「――おい」
 陣中でそう呼びかけられた時、沙耶はそれが己に向けられたものだとは露ほども思わなかった。その声を発したのが、他でもない林冲であったからだ。
「おい。おまえだ、沙耶
「えっ……は、はい。何でしょうか」
 名を呼ばれなければ、危うくそのまま通り過ぎてしまうところだった。彼に呼び止められたこと、さらに名を覚えられていたということに、沙耶は内心で一驚を喫しながら、林冲のもとへ歩み寄った。
 具足をつけた林冲は、大きな黒い馬を連れていた。
 林冲の騎馬隊は、双頭山や二竜山、そしてこの独竜岡に、臨機応変に現れては官軍に痛撃を与える、そういう役目を担っているらしい。今回は、祝家荘攻めに加わるのだろう。
「ひとつ聞きたい。おまえは、もし……」
 林冲にものを尋ねられるなど、珍しいことである。沙耶は待ったが、彼の口から続く言葉が告げられることはなかった。この先ずっと後になってからも、決して。
「……もし?」
「いや、」
 彼が言いかけた音をなぞり沙耶が首を傾げると、林冲は首を横に振った。それは否定ではなく、何かの迷いを無理矢理に断ち切ろうとする仕草にも見えた。
「何でもない。行け」
 何でもないことで、林冲が沙耶を呼び止めるなどありえまい。引っかかりはしたが、長々と立ち話をしている暇もなかった。素直に頷いて礼をとると、沙耶は用を済ませるために先を急ぐ。
「私は……だろうか、百里」
 去り際、黒馬の鼻面を撫でる林冲の呟きが、風に乗って微かに聞こえた気がした。



 小柄で足の短い男が、養生所に駆け込んできた。
「診てくれ、安道全」
 男は、具足姿の女性を抱きかかえていた。女性――いや、まだ少女と呼んで差し支えない年齢かもしれない。色の白い顔は目を閉じていて、意識がないようであることが見て取れた。手足がありえない具合に捩じ曲がっている。
 女の方に目をやり、安道全は表情を険しくした。
「少し待て。沙耶、場所を空けろ」
「はい」
 沙耶が床を整え、男がその上に女を降ろした。
 同性である沙耶が、ハッと息を呑むほどの美貌だった。鼻梁がすっと通り、瞼を閉じていてもなお凛とした美しさがある。幾秒か、立場も忘れて見惚れてしまった沙耶は、次いで訝しんだ。このような麗人が梁山泊軍にいるならば、たとえ会うことがなくとも、兵の間で噂に上るのを耳にしたことくらいはあるはずだ。
「この方は……」
「扈三娘。扈家の娘だ」
 男が、沙耶の疑念を感じ取ってだろう、女の名を告げる。
 扈家。祝家荘と結びついている家の名だ。つまりこの扈三娘という女性は、敵兵ということになる。ともすればこの戦では、将校に近い立場にいるのではないか。そして、
 ――梁山泊軍の兵の命を奪ったことも、あるのではないか。そう考えて、血の凍るような思いに捕らわれる。
沙耶
 扈三娘の手足を検分しながら、目も上げずに、安道全がいつもの淡々とした声で言った。
「おまえは、助ける命を選り分けるのか?」
「――――」
 束の間、沙耶は呼吸を忘れた。やがて息を吐き、ひそやかに首を振る。
「……いいえ」
「ならばいい。私は、こちらにかかりきりになると思う。向こうにいる患者は、おまえに任せる」
「はい、わかりました」
「おまえはこの女の具足を脱がせ」
「俺が? いや、俺は」
「もたもたするな。軍袍もだぞ」
 命じられた男は、どうしてよいかわからないようで、かわいそうなくらいにうろたえていた。フォローしてやれればよいのだが、安道全の手が塞がるなら他が慌ただしくなる。沙耶まで抜けるわけにはいかないから、諦めてもらうしかない。
 負傷兵の看護をあらかた終わらせた沙耶のもとに、焦挺が姿を見せた。
沙耶。何人くらいが、戻れそうだろう」
「えっと……七人は、三日は休まないといけないって」
 沙耶は帳簿を見ながら、兵の怪我の具合を伝えた。隊長をやっている者が、こういう用件で訪ねてくることはよくあった。場合によっては、部隊を再編成する必要があるからだろう。
 焦挺とは顔を合わせても、こうして事務的な会話をするばかりだ。
 戦に勝って、梁山泊に戻ったら……以前のように、友人同士に戻れるのだろうか。開戦から三月ほどが経ったが、あの頃とはたくさんのものが変わってしまった。沙耶のうちに穿たれた空洞も、焦挺との関係も。
沙耶
「……なに?」
 帳簿から、沙耶は面を上げた。焦挺は、まっすぐに沙耶を見ていた。
「俺は、もう余計なことを考えるのはやめるよ。考えても、どうしようもないからな。俺は俺がやれることを、やればいい。そう決めた」
 その口振りは、そうやって自分に言い聞かせているようでもあった。
 五百の命をその背に背負っている。
 心の奥底ではどんなにか苦悩していたって、見せかけだけでも、何とかして受け入れていくしかないのかもしれない。どうしたって、時間は流れていくのだから。
「そっか……うん。わたしも、そう思うことにする」
 僅かに濡れたまなじりを拭い、沙耶は頷いた。
 焦挺も、沙耶と似たような煩悶を抱えていた。そして思いがけないことに、同じ結論を導いていた。手探りに進む闇の中で、それはほのかだけれど、心強い明かりとなった。
 今すぐには難しくても、いつかまたあの東屋で、語り合える日が来るかもしれない。そして、あの時はお互いに大変だったと、笑い合える日が来るかもしれない。そう思った。
 ――祝家荘が陥落したのは、その翌日のことだった。


 梁山泊軍、勝利。
 夜明け頃、その報せが養生所まで届いた時には、怪我人ばかりの幕舎の中にあっても、わっと歓声が湧いた。
「やったな。あと少しの辛抱だ。頑張ろうぜ」
「ああ、重傷から立ち直るやつも、増えるだろうなあ。こういうのは、心の持ちようで変わる」
 医療班のみんなも忙しいながら、言葉を交わす声が少しばかり弾んでいる。
 とは言え、ここで気を抜くわけにもいかない。今いる負傷兵の看護には当然のことながら手を尽くさなければならないし、勝ち鬨をあげたのだとしても、中には手負いの者だっているだろう。
 案の定、それからいくらもしないうちに、伝令の兵が飛び込んできた。
「安道全先生! 祝家荘まで、ご足労願えませんか。矢傷を負った者がいるのです」
「矢か。抜いてはおらぬだろうな」
「それは、もちろん。誰も触ってはおりません」
「どこに刺さっている」
「胸に、三本。一本は、貫通しています」
 安道全は難しい顔をして、兵の話を聞いていた。
 矢傷の処置なら、沙耶も多少はわかる。診ていた兵の手当てを手早く済ませ、沙耶は安道全が言いつけてきそうな道具を集めた。胸の傷……出血が多いだろうから、晒はいくらあっても足りまい。命を助けるのは、難しいかもしれない。
「お願いします、先生。どうか焦挺隊長を助けてください」
「……焦挺だと?」
 ただし、沙耶も、俺に同じようにしてくれよ――そしたら、いつでも沙耶に会いに行ける――俺が張り倒してやるんだがなあ――やれることを、やればいい。
 不意に、沙耶はむしょうに、何もかも全部を放り出して今この場に泣き伏したいような衝動に駆られた。もちろんそんなことはせずに、晒をかき集めて安道全のもとへ戻った。
沙耶、おまえも来い」
「はい。先生」
 手術の道具が入った包みを手にし、安道全は兵の先導で養生所を飛び出した。
 沙耶も、たくさんの晒や他の荷物を抱え、その後に付き従う。しばらく駆けると、原野が途切れた。斜面を上って門をくぐれば、家々が立ち並ぶ風景が見えてくる。
 ある民家の周りに、人が集まっていた。
 その中心で、家の壁にぐったりと背を預けるようにして、焦挺が足を投げ出して座っている。伝令の兵が言っていたとおりに、その胸には三本の矢が突き立っていた。沙耶は抱えた荷を取り落としそうになった。
 安道全は足早に焦挺のもとへ歩み寄り、腰を下ろした。傷を診ている。気を緩めればくずおれてしまいそうになる足を叱咤しながら、沙耶は二人に近付いた。
 焦挺は、意識を失っているようだった。巨大な体躯が、今は小さく縮んでしまったように思える。安道全の指先が焦挺の傷口に潜り、忙しなく動いている。厳しい表情で傷口を見つめながら、安道全が言う。
「まずは、こちらに引き戻したい。名を呼んでやれ、沙耶。それと、何でもいい、語りかけていろ」
 ……そのために、沙耶を連れてきたのだろうか。
 焦挺を挟んで、安道全とは反対側に座り込んだ。焦挺、と名前を呼ぶ。焦挺の閉じられた瞼が、ぴくりと僅かに震えた気がした。もう一度名前を呼んでみたが、今度は反応はなかった。
 思い出話をした。
 東屋で、勉強を見てもらったこと。焦挺に連れられて宋万の鍛錬を見にいって、びっくりしたこと。それから、独竜岡に来てからのことも話した。宋万を亡くして、心が千切れるように辛かったこと。けれど昨日の焦挺の言葉で、沙耶も頑張ろうと思ったこと。声が震えてしょうがない。つっかえつっかえ、いろんなことを語った。
 安道全は黙って治療を続けていたが、ふと、その手が止まった。背後を振り返る。
「宋江殿」
 宋江がすぐそばに立っていたことに、沙耶はそれまで気付かなかった。李俊という将校も、そこにいた。焦挺の姿しか視界に映っていなかったのだ。
 焦挺の傷を押さえたまま、安道全は宋江に告げた。
「申し訳ありません、宋江殿。私には、手の施しようがありません」
「そうか――せめて、もうしばらくは、持たせてはやれぬか。今、呉用を呼びにいかせているところなのだ」
「……そのくらいなら」
 沙耶はとうとう、こらえきれずにすすり泣いた。
 人垣が割れて、呉用が現れた。駆けてきたのか、息を切らせている。
「退き口を探ろうとして、矢の罠にかかったのだ、呉用殿。聞煥章も唐昇も、そこから荘の外へ逃げたようだ。罠は他にもあるだろうから、今は誰も入れていない」
 李俊が立ち上がり、呉用にそう説いた。呉用に続いてやって来た猟師の恰好をした男が、「ここだったのか」と悔しがっている。
「――呉用殿」
 掠れきった、焦挺の声がした。
 目を開いた焦挺が、呉用を見つめている。口から、泡のように血が吹き零れていた。
「とんだ失敗をしてしまいました……俺は、やっぱり、隊長なんて柄じゃないんですよ」
「何を言う。最後の斜面を、駆け上ったのはおまえだ。立派な隊長だ、おまえは」
 返す呉用の声は、微かだが震えている。焦挺はちょっと微笑んだようだった。それから、安道全に視線を移す。
「安道全先生、ありがとうございました。母を、治していただきました」
 安道全は、ただ頷いた。
 徐々に光が消え失せつつある眼が、次いで沙耶を捉える。ひときわ大きな泡が口から零れ出て、ごぽっと嫌な音を立てた。焦挺の手が沙耶の方へ、力なく伸びてくる。
「……さ……」
 沙耶、と、名を呼んだのかもしれなかった。
「しょうっ……焦挺、焦挺っ……」
 沙耶はしゃくりを上げて泣きながら、何度も焦挺の名を呼び、彼の手を握り締めた。土と血で汚れた大きな手は、おそろしく冷たく、こわばっている。
 すでに、こと切れていた。
「おまえたちの隊長だ。おまえたちが、葬ってやれ」
 人垣の方へ、宋江が声を投げかけている。四人が出てきたが、焦挺を囲むだけで何もしようとしない。焦挺の遺骸に縋っている沙耶を、どう扱っていいのか戸惑っているようだ。
「仕方なかったのだ、安道全」
 宋江が言った。
 沙耶はその声につられるように、何とはなしに安道全を見た。それまでうなだれていた安道全が立ち上がり、踵を返してこの場を去ろうとしているところだった。
 ――やれることを、やればいい。
 彼とて、辛くないわけではないだろう。焦挺はあんなにも安道全を慕っていたのだから。けれど……安道全の治療を必要とする、まだ生きている人間が、たくさんいる。焦挺が五百人の命を背負っていたように、安道全も多くの命に責任を持っている。生きている者を優先するために、死んだ者にいつまでもかかずらってはいられない。それが今、彼にやれることなのだ。
 やれるだけのことを――
 みんな、きっとそうやって、自分にやれることをやって死んでいった。宋万と杜遷が守ろうとしたもの。焦挺が背負っていたもの。沙耶にはとても重すぎて、すべてを抱えきるのは難しいかもしれない。
 でも……そうだよね。わたしはわたしのやれる限りで、やってみる。沙耶は心の中で、焦挺にそう宣言した。別れを告げ、涙を拭ってから、焦挺の部下に向かって低頭する。
「わたしから申し上げるようなことではありませんが……焦挺のこと、よろしくお願いします」
 頭を上げると、沙耶は急いで安道全を追いかけた。
 安道全は早足で養生所への帰途を辿っている。その背に追いつき、先生、と沙耶は呼びかけた。案に違わずと言うべきか、安道全はちらと沙耶に視線をくれただけで、足を緩めない。だが、返ってきた言葉は、思いも寄らぬものだった。
「……すまなかった」
「えっ?」
 沙耶は耳を疑った。
 脈絡のない語であったし、何より、安道全が謝罪を口にしたのは、沙耶の知る限りでは今が初めてだ。沙耶が面食らっているのに構わず、安道全は前を見て歩を進めながら、続けて言った。
「私は、おまえの友達を救えなかった。手は尽くしたが、それは言い訳にはならん。恨まれても、仕方がないと思う。殴りたければ殴れ。罵倒でも何でも、甘んじて受けよう」
「先生――何を、おっしゃるんです」
 我知らず、沙耶は足を止めていた。あまりの怒りに、目が眩むような思いがする。
 沙耶の様子に気付いてか、安道全も立ち止まり、こちらを振り返る。
「焦挺は……先生に感謝していました。最期まで、あんなに。そんな焦挺の気持ちをわたしが裏切ると、先生はお思いですか」
 震える声で怒りを吐露してしまうと、それは急速に萎びて枯れ果ててしまった。後には埋めようのない、途方もない寂莫感だけが残った。それまでもが崩れてしまわぬように、沙耶は今度は囁くように言う。
「人の死は、人の手ではどうにかしようもありません。わたしも、そのことを少しはわかってきたつもりです」
「……そうか」
 安道全はうつむき、半ば溜息を零すみたいに、相槌を打った。しかしはたと思い直したように面を上げると、怪訝そうな顔つきになって問うてくる。
「恨み言をぶつけるのでなければ、おまえは何のために、私を追ってきたのだ?」
「何って、養生所に戻るためにですけど……」
 沙耶は答えながら、首を傾げた。どうしてそんな当たり前のことを尋ねてくるのか、わからない。
 ……と、沙耶は先日に、安道全に叱られて養生所を飛び出してしまったことを思い出した。もしかすると、端から当てになどされていないのではないか。
「あ、あの……安先生。わたしでは、やっぱりお役には立てないのでしょうか」
「確かにおまえは役には立たない」
 間髪をいれず返答された。自分から問いかけておきながら、さすがにショックで、うっと沙耶はよろめく。
「動きは鈍いし、頭まで鈍いし、体力はないし、しょっちゅう私に口答えをするし……」
 どうやら、藪蛇をつついてしまったようだ。
 安道全は、指折り沙耶の欠点を数え上げている。鈍い鈍いとそこまであげつらわれるほどではないと思うし、体力のことは安道全には言われたくないし、口答えだって近頃は安道全の言いつけに相当に素直に従っているのに。意気消沈し、頭を垂れる。
「……だが、役立たずには役立たずなりの使い道がある」
 思いのほか優しい声がして、沙耶はびっくりして安道全を見返した。言った安道全は、もう先へと歩き始めている。
「わかったら、さっさとついて来い」
「あっ……は、はい!」
 養生所へ戻る道行きを、戦の跡を、すっかり昇りきった陽が照らし出している。
 打ち壊された塀があった。壁面が焼け爛れた家もあった。あちこちで座り込んでいる者、忙しそうにどこかへ向かっている者、その誰もが、表情にどこか安堵を宿している。
 安道全の後をついて歩きながら、あの陽の向こう、山を越え海を越え、時をも越えた先にある、己の故郷のことを沙耶は想った。かつて沙耶が愛した、沙耶を愛してくれた人々のことを想った。

 お父さん、お母さん、……みんな、ごめんなさい。
 沙耶は、この世界で生きていくことにします。

 もとより故郷に帰る術など持たぬ身では、まるで意味のない誓いだったかもしれない。けれどその叶わぬ望みを、何年もの間ずっと抱いていた「帰りたい」と願う気持ちを、沙耶はすべて手放した。だからそれは間違いなく、沙耶が自ら、彼の世界との決別を果たした瞬間だった。

故園東望路漫漫
――想う故郷は、あまりにも遠く