1

「あなた、誰です?」
 問われて、史香はパチパチと瞬きを繰り返した。史香が見つめているのは影ではない、誰かの真っ黒な瞳だ。
 誰か――誰? 何が起こった? 頭の中が瞬時にたくさんの疑問符で溢れる。
「どこから現れたんですか?」
 狐につままれる史香に、さらに問いかけがやってくる。
 それはこちらの台詞だ。史香がそう返すと、相手は無表情のままでなおも問うた。
「どういう意味ですか?」
 馬鹿にされているものと思い、史香はムッとして告げる。
「……ここは私の家です。ついでに私の部屋です。あなたこそ、どこから入ってきたんですか?」
「ここが? あなたの部屋?」
「正確にはベランダですけど」
 答えながら、史香は見上げたところにいる誰かをしげしげと眺めた。
 顔色が悪い。目の下には隈ができている。髪はぼさぼさで、ろくに手入れもされていないようだ。くたびれた白いトレーナーと青いジーンズ。一人がけのソファーに膝を抱えて座って、こちらを見下ろしている。
 突如として史香の中に生まれたのは、既視感である。そしてそれを上回る強烈な違和感――
 そうだ。何故、ベランダに立っている史香が、ソファーに座った人間を仰いでいるのだろう?
 跳ね起きた。そう、起きたのだ。甘い匂いが鼻をつく。史香の右手にはテーブルがあり、その上にはところ狭しと洋菓子が並んでいる。左手には誰かのいる一人がけのソファー。史香はいつの間にか絨毯に直に背をつけて倒れていて、そしてソファーとテーブルとの小さな隙間に収まっていたのだ。
「ここはどこ?」
 辺りを見回した。床に腰を下ろしている史香には、視界を障害物に遮られて満足に周囲を見渡すこともできないが、まず間違いなく室内である。異様に広く、天井は高い。設えられた上品な家具類はどこかよそよそしさがあって、どうやらホテルの一室――しかも史香には縁のないような料金設定の――のように思える。
「あなたの部屋でないことは確かでしょう。とりあえず――」
 ソファーの上の誰かは手に持っていたフォークでテーブルの向こうを指した。
「座ってください」
 史香はそちらへ首を巡らした。誰かのと同じデザインのソファーが置かれてある。確かにここで話を続けるのではやり辛い。頷いて、大人しく腰を上げる。
 誰かはフォークを下ろして、テーブルの上にあったショートケーキを食べ始めた。そうしながらも史香の行動をじっと観察している。
 史香はソファーにかけると、ぶつけられる不躾な視線を受け止めた。やはりこの姿に見覚えがある。こんな奇妙な知り合いはいないはずだが、誰だろう?
 考える。ここはどこか――見知らぬホテル(おそらく)だ。史香はつい今まで自宅のベランダにいた――いや、現在の時刻がわからないから、断言はできない。目だけでさっと時計を探す。見当たらない。窓は? カーテンが閉められている。時間は判別できない。もしかしたら、何らかの事情でここにやって来るまでの記憶が抜け落ちているだけなのか? 棄却。その仮定の場合、状況があまりにも不自然だ。
 誰かはまだケーキを食べている。
 史香はそれを見守った。フォークを刺す。口に運ぶ。何往復かの後、誰かはフォークの先を口に含んだところで動きを止めた。視線は変わらず史香に固定されたまま、咀嚼のために白い喉が動く。
 何か言いたげなのを察して、待った。幾秒かほどの後――
「あげませんよ?」
「いりません」
 お互いに真顔だった。
「もう一度聞きますが、あなたは何者ですか?」
如月史香……高校生です。あなたは?」
 聞き返したのは、主導権を完全に相手に渡すことを避けるためだ。そして、その考えを明示するため。事態を把握したいのは史香とて同じである。一方的に情報を与えるだけのつもりはない。
「竜崎と呼んでください」
「…………」
 史香はひっそりと眉根を寄せた。その言い回し、偽名ということなのだろうか? 本名にしたって、名字しか明かさないとは。つまり、先の意思表示は跳ね除けられたのだ。
 だが知ったことか。史香は先手を打って口を開いた。
「ここはどこですか?」
「東京都内にあるホテルです」
 予想の範疇の答えではあるが、史香は頭を抱えたくなった。いよいよここにいる理由がわからない。
 竜崎は淡々と続ける。
「あなたはどうやってこの部屋へ? セキュリティは万全のはずなんですが」
「それはおかしいですね。私がここにいるということは、つまり、万全ではないという証明では……ああ、いえ」
 ここぞとばかりに竜崎の揚げ足を取ろうとして、史香は途中でやめた。いくらなんでもムキになりすぎだ。無意味な応酬である。
「自宅にいたはずなのが、気付いたらここにいました。それ以外はわかりません」
「そうですか」
 と応じて、竜崎はフォークを置く。ショートケーキはもうなくなっている。
 その口調があまりにあっさりしていたので、史香は肩透かしを食らった気分になった。
「……それだけですか?」
「それだけ、とは?」
「つまり、私の言い分をそのまま受け入れるんですか?」
「はい。私はあなたがこの部屋に現れた瞬間を見ました。あなたは何もない空間から忽然と現れたんです。現れた直後のあなたの様子からして、あなたの言うことも嘘ではないと思います。常識では考えられませんが……まあ、私がこの目で見てしまったので、信じるより仕方ありませんね」
 ということは、先の問答は疑問に対する答えを求めたというよりは、それに際して史香がどういった反応を見せるのかを観察していたという方が正しいのか。手のひらの上で遊ばれているような気がして、気に障る。史香は食い下がった。
「このテーブルかソファーに何かしかけがあるのかも」
「ありえません」
 ……わかっている。言ってみただけだ。史香は額を押さえた。超常現象の類は、はっきり言って嫌いなジャンルだったのだが……こうも現実的でない事象が我が身に降りかかったとなると、認めざるをえない。
「今、何時ですか?」
「七時半です」
「……朝の?」
「いいえ、夜です。十九時三十二分」
 驚いた。数時間どころか一日経っている。ひとつ、判明した。これは少なくともテレポーテーションではない。ならば何だ、神隠しか。
 両親はすでに帰宅している頃だ。残してきた彼はどうしているだろう。
「じゃあ、電話を貸してもらえませんか。家に連絡したいんです」
「駄目です。あなたの身元を確認するのが先です」
「……好きにしてください」
 こんなホテルに宿泊しているのだ、警戒されてしかるべき要人なのかもしれない。とてもそうは見えないが。
 名前はもう名乗っている。あとは住所、電話番号、そんなところか。それを告げると、竜崎はジーンズのポケットから携帯電話を取り出した。汚いものをつまむような、妙な持ち方だ。どこかにダイヤルし、史香の言ったことをそのまま繰り返して、それを調べるようにと電話の相手に命令する。
 調べる、とはどうやるのだろう。とんでもなく待たされてしまうのは避けたいところだ。そう思った史香だったが、竜崎が携帯を閉じてそう経たないうちに着信音が鳴り始めた。
「どうだ?」
 竜崎は開口一番にそう応じたきり、押し黙る。
 もしかして、彼のことを聞かされているのではないか?
 初めて、史香の心に深刻な不安が噴き出した。
 そうすると、もう家には帰れないかもしれない。彼にも会えまい。確かにかつてのような恋情こそないが、最後に一目会うことも叶わないというのは……
 竜崎の茫洋とした視線は史香から逸らされて、宙を漂っている。電話の向こうの声は、もちろん史香にまでは届かない。
 史香がじりじり待っていると、竜崎はややあって電話を切った。
如月さん」
 こちらに向けられる、史香の知る限りまだ一度も感情を映していない黒い瞳は、底知れなく深い。
「結論から言うと、あなたをこの部屋から出すわけにはいかなくなりました」
「それは……」
 史香は面食らった。どういうことだ? 家に帰せない、ではなく、ここから出せない?
 竜崎はやはり表情を変えないまま、史香を見据えて、言う。その内容は、史香には理解不能であった。
「あなたの言う如月史香は、この世に存在しません」
「それは、つまり……どういうことですか?」
「言葉のとおりです」
 竜崎が言うには、史香が告げた住所はその番地が存在せず、電話も不通だったということだ。
「まさか、本当に神隠しなの」
 史香は思わず、先ほど自棄気味に思い浮かべた単語を口にしていた。一日しか経っていないと思ったが、もしも、史香が部屋から消えてから何年も経過していたとしたら。
「神隠しですか? 突然失踪した人間が、時間を置いてから遠く離れた場所で発見される……確かに戦前にはそんな報告もありますが、時代が時代ですから、信憑性は薄いでしょう」
 竜崎の口調は半信半疑どころか疑心に満ちている。
「で、でも、じゃあ……」
「あなたが嘘をついているという可能性もあります」
「ついていません」
 即答すると、竜崎はしばらく史香を見つめてから、わかりました、と言った。何がわかったのだろう。史香はいらいらした。
「隣の部屋が空いていますから、少し休んでいてください。詳しい話はまた後で伺います」
 疑わしいから、身元が判明するまで拘束する――そう言っているのと同じだ。
 しかし、史香は抵抗せずに従うことにした。どうせ素性をはっきりさせることができたとしても、その時の扱いもこれと大して変わらないだろうと考えたからだ。
 かくして史香は、ご丁寧に外から鍵までかけられて、高級ホテルの一室に軟禁されたのだった。