国の名は、宋。
 その宋の、ウン州と済州という地のちょうど堺に当たるところに、梁山湖と呼ばれる大きな湖がある。湖には巨大な島が浮いており、そこが今、沙耶のいる場所なのだという。
 宋というと、昔の中国の王朝に、そんな名がなかっただろうか。だとしたら、ここは沙耶が生きていたところとは、時代も国も異なった場所ということになる。
 最初はそんなことを言う王倫の正気を疑ったものだったが、なるほど、彼が着ている着物を見ればまったくそれらしいし、テレビや空調や、現代文明を感じさせるものは居室のどこにも見当たらず、本を開けば難しい漢字だらけで読めはしないのだった。こうなると、王倫の言葉が沙耶に通じていることの方がよほど奇妙だ。
 驚いたことに、王倫は沙耶に、あれらのおぞましい行為を強要しなかった。
 着るものも食べるものも、何の不自由もない生活。彼が沙耶に与えてくれるのは、逆に求めるものがあるからに違いないはずなのに、それの正体はいまだにわからない。
 ともあれ、ようやく文化的な生活を手に入れた沙耶は、毎日を穏やかに暮らしている。
 穏やかで、変化のない、停滞した暮らしだ。寝床からじっと窓の外を眺めているだけで、一日は終わる。以前の――もうよく思い出せない、豊かだった頃の沙耶ならきっと耐えられないような無為な時間は、けれどちっとも苦痛ではなかった。瞬きをするたびに日々が飛ぶように過ぎていくことが、何だか少し不思議なだけで。
 偶の出来事といったら、王倫や、沙耶の怪我を診る年老いた医者が訪れてくるくらいだ。
 王倫は沙耶のところへやって来ては、さまざまなことを語る。
 世の中は盗賊が横行して荒れていること。役人は己の懐を潤すことしか考えず、腐敗しきっているということ。そして、虐げられるばかりの国民の話。
 時には、彼自身の話もする。かつては王倫も役人を目指していたこと。しかし、そのための試験で不正が行われていて、合格できなかったこと。それを機に別のやり方で世を糺そうと、兵を集めてこの島に拠っていること。
 王倫の話をぼうっと耳に入れていると、時々思うことがある。
 わたしは、なんて遠くまで来てしまったんだろう。
 もう家に――日本に帰ることはないんだろうな。そんな予感も、同時にあった。今の死んだような生活の後、沙耶はやがて本当に息を引き取り、この地に骨を埋めるのだ。


 窓の外の景色は次第に移ろい、冬がやって来て、やがて春を迎える前に老医師が亡くなった。
 その報せを聞いて以来、頭痛がひどくする。
 王倫に訴えてみても、新しい医者をすぐに手配するのは難しいと繰り返すばかりで、埒が明かない。
「言ったであろう、沙耶。われらは国に反旗を翻し、この山寨に拠って立っているのだ。役人どもが間者を潜り込ませようと目を光らせているのに、軽率な真似はできん」
 王倫はいちいちもっともらしいことを言う。
 しかし沙耶が落胆してうつむくと、すぐさまこう付け加えた。
「いつまでにと約束することはできぬが、いずれは必ず迎え入れるつもりだ。冬を越せぬまま死んだ病人も、少なくはないからな。今も、朱貴に言って探させてはいるのだ」
 朱貴というのは、初めて聞く名前だった。
 王倫は、喋れない沙耶のちょっとした仕草だけで、いろいろなことを察する。この時も、沙耶が僅かに首を傾げると、こうやって続けた。
「朱貴は、われらの同志だ。島の外で情報を集めている。梁山湖の辺で飯屋をしていてな、あやつの作る饅頭はなかなかうまいぞ。一昨日、沙耶に持ってきてやっただろう、あの饅頭だ」
 おとといとは、いつのことかしら。
 沙耶はわからぬまま微かに顎を引いて、曖昧に頷いてみせた。そんなことは、これっぽっちも思い出せなかった。


 王倫から、島の中を見て回らないかと誘いを受けた。
 あまり気乗りはしなかったが、断るのも億劫で、沙耶はそれを承諾した。
 医者は来ず、頭痛はひどくなる一方で、いよいよ塞ぎ込むようになった沙耶を、王倫は慮ったのかもしれない。思い返してみれば、沙耶は宛がわれている部屋から一度も外へ出たことがなかった。
 すっかり萎えてしまった足はうまく動かず、王倫に半ば縋るようにして歩き、聚義庁と呼ばれている建物を出る。
 足の裏で踏む土の感触、直接に降り注ぐ日の光、頬を撫でる風。
 沙耶の胸の奥が小さくさざめいたような気配がしたが、しかし、それだけだった。寝台の上でぼんやりしている時や王倫の話を聞いている時と同じで、強い感情に揺さぶられることはない。
 ただ、王倫と沙耶の後ろを、数人の男たちがついてくる。みんな、腰に剣を佩いていて、それが気になった。沙耶がちらちらと目を向けていると、王倫が短く言う。
「護衛だ。気にすることはない」
 護衛。言葉の意味が、よく呑み込めない。
 そのまま歩を進めていると、大勢の人間が坂道を上っているのに出くわした。坂の下を眺めると、ざっと三百人はいそうだった。王倫が時折声をかけては労っていたので、彼らがこの山寨の兵たちであること、どこかから帰ってきたところらしいことがわかった。
「王倫殿。少し、よろしいですか」
 そのうちの指揮官らしい男がひとり、王倫のもとへやって来た。男は声に覇気がなく、どこか疲れたような眼をしている。それは彼だけでなく、坂道を行く兵たちにも同じく言えることだった。
「招待所に、朱貴殿がお見えです。医師の当てができたと」
「ほう」
「医師の他にもうひとり、入山させたい者がいるとのことですが」
 王倫はちょっと表情を動かして、顎を撫でた。
「会って、話を聞こう。ここまで上って来るよう、朱貴に伝えろ、杜遷」
 そう言いつけた後に、沙耶を見る。沙耶も王倫を見上げた。
「おまえは先に部屋へ――いや、その足では、ひとりで戻れぬか」
「私の部下を供につけましょうか?」
 冗談ではない。
 沙耶は、沙耶が今もたれて躰を寄せている王倫が、顔も知らぬ男と取って代わるのを想像して、あまりの忌まわしさに身の毛のよだつ思いになった。全身が、瘧のように震えて止まらなくなる。
 ふう、と男が息を吐いた。
「どうやら、王倫殿が連れていかれるほかないようですね」
 憐れんだような表情になって、それでもなお疲れの滲んだ声で、男は言う。
 憐れむ?
 自身が抱いた印象に、沙耶は自分でも首を捻った。その対象に思えるものが、どこにも見当たらないのだ。変なの、かわいそうなものなんて……ここには、ないのに。
 頭が痛い。
 しばらく鎮まってくれていた頭痛の虫が、沙耶の頭の中でまた暴れ回っている。ガンガンガンガン、そんな音が耳の奥に響いてくるような気がするほど。そのせいで、周りの音がよく聞こえない。
 しかし、ガン、ガン、音の合間に、何か聞こえる。
 嗚咽。吐息と間違えてしまいそうに小さくて、静かな。声もなく、誰かが泣いている。
 誰か……そんなの決まっている。きっと、あの子だ。
 目を覚ました。
 瞼を持ち上げても、視界に入り込んでくる光はない。辺りは真っ暗だった。今しがた王倫と外へ出ていたのに、沙耶は暗闇の中にひとりで横たわっている。探っても、そばに人の気配はなかった。
 ぞっとした。かつて、よく味わっていた感覚である。しかし背中に柔らかな感触があった。それで、ここがあの薄汚い床の上ではないと察する。梁山湖の山寨の、聚義庁にある沙耶の部屋、寝台の上なのだ。
 昼間に王倫と島を歩いていて、杜遷とかいう男に会った。あれから、いつの間に日が暮れたのか。いつ寝台に入ったのか。思い出したい、思い出さなければという気持ちには、ならなかった。記憶が繋がらないのは、それこそいつものことだ。
 考えることを放棄すると、急激に眠気が襲ってくる。身じろぎをして、沙耶は眠るために再び目を閉じた。その時、ふと頬の辺りに違和感を覚え、己の手で触れてみた。
 触れた指先は、何故だか湿っていた。


 宴の最中だった。
 銘々が酒の杯を手にして、赤ら顔をしている。沙耶は綺麗に着飾らされて、王倫のそばに腰を下ろしていた。
 頭が痛い。あまりの痛みに視界がぶれている。こんなに辛いのに、どうして宴会なんかに出ているんだろう。沙耶にはわからなかった。最近、わからないことばかりだ。
 王倫、朱貴、宋万、十六、槍、豹、医者、いくら思い出そうとしても、頭の中には断片的なものしか浮かんでこない。頭痛の悪化に伴って、沙耶の時間の感覚は日々崩壊し、どうしようもなく絡まった毛糸玉のようになって、解きようがない状態に陥っていた。
 頭痛を少しでも紛らわそうと、場を見回す。あるひとりが目にとまった。浅黒い肌で、がっしりとした躰つきの、背の高い男だ。何人かと談笑しているが、纏った空気に隙がなく、その眼光は異様に強い。
 豹子頭林冲。
 ふっと、そんな言葉が湧き出てきた。
 あの男の名前だろうか。これまで、一度も会ったことはない、はずだが。
 では、誰から名を聞いたのだろう?
 考えずとも、沙耶にものを教える人間など王倫しかいない。けれど沙耶には、どうしてもそのようには思えなかった。むしろ、もっと以前にその名を耳にしたことがあるような――
 頭痛。沙耶は歯を食いしばり、頭を抱えた。もう少しだって耐えられなかった。
 王倫に言えば、部屋へ帰らせてもらえるかもしれない。王倫を見やると、彼はにこやかに周りの者と会話を交わしていた。そのすぐ背後に、やはり五  人 立っ
 おそ   らく王倫の    衛な      だろ 、   らの手には杯がな
                   沙耶は以       倫が              銀を
 槌で殴られているかのような激痛。思考がばらばらになって、まとまらない。
「おい、しっかりしろっ」
 耳もとで大声がし、沙耶はハッと我に返った。
 視界は変わらず揺れていた。しかしそれは頭痛のせいではなく、目の前の男に肩を掴まれて揺すられているからだ。その程度のまともな思考ができるくらいには、頭痛は弱まっている。
 男の手。手が――肩に。
 沙耶は気付くなり息を呑み、その手をがむしゃらに振り払った。勢い余って後ろに尻もちをつき、なおも男から離れようと後ずさる。すると、
「おまえ、大丈夫か?」
 思わず逃げるのも忘れてしまい、沙耶はきょとんとした。
 こちらを気遣うような男の態度が、予想の範囲外のものだったからだ。男があの連中のように沙耶に何かしようとしているのならそんな言葉は出てこないだろうし、そうでないにしても、先の沙耶の行動で怒り出すのがふつうではないだろうか。
「おい、返事くらいしたらどうだ」
 眉根を寄せている男の口調に、苛立たしさが混じった。呆けていたのはどう反応すればよいかわからなかったからだが、そもそも、声が出ないのだ。そのことを教えるために、沙耶は喉に手を当ててみせた。
「知っている。だが、それならそれで首を振るなりして示せばいいだろう」
 ……もっともである。
 おずおずと頷く。すると男は表情から険しさを消して、こう尋ねてきた。
「腹は減っているか?」
 沙耶は少し考えてから、この問にも頷いた。
「よし。――焦挺、飯だ。それと片付けに人を寄越せ」
「はい、宋万殿」
 男が振り向いた先を見て、沙耶は驚いた。戸の前に、巨漢が立っていたからだ。今の今まで、どうしてその存在に気付かなかったのか不思議なくらいの大男だった。
 大男は頭を下げると、その体格に似合わしくない静かな足取りで部屋を出ていった。
 男と二人で取り残された沙耶は、じっと彼を見上げる。
 彼は、一体何者だろうか? この山寨にいる人間で、沙耶が名を知っている者は王倫だけだし、ましてやまともに顔を合わせたことのある者となると論外だ。
 沙耶の視線の意味するところに気付いたらしく、男が口を開く。
「宋万だ」
 宋万。やはり、聞かぬ名だ。
「言っておくが、おまえに名乗るのはこれで三度目だ。宴の時にも名乗った」
 まさか!
 とても信じられぬ思いで、沙耶は首を振った。そんな覚えはまったくない。
 待て。今、彼は……宋万は、「宴の時」と言わなかったか?
 ならば、あの酒宴は終わったのか。明かりのない部屋の中はしんと静まっていて、酔っ払いたちの喧騒はどこにもない。いや、よく見ればここはあの大広間ではなく、沙耶の部屋だ。
 その時、雲が晴れたのか、窓から月明かりが差し込んできた。青白い光に照らされ、部屋の様子が浮かび上がる。
 沙耶は愕然となった。
 ひどい荒れようだった。卓は倒され、その上に置いてあったのだろう料理の皿はひっくり返って、中身を辺りにぶちまけていた。卓だけでなく灯台や、部屋にある数少ない家具のほとんどは、床上に打ち散らかされている。
 足もとに、壊れた髪飾りが落ちていた。見覚えがあるような気がする。王倫が沙耶に寄越したものだったか。
 沙耶は自分の髪に手を差し入れてみた。ぐちゃぐちゃにほつれている。着物は着崩れて、落ちた料理が飛んだのか、ところどころ汚れてさえいた。誰かに危害を加えられて、こうなった。それにしては、何かおかしい。
 宋万が訝しげに問う。
「覚えていないのか?」
 宋万が言うには、沙耶が宴席を脱するのに、山寨の頭領である王倫が連れ立つわけにはいかず、かと言って沙耶の世話をするような女もおらず、代わりに付き添ったのがあの焦挺という大男だったらしい。沙耶を送り届けた焦挺が、気を利かせて酒宴の料理を持ってここへ引き戻った。宋万は気まぐれに宴を抜けてそれに付き合ったのだが、沙耶は二人を見て突然癇癪を起こし、尋常でなく暴れたのだと言う。
 知らない。沙耶はそんなことは何も知らない。
「癇癪持ちと聞いてはいたが、ここまでとはな。せっかく腕のいい医師が入山したのだ、早く診てもらえ」
 同情的な宋万の声は、呆然とする沙耶の耳には入らなかった。
 これじゃあ、これじゃ、まるで――わたしは狂人じゃないか?

 頭痛が、また波のように押し寄せてきた。