九
どうやって養生所まで戻ったのか、覚えていなかった。気が付くと、沙耶は養生所で、負傷兵の間を縫って働いていたのだ。しかし、そんな調子で医療の仕事をこなせるわけがない。たびたびぼんやりしたり、失敗ばかりを重ねたりして、ついには安道全の怒りに触れた。
「もういい。役立たずは要らぬ。出ていけ」
顰め面でそう吐き捨てたきり、安道全は沙耶を見もしない。
「……っ、はい、申し訳……」
声が詰まり、最後まで言葉を繋げられなかった。沙耶は踵を返し、養生所を飛び出した。
出ていったところで、行く当てなどありはしない。沙耶が使っていた幕舎は負傷兵で埋められている。だからと言って、あの場から逃げ去るほかにどうすればよかったのか――地面だけを睨んで、ひたすらに駆け続ける。
不意に、つまづいた。
転びまではしなかったが、足がもつれ、糸が切れたように土の上にへたり込む。一度でもそうなってしまえば、立ち上がることはできなかった。もう、何もかもどうでもいい、そんな投げやりな気持ちしか湧いてこない。
「――沙耶ではないか。どうしたのだ」
茫然と座り込んだままでいると、誰かが話しかけてきた。
沙耶はうつろに目を上げる。腰を曲げ、こちらの顔を覗き込むようにしているのは、大将の宋江だった。ということは、本営まで来てしまったのだろうか。公孫勝の叱責を受けたばかりだが、そういうことも、もはやどうでもよかった。
宋江は傍らに膝をついた。
「いや……そうか。宋万だな?」
沙耶の肩が、雷に打たれたように揺れる。今は、誰の口からもその名を聞きたくはなかった。なのに、沙耶が耳を塞ぐよりも先に、宋江は続けて声を発していた。
「宋万は部下を守り、雄々しく死んだ。悔いなき闘いであったと思う。戦を見ていただけの私には、そうとしか言えぬが」
その鷹揚な物言いが、ひどく癪に障った。
雄々しいだとか、悔いがないとか、そんなものが何になるというのだろう。そんなのどうだっていい。死んでしまったら、何も残らないではないか。沙耶はひたすら唇を噛み締める。地面についていた手に知らず力がこもり、指の先が土をかいた。
この国の行方なんて、民の苦しみなんて、沙耶には関係がなかった。沙耶はこの世界の人間ではない。ここは沙耶のいるべき世界ではない。だとしても、宋万がいてくれれば、沙耶はそれでよかったのだ。だから、きっと今日までも耐えられたのに。
「泣きたければ泣け、沙耶」
宋江が何のことを言っているのか、最初、沙耶にはわからなかった。
ずっと、まるで己が水の中に沈んでいるかのように感じていた。周囲にある景色も、人々の声も、ぼんやりと滲んでいた。宋万が死んだと聞かされたこともそれに何かを感じる沙耶の心も、どこか遠くに――分厚い膜の向こう側にあった。
「泣いてやれ。先に逝った者に、残された者がしてやれるのは、それくらいであろう」
けれど宋江の憎らしい声は、沙耶のいる水底にまで届いて、沙耶をそこから引き上げてしまう。
沙耶はようやく、自分が涙をこらえていることに気が付いた。噛んだ唇から血の味がするほど、地面に爪を立ててまで抑え込むほど、必死に。泣いてしまえば、認めざるをえないからだ。
宋万はいなくなってしまった。
宋万は、もう二度と沙耶に会いにきてはくれない。もう二度と名前を呼んではくれない。もう二度と笑いかけてくれることもない――あんなにたくさんのものをもらったのに、沙耶は宋万に、何を返せただろう。自分のことばかり顧みて、ついぞ気持ちを伝えることもしなかった。
「ああっ……」
引き結んでいた唇から、嗚咽が漏れる。
いつもそうだ。思い知った時にはいつも全部が手遅れで、失ったもののあまりの大きさに、沙耶は後からひどく打ちのめされてしまう。あの笑顔も、頭を撫でてくれる大きな手のひらも、すべては沙耶から失われてしまった。
永遠に。
沙耶は頭を抱えるようにうずくまって、子供みたいに泣きじゃくっていた。
どのくらいそうしていただろう、突然、辺りの音が耳に飛び込んできて、沙耶はそろそろと顔を上げる。忙しそうに行き交う兵士たち。隊長格の者が厳しく指示を飛ばす声も聞こえる。怪我を負った兵が担がれ、運ばれてもいる。
「少しは落ち着いたか、沙耶」
「あ……はい……」
沙耶は目もとを擦りながら、掠れた声で応じた。涙はいまだ止まらないにしても、自暴自棄になっていた気持ちは萎んで消えていた。何刻ほど経ったかはわからないが、宋江はずっと沙耶についていてくれたのだろう。
「……申し訳ございません、宋江様」
「なに、構わぬ。私はもうしばらく、陣を見て回ろう。その間、私の幕舎で休んでいるといい」
沙耶を立ち上がらせてから、宋江は、ある一方を指し示した。宋江の指に導かれ、視線を移す――沙耶が使っていたのよりも、大きな幕舎。それよりも、そのそばにあるものの方に、沙耶の目は奪われた。
替天行道の旗が高く掲げられ、風にはためいている。
――宋万は兵を罠から逃がすために死んだと、公孫勝が言っていた。
旗を見上げながら、沙耶は考えた。でも、きっと宋万が守ろうとしたのは、兵だけではなかったのだろう。ここにいる宋江や沙耶、ここではない場所にいる晁蓋たち、梁山泊の同志の皆のため、梁山泊軍を勝利に導くため。
そして、替天行道の志を貫くために。
宋江は、死んだ者に対してできることは、泣いてやることくらいだと言った……本当に、そうだろうか。沙耶には、他にもできることがあるのではないだろうか。
養生所には、負傷兵が次々と運び込まれていた。その中には、宋万の部隊に所属する兵も、いたはずだ。安道全のように卓越した医術は持っていない。薛永のように薬学に通じているわけでもない。白勝のように何でもこなせる器用さもない。沙耶にできることなど、微々たるものだ。でも……
宋万はたくさんのことを沙耶に語ってくれた。宋万が遺した志、その少しでもを、貫かせてやることはできないか?
逸る心を抑え、沙耶は宋江に目を戻した。
「宋江様……わたし……」
その先は、言葉にはならなかった。にもかかわらず、宋江は力強く頷く。
「そうか。やらねばならぬことがあると言うのなら、行け、沙耶」
「――はい」
涙を拭う。背中を押されて、沙耶は走り出していた。
立ち戻った養生所は、変わらず慌ただしそうだった。
安道全はちょうど、ひとりの兵の怪我を診ていた。それを見つけて近寄った沙耶が「先生」と声をかけても、安道全は振り向かない。その脇に立ち、沙耶は深々と頭を下げる。
「どうか、もう一度働かせてください。あのような失敗はもう犯しません」
ようやくのことで、安道全は沙耶に一瞥を寄越した。それでも、手は動かし続けている。
「役立たずは要らぬと言ったぞ」
「……っ、はい」
切り捨てられ、ぐっと詰まる。負傷兵の呻きに満ちた、この養生所の現状を見れば嫌でもわかる。そう言われても仕方のないことばかりを、沙耶は繰り返ししでかしてしまったのだ。
もう一度低頭しようとした沙耶を押しとどめたのは、けれど次に告げられた安道全の言葉だった。
「おまえの手足は飾りか? 御託を並べている暇があるなら動け。まず、湯が足りん。それと炭。晒もだ」
次から次へと用向きを並べ立てる安道全の横顔を、沙耶は束の間、ぽかんとして見ていた。返事がないのを訝しく思ったのだろうか、こちらを向いた安道全の眉間に皺が寄る。
「おい。聞いているのか、沙耶」
「は、はい! すぐにご用意いたします」
慌てふためいて身を翻し、何歩か進んだところで、沙耶は振り返った。
「あのっ、ありがとうございます!」
一礼し、沙耶は安道全の応えを待たず、今度こそ駆け出した。
気を入れて働くと、何かを考え込む暇はないくらいに目まぐるしかった。沙耶は憑かれたように仕事に打ち込んだ。たとえ躰はくたびれたとしても、心はそうする方が楽だったということもある。
今回の出動で、梁山泊軍は相当の被害を受けたようだった。あまりに怪我人の数が多いので、軽傷の者には薬と晒だけを渡し、取り急ぎ重傷者の看護を行う。夜を徹して治療に当たっても、まだ全員を診終わらない。
安道全の弟子たちは交替で睡眠を取っていたが、沙耶はその順番には加わらなかった。眠る間もないくらいが、ちょうどいいと思ったからだ。
目に余るものがあったのか、白勝から注意を受けた。
「そんな調子じゃ、すぐ倒れちまうぜ。休めるうちに休んでおけよ」
「いえ、白勝先生。わたしは平気です。まだ働けます」
「前にも言ったと思うけどよ、沙耶。それで倒れられちゃ、他のやつらが困るんだ」
まったくの正論である。
沙耶が口を閉ざしたのを見て、白勝は後から付け足した。
「おまえにゃ、安道全の面倒を見てもらいてえんだよ。あいつ、ひとりじゃ飯もまともに食いやがらねえからな」
それは単なる口実に過ぎないのだろう、ということはわかる。けれどもこれ以上突っ撥ねては、だだをこねているのと変わらない。気が進まないながらも、沙耶は承諾した。
養生所を出ると、そこには安道全が立っていた。どこか遠くの方を眺め、立ち尽くしている。視線の先を辿ってみると、兵の屍体が運ばれているのが見えた。陣から少し離れたところには大きな穴が用意されていて、死者の躰をその中に並べ、決まった刻限になると埋めるのである。
「医術に絶対はなく、医師は万能ではない」
安道全が、ぽつりと洩らした。
「私の手は、すべてを掬いきるにはあまりに小さい。わかってはいるが、歯痒いな」
「……先生」
安道全は悔いているのだ。彼が助けられなかった命のことを。
沙耶は、大変な時に逃げ出してしまった。沙耶の仕事はほとんど雑用のようなものだが、長らく養生所に勤めてわかったことは、人の生死を左右するのはそういう些細なものであったりするということだ。
あの中の何人、何十人かは、沙耶が死に追いやったと言っても過言ではないのだろう。いまさらながらに、後悔の念に襲われる。
「安先生。あの……本当に、申し訳ございません」
沙耶が詫びると、安道全は屍体が運ばれる列に目をやったままで、独りごちるように言った。
「天命という言葉がある。皆、それぞれに与えられた生を生き抜いた、そう思うしかないさ」
「はい……」
そんなふうに割り切るなど、沙耶にはとてもできそうにないけれど……安道全の口調には、いつもとは違う響きがあった。これがこの男なりの慰めなのかもしれない。頷き、死者の列に再び視線を戻す。
――宋万も、あの先にいるのだろうか。
胸が詰まった。あれだけ泣いたのに、また視界が滲んでくる。
いや、敵の罠の中だったと言うから、敵陣にあって、戻ってきてはいないのかもしれない。そこまで考えて、沙耶はかぶりを振り、思案もともに振り払った。そんなことを、じっくりと考えたくはない。
「いつまでもぼさっとしているな、沙耶。おまえも休むのだろう」
いつの間にか歩き出していた安道全が、少し行った先で、沙耶を振り返っている。沙耶は慌てて後を追った。
沙耶たちが寝泊まりするための幕舎はひとつだけで、そこでみんなで雑魚寝をする。独竜岡攻めが開始された頃は他にも用意されていたのだが、沙耶に与えられた幕舎を含めてすべて、負傷兵を収容するために明け渡していた。
沙耶以外は男性ばかりで、もちろん抵抗はあった。しかし、文句を言ったところでどうしようもない。戦が激化すると、男も女もなくなってしまうのだ。白勝が以前からずっと危惧してくれていたのは、そのことだったのだろう。
一応は仕切り布もあるし、みんな気を遣って休憩の時間をずらしてくれはする。それに眠る時は大抵疲れ果てていて煩う余裕もないから、そういうことはなるべく意識の外に追いやることにしていた。
安道全は、白勝の言いつけどおりに沙耶が見張っている中で兵糧を口にした後、さっさと寝てしまった。……遠慮はないが要らぬ配慮もない分、その方がいくらか気が楽だ。
自分の寝床に入り、沙耶は懐から巾着を取り出した。今は養生所で働くこと以外は何も考えたくない、と思う。夢の中でもいいから会いたい、とも思う。長い逡巡の後に、沙耶はそれを手にして眠ることにした。
目が覚めた後のむなしさも、沙耶はよく知っているけれど。
「おい、起きろ。いつまで寝ているのだ」
「は、はいっ」
声がして、沙耶は飛び起きた。
そちらを見やると、腰を屈めた安道全が仕切りの布をまくり上げ、沙耶を睨むようにしている。……仕切りの意味がない。
ほんのちょっと瞼を閉じただけのような気がしているのだが、随分と長いこと眠り込んでしまっていたらしい。沙耶が目を覚ました後も、安道全は何故だか向こうへは行かずに、じっと沙耶を見ている。姿が姿なので、どうにも決まりの悪さを味わわされた。跳ねている髪を押さえ、沙耶はうろたえる。
「あの、すぐに、支度いたしますので……」
にわかに、安道全の右手が沙耶の顔へと伸ばされた。言いさした沙耶は、ぎょっとして身を竦める。左のこめかみの辺りを安道全の親指の腹が擦り、また離れていった。
「せ、先生?」
「早くしろ。いつまでも待たぬぞ」
それだけ言って、安道全は行ってしまった。仕切り布の裾が床に落ち、後には、触れられたところに移された体温と、わけがわからぬままの沙耶が置き去りにされた。
それからも、日々は同じように過ぎていった。
祝家荘への攻勢は幾度となく繰り返され、養生所は息をつく間も惜しまれるほど絶えず忙しい。宋万がいなくても日は昇り沈むし、夜になるとまた朝が来る。何も、変わりはしない。
一度だけ、焦挺と会って話をすることがあった。
宋万と前後して、杜遷も戦死していた。部下を逃すために、自ら敵の罠に飛び込み油で躰を焼かれた。宋万に劣らぬ、すさまじい最期であったという。
そのことを聞いた時、彼の忠言を活かせなかったな、と沙耶は自嘲めいて思った。
焦挺は、杜遷の代わりに隊長を務めるようになっていた。慕っていた二人の死を目の当たりにした衝撃と、隊の五百人の命を預かる重圧で、相当に参っているようだった。
「俺は、隊長をやるなんて器じゃないんだ。あの時、俺が先に罠に気付くべきだった。本当は、俺が死ぬべきだったんだ」
「――焦挺!」
思わず、沙耶は悲鳴じみた声を上げた。涙が零れそうになるのを、懸命にこらえなければならなかった。
「そんなこと、言わないで。お願いだから……」
「……すまん」
声を絞り出すようにして、焦挺は呟いた。
それきりだった。
二人で分かち合おうにも、互いに抱えている悲しみが、あまりにも大きすぎたのだ。
沙耶はもう泣かなかった。ただ胸の奥に、ぽっかりと大きな穴が空いているようで――その空洞を吹き抜けていく、風の冷たさだけを感じていた。
打ち込めるものがあった分、沙耶は運がよかったと言えるだろう。宋万の志を、と決意しておきながら、結局はそれもまた逃げだったのだろうか。働いていると、ふとそんなふうに思う時もある。
けれど今は、答えの出ない問に思い悩むよりも、やれることだけをやるしかない。