旅団編1
小船が完全に陸に乗り上げるのを待ち、セツナは浜辺に降り立った。濡れた砂が思いのほか靴底を深く沈み込ませたせいで、少しよろめいてしまう。それに、不思議とまだ波に揺られているような感じがあった。瞼を閉じて――とは言え片側の視界はすでに閉ざされているのだけれど――その錯覚をやり過ごす。
そうして平衡感覚が戻ってくると、セツナはゲーム画面に目を落とした。
プレイヤーアイコンは、サイコロが示したマスの上にきちんと移動している。はじめての航海はセツナをうまく目的地に運んでくれたようだ。……まあ仮に失敗したところで、それはセツナが自由であるという証明にほかならない、喜ばしいことなのだけれども。未踏のマスに足を踏み入れる昂揚感だって、決して、その喜びに劣りはしないのだ。
浜はそう広くはなく、ちょっと歩くとそこにはもう草が生い茂っている。さらに奥には雑木林があり、その手前では、いかつい体格の男がセツナを待ち構えていた。
「あの浅瀬は、船では通れないはずなんだがなあ」
男が言った。独り言のようで、しかし、しっかりとセツナのもとまで届く声量だ。
つられて、セツナは背後を振り返る。雲の少ない青空、日射しを受けて煌めく水面。乗り捨てた船が、その風景の中で場違いな存在感を主張している。
男は、今度は明確にセツナに向けて問う。
「ここへは何故来たのかな? お嬢さん」
なぜ?
それは途方もなく哲学的な問いかけに、セツナには思えた。男に視線を戻し、あてもなく考え込む。
「……サイコロで」
端的に答えると、男はしばし閉口した。
回答が十分ではなかっただろうか。そうかもしれない。己の発言を顧みて、セツナは付け足して言った。
「四の目が出たので」
「……質問を変えよう」
男の表情は変わらない。目が細く、口角がずっと上がったままでいるので、笑っているふうにも見える。
「ここが『何』なのか、知ってのことか?」
「はい。マスです」
「マス?」
「すごろくの、マス……」
二つ目の問には迷いなく断言したのだが、男の反応はまたもよろしくない。男はふむと頷き、巨躯に見合った大きな手で顎をさする。
「双六というよりカードゲームじゃないか? いや、全体で見ると、RPGと括った方がふさわしいのかな」
「…………」
いったい何を言わんとしているのか、いまいち掴めずにぼんやり男を見返していると、「本当に知らずに来たのか」と苦笑を向けられた。
「なんにしても、ここにはルールがあるんだ。正規の手段を踏まない来訪者には、立ち入りを禁止している」
「……船ではだめなのですか?」
「駄目だね。ゲームをするには、そのためのハードやソフトが要るだろう?」
言われてすかさず、セツナは両手の携帯型ゲームを男に見えやすいようにかざした。生憎ジョイステーション専用でね、というのが男の返答だった。またも苦笑いだ。
「お嬢さんはハンターか?」
「……いいえ」
「そうか。まあ、ライセンスがなくとも、プレイヤーたる資格は十分にあるようだが……と、少しヒントを出しすぎたかな。そろそろお帰りいただこうか」
ほんとうに、さっきから何をわからないことばかり言っているのだろう。
セツナはとてつもなく奇怪な現象を目にした思いで、男を眺めやる。資格があるかないか、セツナがここを立ち去るかどうかは、この男が決めてよいことではない。
「サイコロを……」
セツナはポケットからサイコロを取り出した。
「振ります。奇数なら、進みます。偶数なら、引き返します」
セツナの道を決められるのは、このサイコロだけだというのに――
芝生に敷いたハンカチの上にサイコロを転がす。出目を見届けると、取り出したのと同じ順番でそれらを丁寧にしまい込んだ。
「……進みます」
「なかなか面白いことをする」
男が、セツナと同じようにズボンのポケットを探る。ただし出てきたのはサイコロではなく、一枚のカードだった。
「だが、従えないのならオレの権限を行使するまでだ。縁があればいずれまたここに辿り着くだろうがね。――『排除』使用」
呪文めいた言葉が紡がれても、構わずセツナは進み出た。
瞬間、ぐにゃり、と視界が歪む。
地に踏み出したはずの足がたたらを踏んだ。つんのめった体勢を立て直し顔を上げれば、男の姿はすでにない。
埃と黴、錆の匂い。
真っ暗闇の只中かと思ったが、どうやらそれはつい今しがたまで日の下にいたのと、手元のゲーム機の画面が明々としているせいらしい。目が慣れてくると、次第にぼんやりと周囲の様子が浮かび上がってきた。
どこかの廃屋のようだ。
セツナはハッとしてゲームを確かめた。アイコンの周囲のマップが様変わりしている。
G・Iのゲームマスターは君を不適合だと判断した。
君はなす術もなく、島を追い出された。
薄闇に浮かぶその文字を目でなぞり、セツナは唇を噛み締める。
あってはならないことだった。セツナの未来には、己を含めたなんぴとの意志も干渉してはならない。そんなものは自由ではない。ましてや、一度出た目を覆されるなど……!
縁があればいずれ、だって……縁などという、不確定な要素はいらない。セツナはあの先に進む。絶対に。必ず。どんなことがあろうとも。
進まなければ、セツナは自由ではない。自由にはなれない。
セツナはゲーム機を持つ手にぎゅっと力を込め、ボタンを押して文字を送る。文章が更新されるその直前に、ふと、疑問がよぎった。
……G・I?
瞬きの間に、文章は切り替わってしまった。
君の飛ばされたこの廃屋は今、盗賊の根城となっている。
危険を顧みないなら、君は盗賊の宝物を手に入れることができるかもしれない。慎重を期するなら、君は気配を隠して抜け道を探らなければならない。
サイコロを振って――
セツナは鞄を下ろして、布地の表面がなるべく平らになるように手で整えた。その上でサイコロを振る。
「あっ……」
先ほどの動揺がまだ残っていたせいだろうか。サイコロは、鞄の上で勢いよく跳ね、向こうに落っこちてしまった。
障害物だらけの床を、思いのほか遠くに投げ出されたサイコロ。木材、コンクリートの欠片、鉄パイプ、セツナはそれらを踏みつけ、あるいは跨いでその行方を追い――あった! 急ぎ、屈んで拾い上げる。
君は奥へ進むことを選んだ。
さあ、君の勇気と運を試す時だ。
サイコロを振って、一が出れば、君はさらなる力を手に入れることができる。
失敗すれば君はすべてをうしなう。ゲームは終了だ。
ゲームオーバー。こんなストレートな表現ははじめて出てきたような気がする。
このゲームが終わったら。
そうしたら、セツナはどうなる? 虚構と現実を結び付け、セツナの人生をそのままに映し出すこのゲームが終わったら。終わったなら……
考えていくにつれ、鼓動が速まる。
セツナはどきどきして苦しくなってきた胸に、サイコロを持つ手をそっと押し当てた。そう、それはどんなに素晴らしいことだろう。もしも、己の生き死にまでもが自由に決められるのだとしたら……
サイコロを振る。
そこには微塵の迷いもなかった。
再び鞄の上で、けれど前よりも慎重に。セツナの手を離れたサイコロが、転がる、転がる、転がる……
おめでとう!
危険は君を避けていき、君は無事に扉をくぐる。
新たな眼の力は、君の自由を貫くために、きっと役に立つはずだ。
突然、大きな衣擦れの音が耳から頬へと流れ、肩に落ちて止まった。
それを手繰って目の前にかかげてみれば、ネオンにもらった眼帯だった。留め具でもないある一箇所が綺麗に裂けていて、どうやらそのために外れたらしい。
セツナはしばらく首を傾げていたが、やがて眼帯を丸めて畳み、鞄にしまった。
今度こそ、ドアの奥に踏み入る。
狭い空間だ。おそらく今までいたのが廊下なのだろう。ゴミが散らばっていただけの廊下とは違って、ここには至るところに物が積み上げられており、海の底みたくセツナの周りに深く暗い影を作っていた。
その影の中から、一対の緋の眼が、セツナをじっと無感動に見つめている。
新たな眼……?
空っぽの右目がひどくうずいた。
ネオンにあげたセツナの眼球も、ちょうどあんなふうに浮かんでいたのを思い出す。自由を貫くために――セツナは爪先立って腕を伸ばし、それを手に取る。瓶の中の液体が揺れ動くのに合わせて目玉が回転し、温度のないまなざしがセツナを追いかけてくる。
蓋は回すとすぐに開いた。鼻につく刺激臭の中に指先を浸し、案外硬い感触のそれをひとつ取り出すと、収めるべき場所に押し込んだ。
「――盗賊から物を盗むとは、大胆だな」
と、声がかかり、振り返る。
瞬きをしたはずみで、それはうまく嵌ったようだ。途端にクリアに広がった視界の中、開け放していたドアの向こうに、セツナは暗がりに溶け込む黒いコートを見つけた。
・
・
・
「盗賊からものを盗むとは、大胆だな」
「はい、ありがとうございます」
衒いなしにそう応じられても、その「盗賊」の頭たるクロロ=ルシルフルは、冷酷な目つきをやわらげなかった。
目の前の少女は、片割れだけが残された瓶詰めを鷹揚な所作で元通りにしまってから、そうするのがさも当然といった足取りで脇をすり抜けて行こうとする。
「このまま帰れると思うのか?」
問うと、少女は素直に立ち止まった。
少しも怯むことなく、まっすぐにクロロを見上げてくる。その右の眦から、つとこぼれる雫。涙を流したわけではなく、保存液が溢れているのだった。少女は取り出したハンカチで濡れた頬や指先をぬぐう。
「……決めるのは、あなたではありません」
「ほお。では、誰が決める?」
「サイコロで……」
少女は、小さなサイコロをクロロに掲げるようにした。そして、神の意思を告げるかのごとく厳かに言った。
「決めます。奇数なら、帰ります」
床に下ろした鞄の上で、そのサイコロを振る。
大仰なほど細心な手つきでそうっと投げ出されたサイコロの目は、六。クロロは、白面に均等に穿たれたその黒点を数えたあと、鞄を抱えなおす少女に目を戻す。
「……偶数なら?」
「あなたの用事に付き合います」
少女はごく軽く頷いた。
――オレの用事、ときたか。
なら来い、とだけ言って踵を返せば、少女は大人しく後をついてくる。
少女が忍び込んでいたのは、盗品を適当に放り込んでいる物置だった。廊下の反対側へ進むと、開けた場所に出る。何も嵌っていない窓からは容赦なく日差しが降り注ぎ、これまでとは打って変わって明るい。
少女は眩さにしきりに目を擦っている。
でたらめに配置されている古びた椅子のひとつに腰かける。先ほどまで、クロロはここで暇に飽かせて読書に興じていた。傍らには、この一冊で家が買えようかという希書。読みさしのそれらに手を伸ばしたいという欲求は、今のところ湧いてはこない。
「座れ」
少女はまたサイコロを振ると、クロロの正面の椅子によじのぼるようにして座った。
膝の上に置いた手には、携帯型のゲーム機が握られている。しばしそれに目を落とした後で、少女はじっとクロロを見つめる。
黒と薄茶、左と右で色彩の異なる瞳。さざ波ほどの感情の揺らぎも見当たらない、空虚な色合い。けれど確かに宿る生きた光だけが、それが硝子玉などではないことを示している。かつ、死者の眼球でないということも。
そう、先まで伽藍堂だったそこにはいまや、盗品に紛れ込んでいた緋の眼――かつて旅団が大掛かりに盗った代物だが、クロロが興味を失して久しい――が収まっている。
実のところクロロは、彼らの仮宿に幼い少女が侵入してきたことに始めから気が付いていた。なにせ少女は絶も隠もろくにしていない。これで気付くなと言う方が難しいだろう。彼がすぐさま侵入者を害さなかった理由はただひとつ、空間移動ができる念なら欲しいな、と思ったからである。
どこからか現れた少女は、クロロに観察されていようとはまさか思ってもいないふうで、ゲーム機を操作しサイコロを転がしていた。
携帯電話を操る彼の同胞と同じく操作系なのか、しかしどうも見込んだのとは違う類の念のようだ――クロロは試しに、彼女の頭めがけてナイフを投擲した。いっそ殺すつもりで。この程度で死ぬようなら、念を盗んだところでどのみち長く使えやしない。
……結論だけを述べると、ナイフは少女に当たらなかった。
少女が察知し身をかわしたのではない。彼の手元が狂ったのでもない。ナイフは狙いと寸分違わぬ軌道を描き、仮に正面から放ったとておよそ凡人なら反応できない速度で、何も知らない彼女の頭蓋に突き立つ。しかし、刃は少女の眼帯を切り裂くだけに留まった。
何が起こったのか。クロロがこの不可解な現象を分析するよりも先に、少女は眼帯に隠されていた空洞に緋の眼を押し込んだのだ。
クルタ族の瞳は、感情が昂ると赤く染まる。そして、その色は死しても残る。少女の右目が緋色でないということは、死んだ組織を再生させ、自らの神経と繋いだのだろうか。現に、右目は光を感じているようだ。
生体機能を回復させる能力? しかし、わざわざ稀少な美術品を移植の対象とした理由は何だ? ナイフを避けたからくりは? ことあるごとに使っているサイコロは?……
灼けつくような渇望を抑えるために、クロロは一度、瞼を閉じた。
「オレに付き合う、と言ったな」
「はい」
目を開けると、視界を塞ぐ前と変わらない姿勢で、少女はこちらを見据えている。
盗賊の極意――
自分にふさわしいこれ以上の能力はない、とクロロは考えている。
制約は厄介だが、それ自体は嫌いではない。
逃げ道を潰して追い詰める。挑発し、本性を引きずり出す。逆に、こちらに好意を抱かせて操る。偽り、欺き、導き、暴く。道具を必要としない、ルールすらない。それは人類が言語を獲得した瞬間から存在する、原初のゲームだ。
「――話をしよう」
そう切り出したとき、クロロは己の唇が笑みらしきもののかたちに歪んでいることを、はっきりと自覚した。