ずっと、すすり泣きが聞こえていた。
 沙耶と同じようにしてここへ連れてこられた、少女のもの。決して短くはない時間をともに過ごしているのに、沙耶は彼女が泣き声以外に発した音を耳にしたことがなかった。
 いや、知らないのは声ばかりか、顔だってそうだ。
 当然だった。何せ、光源は小さな天窓ひとつのみという、昼間でも薄暗い部屋の中である。加えて、沙耶はいつも横たわったままで、彼女に語りかけも近付きもしないでいる。彼女の方にも、それは同じことが言えるのだけれど。
 彼女の嗚咽は、雑音だ。
 鼓膜を震わせはしても、心までを揺さぶりはしない。宙を漂って、そのうちどこかへ消えていく、ただそれだけのもの。だったら、聞こえないのと同じだ。
 逃げだという、自覚はあった。
 彼女の一切を知覚から閉め出すことで、沙耶は逃げている。彼女は以前の沙耶そのものであり、その存在と向き合うことは、今の現実と向き合うことにほかならないから。
 きっかけは、もうおぼろげにしか思い出せない。
 気が付いた時には、すでにどことも知れない山中にひとりで立ち尽くしていたのだ。
 ここはどこ? どうして、わたしはこんなところにいるの。
 考えても、何もわからない。しかし、答えが得られたところで状況がよくなるでもないこと、途方もない危機に陥ってしまっていることだけは、よく理解できた。
 山道をとぼとぼと歩いた。歩けど歩けど、山深い景色は変わらない。やがて日が沈む。
 焦り。疲労。孤独。飢えと渇き。
 そして、絶望。
 そのうちにあいつらが現れて、今や沙耶は、絶えず繰り返される苦痛と屈辱の悪夢の中にいる。
 あれから、沙耶の上をたくさんの汚らしいものが通り過ぎていった。沙耶にとって、それらはとてつもなく耐えがたい出来事であり、だから、目を閉じ耳を塞いでやり過ごさなければならない。
 これは夢だ。夢なんだ。こんな現実があるわけがない。きっともうすぐ、目が覚めたら、いつもの朝に戻れるはずなんだから――心の中でそう唱えながら。今、彼女の泣き声にも聞こえないふりをしているように。
 逃避の手段として、沙耶は日常からひとつひとつを取り出し、丁寧に並べていく。
 学校での退屈な授業。お気に入りの本の一節。友人たちとした週末の約束。まだ袖を通していない、買ったばかりの服。親からのいつもの小言。
 かけがえのない過去の欠片は沙耶を慰めてくれはするが、同時に、どうしようもないほどに打ちのめしもする。
 何故なら、もう何度も、何度も何度も何度も、気が遠くなりそうなほど、数えきれないくらいの目覚めを繰り返してもまだ、沙耶は変わらず汚れた床にうずくまったままなのだ。


 怒号がした。
 びくりと肩が跳ねる。目を覚ましたのと同時に、沙耶は腕を掴まれて、ぞんざいに引き上げられた。あまりに乱暴な動作だったため、うまく起き上がれずによろめく。
 闖入者を仰ぎ見ると、そいつはさらに大声でがなり立ててきた。
 何を言っているのかは、沙耶にはよくわからない。それは言語の違いからではなく、沙耶は少し前から、連中が喋る言葉の意味をうまく捉えることができなくなっていた。音として聞くことはできても、その音がどんな意味をなすのか、言葉として理解することができないのだ。そのせいで殴られることが増えはしたが、浴びせられるのはいつも口汚い罵声ばかりだったから、聞かずにすむようになってほっとしてもいる。
 戸が開け放しになっていて、廊下からの光で部屋が明るい。珍しく見渡せる部屋には、いつも泣いていた少女の姿は見当たらなかった。
 ついに、この日が来たのか――
 床がぐにゃり、歪んだ気がして、沙耶はくずおれそうになる。
 ここで泣き暮らしていたのは、何も沙耶たち二人だけではなかった。沙耶が来たばかりの頃はもっと人数がいたのに、みんなどこかへ連れていかれて、そのまま戻ってきていない。だから今日、彼女たちと同じく、あの少女と沙耶の順番も回ってきたと、そういうことな
 ――ふと、口の中で血の味がした。それに、鼻につく異臭。
 頬がひりつき、腹の辺りがやけに痛む。腕に食い込む男の指はいつの間にか消えており、沙耶は床の上に完全に這いつくばっていた。そして、そんな沙耶を連中が取り囲んでいる。
 さっきまでとは違う部屋の中だった。ずっと明るいし、広い。おそらくは先の男に殴られでもして、自失している間に連れてこられたのだ。ここへ来て以来、記憶が連続しないのは珍しいことではない。
 ついてないな、と思う。どうせなら、最期まで心を遠くへ飛ばしたままでいられれば、楽だったのに。
 それにしても、ひどい臭いだった。吐き気がしそうなほどに強い血の香は、口内の傷のものではありえない。
 連中の足の向こうに、ぼろきれが落ちているのが目に入る。
 ぼろきれ、と錯覚したのは一瞬だけのことで、それはよく見ると子供だった。沙耶よりも、五つ六つは年下の子供。痣だらけの裸はいろんな箇所から血を流していて、もう死んでいるのだとすぐにわかった。
 あの、泣き声の……
 衝撃が沙耶を打った。
 あんな、あんな小さな子が!
 それは、今すぐ叫び声を上げて頭をかきむしりたくなるような、かつて経験したことのない強烈な後悔だった。己を見舞っている不幸の正体すら、よく理解できない年頃だったろうに。彼女が泣いている間、わたしは何をしていた? 自分のことしか考えずに、現実から目を逸らして、苦しみから逃げ続けて、自分だけが辛いつもりで。
 とっくに壊れてしまったと思っていた沙耶の感情は、それでもいくらかの機能は残していたらしい、顔が引きつり、歪むのを感じる。沙耶を見下ろしている連中が、卑しいにやにや笑いを深めた。
 一度くらい、そばに寄り添って慰めてあげれば、そうすれば、あるいは変わるものもあっただろうか――やがて始まる苦痛の中で沙耶はぼんやりとそう考えたが、もはや答えを知る術は何ひとつ残されていなかった。



 躰じゅう、どこもかしこも痛む。どうやら、死に損なってしまったらしい。
 沈んでいた意識が、だんだんと表層へ浮かび上がっていく。
 生きているなら生きているで、現実を迎えるのはもっと先延ばしにしていたいのに、疼痛は容赦なく沙耶を苛み、とうとう夢にしがみついているのも限界になって、沙耶は観念して瞼を持ち上げる羽目になった。
 真っ先に視界に映り込んだのは、白い布の上に投げ出されている、包帯を巻かれた腕だ。
 何度も瞬きをして見直し、さらには腕を持ち上げたり手のひらを握っては開いたりしてみたが、確かに沙耶の腕に違いない。躰を仰向けに回転させると、今度は板張りの天井が視界を占領する。
 これは、何だろう。
 日の光を取り込む大きな窓。明るい部屋。澄んだ空気。なおかつ清潔なベッドの上で、傷の手当てまでされている。とても信じられないことばかりだ。
 何が起こっているのか、さっぱりわからない。どうしよう、どうしよう。
 途方に暮れていると、突然、部屋の戸が開いた。
 ぎくりとする。
 誰かが入ってきた。中年の、口髭を生やした男。見知らぬ顔だ。
 沙耶と目が合うと、男は「おや」という顔をして近付いてくる。いやだ。逃げなくては。そう思うのに、躰が竦んでしまって動けない。鼓動は速まり、息が苦しい。目の前が暗くなる。次は、何をされるのだろうか。
 ……静かな声が、耳に届いた。
 枕もとまでやって来た男は、沙耶を怒鳴りつけたり床に引きずり落として唾を吐きかけたりはせずに、ただ何かを告げただけだった。内容は相変わらず聞き取れない。しかし、とても穏やかな口調であることは、わかる。その優しさに満ち満ちた声の調子といったら、あの悪夢はついに終わってくれたのだろうか、そんな馬鹿らしい期待すら頭をもたげてくるほどだ。
 この時、何を伝えようとしたのか、後から思い出してもよくわからない。しかし沙耶は唇を開き、舌を動かし声帯を震わせて、男に話しかけた。かけようとした。
 なのに、声が出ない。
 沙耶は言葉を発しようと懸命になったが、洩れるのは呼気だけだった。池の鯉のように、口を開閉させることしかできない。
「口が利けぬのか、娘」
 弾かれたように顔を上げ、沙耶はまじまじと男を見上げた。躰が自由に動かせる状態であったなら、飛び起きていたかもしれない。単なる音ではない、紛れもない人語が、男の口から吐き出されたのだ。
「どうした? そう怯えるな。何もしない。おまえは助かったのだ」
 男が告げる。先ほど沙耶に向けたのと同じ調子で、柔らかく、穏やかに。
 助かった。
 沙耶は頭の中で、男の言葉を反芻する。
 助かった、助かった、助かった、助かった、助かった、――ほんとうに? 終わったの?
 声は出ず、痛みのために起き上がれもしない沙耶は、震える手を握り締め、男の眼を見つめた。
 だからわたしはまだ生きていて、こうしてここにいるの? あなたが助けてくれたから? だったら、早く家に帰して。帰りたい。戻りたい。忘れたい。早く! 早く早く早く、それが叶うなら、何だってするのに!
 焦れる沙耶の瞳をしっかりと見返して、男は続ける。
「ああ、あの賊どもは、みんな死んだ。もう何も心配することはない」
「――――」
 それまでの興奮が、冷水を浴びせかけられたようにサッと消えていくのが、沙耶にはわかった。
 そう。あいつら、死んだの。
 冷え冷えとした胸のうちで、それだけ思った。安堵も喜びも湧かない。
 だって、見つけてしまったのだ。一瞬だけ、男の眼に連中と同じ色の光がよぎったのを。
 この男も同じだ。優しさで上塗りされているだけ。多少程度が違いはしても、根っこはあいつらと変わらない。残忍で、傲慢で、自分本位で……
 助かった、だって?
 男の言うように、そうなのかもしれない。こうして手当てを受けて、今も優しい言葉をかけられている。けれど沙耶はおそらく、ただの親切心から保護されたのではない。
 気付いたからには、選ばなければならなかった。
 否定か、肯定。
 今ここで、舌を噛み切るか。それとも、どうにかしてどこぞに逃げ延びて、そのまま野垂れ死ぬなり再び山賊どもの慰み者となるなりするのか。あるいは大人しく男の庇護を受け、同時に、どんな手段でかはまだわからないにしても、これまでのようにまた他者に征服されるのか。
 考えていたのは、そう長い間のことではなかった。沙耶は選択する。

 男の名は、王倫といった。