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 大きなベッドの上に、史香は横たわった。
 今しがたまでいた自分の部屋のベッドよりも、ずっと柔らかい。やたら広いベッドルームは装飾も凝っていて、加えて嵌め殺しの大きな窓からは美しい夜景が見渡せる。申し分ない部屋だ。こんな状況でなければ喜べたかもしれない。
 竜崎の言う「少し」とは、どの程度の時間なのだろうか。
「まず……今日の日付を確かめなきゃ」
 呆けていた史香は、そう呟いて起き上がった。幸いなことに、部屋の中にはテレビが置いてある。
 リモコンを取って、ベッドの端に座り直した。電源を入れて、適当にチャンネルをいじる。ニュースなら何でもいい。
 ふと、ある番組が目にとまった。
「緊急特番……L vs キラ……キラ事件の真相に迫る……」
 画面の端に写るテロップをそのまま読み上げる。
 キラ事件。史香も知っているものだ。ただし、漫画の中で起こった事件として。
 番組では、司会者が事件のあらましをさらっている。凶悪犯罪者の相次ぐ変死――心臓麻痺。不可思議な能力で犯罪者を裁くキラ。そしてメディアを使ってキラに宣戦布告をした名探偵L。それは紛れもなく、史香の知る漫画の内容そのままだ。
「デスノート……?」
 まさか。ありえない。
 チャンネルを変える。いくつかの局でもキラ事件について報道している。
 何だ、これは。バラエティでよくある、大がかりなイタズラ企画? それをしかけられているのか? いや、それにしたって、自宅からこのホテルまでの移動の説明がつかない。それに竜崎は――
 竜崎。そうだ、見覚えがあるはずだ。あの姿、そのままじゃないか。デスノートの主要登場人物の一人。
「……L」
 史香はハッとして口を塞いだ。
 認めたくないが、仮に、ここが本当に漫画の世界なのだとしたら、知っていることを安易に口にするのはまずい。史香は今、疑われているのだ。どこかから監視されている可能性がある。作中にも、Lが監視カメラや盗聴器を駆使するシーンがあったはずだ。
 ……Lがそこまでするほど史香を不審に思っているのならば、逆に何の調べもなく史香を一人にすることはありえないのだが(史香がこっそり外部と連絡を取ったり、史香と同じ方法で共犯者が侵入するかもしれない)、混乱する史香はそれには気付かなかった。


 結局、史香は翌朝まで放って置かれた。
 ベッドであれこれ思い悩んでいるうちに、眠ってしまっていたらしい。気が付いたら朝だったのだ。
 起きて最初にやったことは、つけっぱなしの騒々しいテレビを切ることだった。
 シーツに包まったまま身を起こして、窓の外に望めるビル群を見下ろす。もともと朝は苦手だが、いつもよりもぼんやりするのは、時差ぼけだろうか。
 無為な時間を三十分ほど過ごしてから、史香はベッドからもそもそ這い出た。バスルームがあるので、勝手ながら使わせてもらう。
 着替えはないが、簡易ながら身繕いを終えて、史香はドアの前に立った。ノックをする。
「すみません、お腹がすきました」
 返事は半ば期待していなかった。しかし、しばらく待つと、向こうからドアがノックされた。
「開けてもよろしいでしょうか」
「! ど、どうぞ」
 動揺して、ついどもってしまった。返ってきたのは竜崎の声ではない、もっと年老いた人物のそれだ。
「おはようございます」
「……おはようございます」
 現れたのは、柔和な雰囲気の老人である。……ワタリ、と言ったか。いや、ここが漫画の世界と決まったわけではないのだから、まだわからない。しかし、テレビのイタズラ企画などという線はとっくに消えている。いくらなんでも時間をかけすぎているからだ。
「お待たせして申し訳ございません。こちらへどうぞ」
 老人に連れられ、ベッドルームを出る。
 L――竜崎は、昨日と同じソファーに、あの変な座り方で座っていた。史香は老人に促されるままに、昨夜の再現のように竜崎の正面に腰かけた。昨晩と違ってテーブルの上に菓子の類はなく、代わりに老人が二人分の紅茶を用意した。
 ルームサービスを頼んでくれると言うので適当にいくつか注文をして、老人が下がった後、史香は竜崎に向き直った。竜崎は紅茶のカップに角砂糖を入れている。一つ、二つ、三つ、四つ……史香はそこで数えるのをやめた。
「おはようございます、竜崎さん」
 竜崎はカップから顔を上げた。
「おはようございます」
「私のこと、何かわかりましたか?」
「いいえ、何もわかりませんでした」
 やっと角砂糖を投下し終えた竜崎は、カップを顔の前まで持ち上げてティースプーンで中身をかき混ぜ始める。
「やはり、あなたという人間は存在しないようです。同姓同名の人物はいましたが、所在がしっかり確認されましたし、外見や年齢の特徴があなたと一致しません」
 告げたきり竜崎は沈黙してしまったので、部屋にはスプーンがカップにぶつかる微かな金属音だけが響いた。
「それじゃ、私は不審者のままですか」
 史香が呟くと、カップ越しの竜崎の視線が突き刺さった。
「……それがおかしいんです。あなたが名前を偽っていない限り、何も情報が出てこないなどとはありえない」
如月史香は、本名ですよ」
「それを証明するものは?」
 史香は返事の代わりに軽く両手を広げて見せた。身一つでこのホテルへやって来てしまったのだから、そんなものを持っているはずがない。
「――失礼いたします」
 ルームサービスが届いたので、二人のやりとりは一旦中断した。
 史香が頼んだのはパンやらサラダやら何の変哲のないメニューだが、対して竜崎の前に並べられたのは、またもやケーキである。……まさかこれが朝食なのだろうか。じゃあ、昨日のアレも夕食だったとか? 史香は目の前の人物の食事がすべて甘味であることを想像してみてドン引きした。
「糖尿病って知ってますか?」
「知っていますが、余計なお世話です」
「そうですか」
 まあ、誰がどんな病にかかろうが、史香には関係のないことである。頷いて、それまで手を付けないでいた紅茶を口にする。いつもはストレートでは飲まないのだが、糖分は今視界に映っている分で十分だった。
「あなたがこの部屋に来る直前までの話を聞かせてください」
 その糖分をつつきながら竜崎が言った。
「特に話すことはないと思います」
「何でも結構です、教えてください」
 せつかれて、史香はぽつりぽつりと話し始めた。明け方に起きてベランダでぼんやりしていた、ここに来る直前に鳥の羽音を聞いた……本当に内容がない。ひととおりのことを告げ終えると、竜崎が尋ねてくる。
「その時、部屋にはあなたは一人でしたか?」
 史香は一瞬、息を止めた。
「……いいえ。私の、彼が」
「その彼があなたに何かをしたとは考えられませんか?」
「それはないでしょう。彼は……眠っていましたから」
 そしてもう二度と目を覚ますことはないのだ。
 その後、質問は史香の身の上に及んだ。家族構成や学歴、簡単なプロフィールなどである。おそらくは、これも史香の答えよりも、史香の答え方を見て、果たして嘘をついているのかどうかを判断しているのだろう。
 とんとんと問答をこなしていたのだが、それが生年月日に及ぶと、竜崎は妙なものを目の当たりにしたような、変な顔になった。
「年齢のわりには、随分大人びていますね」
「そうですか? そんなことを言われたのは初めてです。歳相応だと思います」
「……今、おいくつですか?」
 正直に答えると、竜崎はますます変な顔になった。
「それだと、計算が合いませんよ。今は二〇〇三年ですから――」
「二〇〇三年?」
 史香はぽかんとした。続く言葉が出ない。
 その様子だけで、竜崎はすべてを察知したらしい。
 この世界と史香の世界の時間には、年単位の隔たりがあったのだ。史香は大事なことを失念していたことにようやく気付いた。キラ事件の報道に気をとられて、日付を確かめるのを忘れていた。もっと言えば、神隠しのことを思いついた時に、竜崎に確認を取っておくべきだった。
如月さん。あなたは、キラ事件を知っていますか?」
 竜崎が、親指の爪を噛みながら言った。探るような物言いだった。
「……昨日、ここのテレビで初めて知りました」
 史香は慎重に受け答えをする。
 史香の身に起こった出来事は、いくつかの説明が可能である。一つは、すべて史香の妄想であるということ。つまりこのホテルも竜崎も老人もあの番組も、何もかもだ。この可能性はあまり考慮したくない。
 したがって二つめ。竜崎の狂言であること。しかし、それに当たって竜崎が得る利点がないように見える。それに史香をここまで連れてきた経緯も不可解だ。そして、あのテレビ番組。
「あれは、本当に放映されているものなんですか? 番組を装った偽の映像ではなくて……」
「はい。そう仰るということは、如月さんの知る範囲では、過去にああいった事件はなかったということですね?」
「ありません。もし本当にあったなら、さすがに覚えていると思います」
「時間軸が同一でないようですね。如月さんの戸籍がないという事実からも言えることですが……如月さんはタイムトラベルではなく、平行世界へジャンプしてきたと考えられます」
「ちょっと、待ってください」
 史香は慌てた声を上げて、ソファーから立ち上がった。史香が最も採用したくない三つめの可能性――嘘偽りなくこれが現実だということを、竜崎があっさり肯定したからだ。
「平行世界なんて、本気で言ってるんですか?」
「はい。昨日も言いましたが、私は自分の目で見たことは信じます。ですから」
 竜崎は立ち尽くす史香を静かに見上げる。相変わらず、その声には少しの迷いすら見当たらない。
「――あなたのことも信じます」
 史香にはその言葉こそが信用できなかった。
 その不信感を隠しもせずに表情に露にして、史香は腰を下ろす。そして口を開いた。
「私は違います、竜崎さん。あなたが私を見初めたストーカーで、そうやって嘘で言いくるめて私を監禁しようとしているのではないと、証明できますか?」
「ストーカーですか」
 竜崎は繰り返した。語調は平坦だが、面白がっているようにも聞こえる。ストーカー云々はたとえのつもりだったが、我ながら荒唐無稽すぎたかもしれない。三つめの仮説よりは遥かにマシだが。
「証明はできません。訳あって、私は自分の正体の一切を他人に明かすつもりはありませんから」
「私に負けず劣らず怪しい人ですね」
「否定はしません」
 まあ、三つめを真とするなら、彼の言も当然だった。まだ一度も人前に姿を現したことのない探偵L。紙上の名探偵は、今は史香の目の前にいて、こんなことを提案した。
「しかし、信じる簡単な方法がありますよ。外に出て新聞でも買ってくるんです」
「買ってきます」
 史香は竜崎がすべて言い終える前にすっくと立ち上がる。
「……ワタリ」
 頭痛を堪える時のように目を細めて、竜崎は呟いた。すると隅に控えていた老人が「こちらです」と史香を先導する。外まで付き添ってくれるようだ。よく考えてみれば史香は財布も持っていないので、それを断る理由はない。
「そんなに信用できませんか、私は」
 部屋を出て、そのドアを閉める寸前に、竜崎のぼやくような声が聞こえた。