日欲しい」と言い出したとき、果たしてこれが本当に能力の受け渡しに必要な期間なのか、単なる苦し紛れの時間稼ぎなのか、判断できる材料を持たなかった。そのうえで月の言い分を受け入れたのは、彼を舞台に引きずり出すことこそがメロの計画の要だったからにほかならない。
 そのメロをして、見張りの男が「機動隊に囲まれている」と泡を食って駆け込んできたのには意表を突かれた。月との電話では逆探知などの対策をしていたし、会話の中でもLとの繋がりはもちろん内田組の名前だって持ち出さなかった。ここは書類上では内田組と無縁の土地であり、一日足らずで探り当てられるはずがない。――動揺をほんの一瞬で抑え込み、メロは噛み砕いたチョコレートを嚥下して立ち上がった。
「戻って入り口を固めろ。絶対に中に入れるな」
「まさか、籠城するつもりか? 持久戦になったら仕舞いだぞ」
「夜神月との取引が終わるまでだ。キラの能力があれば、警察を操ることも無力化することも思いのままになる」
 不遜で堂々としたメロの態度は皆に伝播し、血気盛んな彼らはすぐにその気になった。当然、メロは命をかけて組織に尽くすつもりなど毛頭なく、事を成せば一人で逃走する心算である。
「夜神樹里を連れてこい――」
 まず、新たに撮影した人質の写真を夜神月に送りつける。前回と異なるのは、メール本文が空白でないことだ。妹の命が惜しかったら一人で入ってこい、といういかにも陳腐な脅し文句。だが、夜神月には最も効果的だろう。
 さして待つことなく、警官の垣根が割れて奥から夜神月が姿を現した。武器や通信機器の類を捨てさせ(銃は所持していなかったが、小型カメラと盗聴器がいくつか出てきた)、携帯電話のみ所持を許可する。月は刑事たちと二、三、短い言葉を交わし、それから慎重な足取りで廃墟に向かう。
 メロは板チョコを舐めながら、その様子を急ごしらえのモニタールームからつぶさに観察していた。監視カメラやマイクは建物の周囲だけでなく、内部のあらゆる場所に設置してある。
「油断はするなよ。夜神月だけじゃなく、警官の動きにも注意しろ」
 無線を使い、組員たちに鋭い指示を飛ばす。その間にも、月は一人で荒れた廊下を進んでいく。この場所はかつてホテルだった建物で、改築が繰り返されたせいで中はいささか入り組んだ造りになっていた。後から機動隊が突入しようとしても多少は手間取るはずだ。
 手早くもう一通のメールを送った。着信に気付いた月が携帯電話を取り出し、画面を確認する。……足を止めたのは束の間のことで、すぐにまた歩き出した。
 メロは顔を顰め、チョコレートから口を離した。
「どういうことだ……?」
 数多の監視機器は何の異常も伝えてこない。
 先ほど月に送信したのは、内田組の下っ端二人の顔写真と名前だ。
 機動隊に包囲された時点で、能力の取引など成立しない。少なくとも向こうにはそのつもりがない。ならばメロはもう一方の目的を遂行するだけだった。つまり、メロの目の前でキラの力を使わせる。
 月の行く先では、囮の二人がそうとは露知らず、キラ対策のフルフェイスタイプのヘルメットを被り、樹里を連れて待ち構えている。
 夜神月はメールを読んだ時点ですべてを悟っただろう。写真の二人がキラを釣り上げる餌であることも、誘拐事件の裏側にあったメロの真の企みも。しかし妹を助けるには、罠と承知のうえでもこの誘いに乗るしかない。
 ――それが、どうだ。夜神月は一向にキラの能力を行使しない。
 通信機器はすべて捨てさせたので、警察の目を気にする必要はない。警察ではなく、こちらの監視カメラを警戒しているのだろうか? だが、月は間もなくメロが指定した部屋に辿り着く。対面してから怪しい行動を取れば、相手に反撃の機会を与えてしまう。人質の夜神樹里にも危害が及びうる。
「夜神月なら、保身よりも妹を取ると思ったが――」
 メロが読み違えたと言うのか。道中とうとう何も起こらないまま、月はその部屋に踏み入った。

樹里!」
「お兄ちゃんっ……」
 兄の姿を目にした瞬間、夜神樹里は駆け出した。どこにそんな気力を残していたのか、しかし監禁で弱った身体のためか足がもつれ、床に散らばった廃材につまづいて転ぶ。
 内田組の男は樹里の腕を掴み、無理矢理立ち上がらせると後頭部に銃口をあてがった。もう一人は、入り口に立つ月に銃を向けている。
 着崩したスーツにヘルメットという、キラ対策だと知らなければ異様な風体。廃ホテルの客室は、小さな丸テーブルと椅子が置いてあるだけで寝台は片付けられており、広い空間となっている。ヘルメットのシールド越しにも男の声はよく響いた。
「感動の再会は後回しにしてもらおうか。入ってこい。三日より早いが取引といこう」
 月は軽い皮肉には応じず、黙って彼らと向かい合った。それから、用心深く切り出す。
「……僕はキラじゃない。だから、キラの能力は渡せない」
「ほお」
 男は月の言い分を信じなかった。銃を樹里が肩をすくめるほどに強く押し当て、その銃身を月に見せつける。
 内田組を動かすに当たり、メロはキラ事件の調査結果をつまびらかにしている。夜神月がキラだという推測も、いくつかでっち上げの根拠も交えて説いた。夜神月はキラの能力を使わずに妹を助けるつもりかもしれないが、彼らの懐柔は容易ではない。
「確かに僕はキラ事件の容疑者として疑われていて、一時はLの監視を受けていました。しかし疑いが晴れたからこそ、捜査員に勧誘されたんです。外にいる他の捜査員に聞いてみてください。皆、僕は無実だと証言してくれるはずです」
 よく喋るな、夜神月……
 監視するメロは、真っ先に機動隊突入までの時間稼ぎを疑った。外を映すモニターで不審な動きがないことを認め、また室内のモニターに目を戻す。いずれにせよ、夜神月から何か反応を引き出さなければならない。ひとまず月の話を聞くしかないか――
「キラの能力ではないが、僕は樹里の身柄と交換に、あなたたちに提示できるものがある。……この建物からの逃走経路だ」
 ヘルメットの二人は顔を見合わせた。黒いシールドで互いの顔は見えないはずだが、思わず取った仕草だろう。
「僕はキラじゃない。あなたたちの目論見は破綻した。機動隊はじきに乗り込んでくる。キラ事件のせいで世間は警察を無能と謗るが、彼らはここを制圧できるほどには有能です」
「その有能な警察様が、ご親切に俺らをみすみす見逃してくださるってのか?」
 男の嘲りにも、月は自らのペースを崩さない。
「僕の身分は大学生で、正式に警察組織に所属しているわけではありません。僕にはあなたたちを逮捕する義務や責任はないんです。いや、一市民としての義務を放棄するわけだから、逃走幇助の罪には問われるかもしれないな……」
 ふと見せた、自嘲めいた笑みには真に迫ったものがあった。
「それでも、妹の命に代えられるものではないと思っている。キラではない僕がここにいる、この事実から、妹を助けたいという気持ちに偽りがないことはわかっていただけるはずです」
「……ただの学生が、どうやって逃走経路を確保するんだよ」
「今回の人質奪還の作戦は、ほぼ僕が指揮をしていました。僕は過去に警察に協力していくつか事件を解決したことがあり、警察はそれなりに僕を信頼して任せてくれます。おかげで、包囲網に穴を開けておくのは労せずして済んだ。ただし、機動隊が突入したら、もうあなたたちを逃がすことは難しい」
 彼らの会話を聞いている間中、メロには違和感が付き纏っていた。夜神月は何を考えている? いや、悠長に考察する時間は残っていない。囮たちは月の話術に嵌まりかけている。このまま言い包められないとも限らなかった。
 ひとまず話を切り上げさせ、次の一手を打つべきか――
 メロが行動に出るよりも先に、モニターの向こうの月が右手をかざした。右手に持つ携帯電話の画面を。
「逃げる以外に道はありませんよ。あなたたちはすでに内田組に切り捨てられている」
 ――やられた!
 夜神月が二人に見せたのは、メロが送ったメールだ。
「メロ! どういうことだ!」
「……おい、騒ぐな。言うとおりにやれ」
「言うとおりに死ねってか!?」
 男たちはカメラを探して、怒鳴りながらあちらこちらを振り仰ぐ。キラと思しき相手に顔と名前を晒されている。どんな馬鹿でも、己らは捨て駒にされたのだと理解できよう。
 メロの中で、違和感はいよいよ見過ごせないほどに膨れ上がっていた。
 なぜ、こうも回りくどい手段を取る? 夜神樹里を確実に助けられる自信があったのか? 実際に、月の策はすでにほとんど成功していると言っていい。しかしメロのメールがなければ、決定打を打つのは難しかったはずだ。ホテルを包囲した段階で、メロの行動までを予期していたとでも言うのか。
 疑問は尽きない。ただし――夜神月の行動は、夜神月がキラでなければすべて筋が通る。
 馬鹿な。
 浮かび上がった仮定を、すぐさま否定する。だとしたら、キラは誰だ。関東在住、警察関係者の身内、FBIの調査対象、プロファイリング、弥海砂との接触。Lが疑っているという事実を差し引いたとしても、夜神月はそのすべてが当てはまる、キラに最も近しい人物だ。
 ……違う。
 プロファイルだけは、月の性格といくつか合致しない点があった。そして、同じくすべての条件に当てはまる者がもう一人いる。第二のキラである弥海砂が、後に発言のすべてを翻すも、キラだと証言した人物が。
 あのLですら考えが及ばなかった。メロ自身も一度は思い至ったが即座に否定した。
 まさか。
「夜神樹里が、キラなのか……?」
 確信があったわけでは決してない、メロのぼんやりとした呟き。
 高性能の受信機はそれを拾い上げ、モニターの向こうの男たちの耳にしかと届けた。思いもよらない言葉に二人は困惑する。
「何だって? このガキがキラ?」
「違う!!」
 突然、月が弾かれたように声を張り上げた。
「何を言っているんだ。樹里がキラだって? そんなはずはない、そんなことあるわけがないだろう! さあ、僕は手のうちをすべて見せたぞ! 早く樹里を解放してくれ!」
 それまで冷静で落ち着いた所作を貫いていた月の、あまりにもひどいうろたえようだった。大海に落ちたひとしずくの疑惑は、驚くほどに波紋を広げていく。
 最初から、夜神月はキラの正体を知っていたのではないか……? それどころか、キラに手を貸し、警察の情報を流してすらいたのかもしれない。あえて己がキラだと疑われるよう振る舞っていたとも考えられる。妹のためなら犯罪すら見過ごすと、今、その口で語ったではないか!
 夜神樹里がキラ。だとしたら――
「殺せ!」
 受信機を引っ掴み、声を叩きつけるメロ。
「今すぐ夜神樹里を殺せ! さっさとしろ!」
 メロは時間をかけすぎた。このまま警察に突入され、樹里が誘拐事件の哀れな被害者として保護されたとしたら、どうなる? メロは顔を晒している!
「い、いや、何でだよ……こっちがキラなら、今からでも能力を奪っちまえば……」
「馬鹿か! 俺たちはその女に顔を見られているんだぞ! キラが死んでも、それきり殺人が止まればそいつがキラだという証明にはなる!」
「証明? 何のことだ? 俺たちは、キラの力を……」
 この土壇場で事実がひっくり返された衝撃。加えて、己が知らず死の淵に立ちっており、危うくその先に一歩を踏み出そうとしていたのだと自覚した瞬間に生じた恐慌は、少なからずメロから冷静さを奪っていた。
 メロに気圧される二人は、けれどもどんなにメロが怒鳴りつけようと、引き金を絞る決断を下せない。キラの力を得られなければ、内田組は無惨に機動隊に蹂躙される。誘拐と殺人、ふたつの罪の重さの天秤。月が提示している逃げ道。メロが彼らを囮として利用していた事実。それらが彼らを迷わせていた。
「夜神樹里を殺せ!!」
 メロの怒声は無線機から漏れ出て、男に拘束されている樹里にまで届く。かろうじて気を張っていた樹里は、抜き身の殺意を浴びてふと失神する。意識のない樹里の身体がくずおれ、男は体勢を崩す。
 そうして男は床に倒れると、そのまま動かなくなった。
「どうした? おい――」
 メロはすぐに異変を察した。もう一人も胸を押さえて倒れている。心臓麻痺? 夜神月は彼らから少し離れた位置で呆然と立ち尽くしており、何かをしでかした様子はない。樹里は意識を失っている。これは、いったい――
「うっ……」
 鋭い胸痛を覚えて、メロは板チョコを取り落とした。身体を起こしていられず、コンソールに倒れ伏す。心臓麻痺――キラ――なぜ――俺の名前を――思考が散り散りになる。
 メロには知るよしもなかった。
 その場には夜神月の他にも樹里の死を望まぬ者がいて、今まさに、死神の鎌を振るったということを。


 ヘルメットの男たちが倒れて動かなくなると、月は樹里に駆け寄りその身体をそっと抱え起こした。樹里は目を覚まさない。瞼を閉じた顔には憔悴の色が濃く出ている。正しい呼吸を繰り返しているのを確かめて、胸を撫で下ろす。
 それから、部屋の隅に目をくれた。そこには白い死神が佇んでいる。
「これは……レムが……?」
「ああ。夜神樹里を助けるために、私がやった。首謀者のミハエル・ケール、組長の内田狩須、この建物にいる内田組の者をすべて殺した」
 死神レムの身体は砂とも錆ともつかぬものへと変じ始めていた。
 仕方がない、とレムは思う。夜神月は彼の持つ権限と能力を最大限に駆使し妹を助けようとしたが、今一歩のところで及ばなかった。樹里がキラであることもばれてしまった。レムがミハエル・ケールらを殺すほかに道はなかった。
 レムは満足している。レムの死は、弥海砂の救済を意味する。夜神月は有能な青年で、捜査本部への影響力も強い。彼になら、ミサを託すことができる……
「私が消えたら、このノートを回収しろ。誰にも見つからないように持っているんだ。後のことは夜神樹里に聞け」
 レムが立つ場所はちょうど監視カメラの死角になっている。レムの残骸の中から月がノートを拾ったとて、誰にも見咎められないはずだ。レムは右腕を持ち上げ、月を指差した。その指先は崩れてすでにない。
「私は夜神樹里を助けた。代わりにおまえはミサを助けるんだ。これは取引だ。いいな、夜神月。約束を守れ」
「レム……」
 樹里を胸に抱く月は崩れゆくレムをじっと見つめ、そして言った。
「最後にひとつ、いいことを教えてやるよ」
 レムは驚き、僅かに目を見開く。
 そのぞんざいな口の利き方は、レムが持つ夜神月のイメージにまったくそぐわないものだったからだ。驚くレムをよそに、兄妹の背後に立つリュークがクククと笑い声を漏らしている。
「僕が……」
 月はうっすらと笑みを浮かべる。整ってはいても、相手を見下す悪意と驕りの入り混じった、確かな冷笑。
「――僕たちがキラだ」

 その言葉は、息絶える寸前のメロのもとにも部屋のマイクを通して伝わっていた。
 月と樹里、この二人がキラだった。
 ニアどころか、Lすら掴めなかった真実に手が届いた。
 やったぞ!――彼は突っ伏した姿勢のまま、目の焦点が定まらず、指一本動かすことすらままならぬ状態で歓声を上げた。
 やった! 勝った!――それは引きつった呼吸音でしかなく、声にはならなかった。
 勝ったぞ! 俺は勝った! 僕はニアに勝ったんだ!!
 興奮する心とは裏腹に、彼の身体は急速に熱を失っていった。勝利の喜びに包まれながら、メロは十余年の短い生涯に幕を下ろした。

 レムに残された時間はもうなかった。
 樹里は月が協力者だとは一度たりとも漏らさなかった。リュークも何も言わなかった。月はすべてを知らぬふうに振る舞っていた。レムが接触を試みたあのときでさえ。
 もはやデスノートに新たな名前を記すことは叶わない。いや、この二人が死んだら、それこそミサの味方は誰もいなくなってしまう。
「頼む……」
 事の次第を把握する時間も、どうするのが最善なのかを考え抜く時間もない。レムには託すことしかできない。
「ミサを……ミサ……」
 砂山の上にデスノートが落ちた。

 後には二人の兄妹と黒い死神が残った。