3

 移動するリムジンの中で、史香はようやく観念することを決めた。手の中には購入済みの、数社分の新聞がある。どれも日付は二〇〇三年十二月二十三日。念の為に適当なコンビニを何件も回ったので、あらかじめ手を回して偽物が準備されていたということもありえない。
 自然と、重たい溜息が漏れる。
「これからどうしよう……」
 史香は天涯孤独の身になってしまったのだ。通っていた学校にはもちろん行けないし、住む場所もないし、何より無一文だ。おまけに単なるタイムスリップではなくて、漫画の世界に入ってしまった。……どちらでも苦労するのに変わりはないだろうが、こちらの方がより絶望的に感じる。
如月さん」
 運転席のワタリが声をかけてきた。
「何でしょうか、ワタリさん」
 史香は後部座席から前の方へ僅かに身を乗り出して応じる。ワタリの名を口にすると、彼も架空の人物なのだと思い返されて、さらに憂鬱な気分になった。
 そんな史香の気配を敏感に察してか、ワタリはますます優しい口調になって告げる。
「本来ならば私から打ち明けることではないのでしょうが……竜崎はあなたを保護するつもりでいますよ」
「本当ですか?」
「はい。すでに手配は終えています」
「そうだったんですか」
 意外だ。そういうことに心を割くタイプには見えない。
 しかしそうとわかれば、何も心配することはないのでは? 史香は前向きに考えることにした。どうせこの世界にやって来なければ、史香は今頃留置所の中である。Lが死ぬまでは高級ホテル暮らしを堪能できるというのは、なかなかおいしいかもしれない。――貰えるものは貰う主義なので、すでに保護される気満々の史香である。相手は漫画の登場人物だし、あのホテルでリムジンだし、遠慮する気はさらさらない。
 ワタリの言葉に頷いていた史香は、はたと口元に手を当てた。
「でも、帰ったら竜崎さんの気が変わっているかもしれませんね。何だか拗ねていたみたいですし……」
「ならば先に手を打っておきましょうか」
 ワタリが品のある笑い声を上げた。
 首を傾げた史香だったが、リムジンがある洋菓子店に乗り付けられたところで、ようやく得心した。なるほど、これは効果覿面だろう。
 車から降りて、早速店内でショーケースの中を物色する。
「じゃあこれとこれとこれ……あ、ワタリさんはどれがいいですか?」
 店員に言いつける途中で、史香はワタリを振り返った。
「私ですか? いえ、私の分は結構ですよ」
「でも、一人でよりは皆で食べた方がおいしいです」
 他人の財布なので気が大きくなっているだけなのだが、ワタリは好意的に受け取ってくれたらしく、微笑んで目尻の皴を深くした。
「ではお言葉に甘えましょう」
「ワタリさんのお金なんですけどね」
 と言いつつ、史香は自身の分もしっかり注文した。


 ホテル最上階のスイートルームへ戻ると、ワタリはこれから用事があるのだと言って、どこかに出かけてしまった。
 てっきりこれからお茶の時間だと思っていた史香は少し驚いたが、ケーキはお茶会が二回開ける程度には買ってあるから問題はない。ワタリを見送ってリビングへ向かう。
 しかし、朝食を取ったリビングのあのソファーの上に、竜崎の姿はなかった。仕方なくいくつかある部屋を捜して回ると、一番奥の部屋でパソコンにかじりついているのを見つけた。史香はドアのところに立って声をかける。
「ただいま戻りました、竜崎さん」
「納得はできましたか?」
 竜崎は史香の方をちらりとも見ずに、素っ気なく聞いてきた。
「はい、新聞もたくさん買いましたし」
「私の言葉は無理でも、そっちは信用するんですね……私の方は信じたのに」
 ぶつぶつ言う竜崎に、史香は目をぱちくりとさせた。それから肩をすくめる。
「成人男子が拗ねてもかわいくありませんよ」
「結構です。かわいさを演出しているわけではありませんから」
「竜崎さん」
 史香は資料らしいプリントが散乱している床の上を分け入って、竜崎の視界に映りやすいように、パソコンの上にケーキの箱をかざした。
「こんなお土産があります」
 音がしそうな勢いで、竜崎が即座に顔を上げる。これまでの億劫そうな仕草からは考えられない、ものすごい速さだった。
 史香は作戦の成功ににっこり笑った。
「機嫌はなおりましたか?」
「悪くした覚えはありませんよ」
 そうは言うが、さっきまであった眉間の皴は綺麗になくなっている。おまけに、淡白な響きの言葉とは裏腹に、口元には僅かだがはっきりと見て取れるほどの笑みまで刻まれているのだ。
 リビングに移動することを提案すると、すぐに了承された。
「たくさん買ったんですね」
「ワタリさんが帰ってきたら、また食べましょう」
 普段はティーバッグしか使わない史香は、四苦八苦してキッチンの茶葉を使って紅茶を淹れた。用意を整えた後は、定位置となったソファーで向かい合う。
「ワタリさんに聞きました。私を養ってくれるそうですね」
「保護です」
 都合のいいように多少脚色して伝えたら、すぐさま訂正された。似たようなものなのに。今後のために言質を取ろうと思ったのだが、失敗である。仕方なく話を他に向ける。
「さっきはパソコンで何をしていたんですか?」
「仕事をしてました」
「へえー」
 自分から話題を振っておきながら、史香は気のない返事をする。実際どうでもいいことだし、Lとしての活動に関わることなら、竜崎もあまり触れてほしくないだろう――
「Lという探偵なんです、私。世界的にも有名ですよ」
 ――などと考えていたので、史香は思わずフォークを持つ手を止めた。竜崎の顔をまじまじと凝視する。
「いいんですか? 正体は明かさないんじゃあ」
 そこまで打ち明けられるとは思ってもいなかった。それは史香を信頼している証なのかもしれないが、もしそうなら、何故確たる根拠もなく史香に心を預けられるのか。逆に気味が悪い。
「私は私の目も、私の力も信用しています。それだけです」
 竜崎は史香の訝る視線を軽く受け流して、ケーキを頬張る。
 私の力、とは、史香の情報が竜崎のその世界に張り巡らせた網に少しもかからなかったことを指しているらしい。それが、史香がこれまでこの世界に存在していなかったということを受け入れさせる要因になった、と。パラレルワールドだのタイム何とかだの言い出したのをずっと胡乱に思っていたが、その理由が「自分の調査能力が絶対だと信じている」なら、「史香を信じた」よりはずっと納得がいく。先の「あなたを信じる」という竜崎の言葉を、史香は信じてもいいような気分になった。
 すっきりした思いでフォークの活動を再開した史香に、竜崎がぽつりと言う。
「……辛くはありませんか?」
「何がですか?」
「今のあなたの現状がです。親元から離れるにはまだ早い歳でしょう」
「そうですね。でも今のところは……そのうち泣いて暴れ出すかもしれませんけど」
「それは想像しがたいですね」
「私もです」
 実のところ、史香はそういった親愛の情が希薄な質である。何故なら、史香にとってのそれと他人のそれは大きく異なっており、史香は「普通」を装うために、その種の感情をこれまで極力抑えつけて生きてきたからだ。もはや慣れきって、それが当たり前になってしまった。

 史香にとって、愛情は殺意と同義である。
 幼い頃に飼っていたペットを、誤って潰して殺してしまったのが最初だ。体液と中身を撒き散らし、あのかわいい細い足がぴくぴく蠢いているのを目にした時の衝撃は、いまだに忘れられない。言葉では言い表せないほどの強烈な愉悦と、脳天を突き抜けるような愛おしさ――その時、「好きなもの」を殺すのは楽しいことだと知ったのだ。しかし、それはどうやら自分だけのようだとも、やがて悟った。お気に入りの着せ替え人形をことごとく切り裂いたのを見咎めた、両親の顔を見た時だ。
 だから、「普通」のフリをすることにした。その抑圧のせいで感情が乏しい子供だと評されることもあったが、元来の性質に比べればよほど一般的である。しかし、そうやって外見を取り繕う術に長けていたことが、史香の不幸になってしまった。
 本来なら史香の嗜虐性は、時を経るにつれ、周囲との軋轢によって磨耗し変質していくはずだったのだ。ところが、そんな具合に誰にも触れられない深くにしまわれているうちに、そうでなくなった。史香の情緒は致命的に未発達のまま、それを本質的な部分に内包してしまった。
 いつもはあたかも消失してしまっているかのように潜んでいるそれは、ふとした拍子に顔を出すことがある。すると、無性に「好きなもの」を壊したくてたまらなくなる。その「好きなもの」とは、両親であり、よく一緒に遊ぶ仲の良い女の子たちであり、付き合っていたクラスメイトの男子生徒だ。

 史香は最初の最後で失敗してしまった。衝き上げてくる欲求にとうとう折れることを決めて、犯罪者になることを覚悟した上で、史香なりの方法で彼を真摯に愛したのに――まだ鮮明に覚えている、彼に与えた苦痛も、悲鳴も、その死も、愛した直後には尊かったものは全部、史香の心の中でがらくたに成り果ててしまっている。何を間違ってそんなことになったのか、わからない。……もしかしたら、「順番」が違っていたのだろうか?
 だから、思う。この世界にやって来たのは、神様がくれたチャンスなのではないか。ここでは史香はまっさらだ。史香の嗜癖も、史香が行った殺人も誰にも知られていない。誰かをもう一度「愛する」のは、元の世界でよりはずっと容易いはず。

 史香は竜崎にデスノートのことを教えるつもりはない。自分から働きかけて、漫画のストーリーを変えるつもりもない。だって、まず、メリットがない。変に目立ったら厄介だ。せっかく白紙の環境にいるのに、誰かを「愛する」のが難しくなってしまうかもしれない。それに、夜神月の頭脳と競い合うのは無茶というものだろう。確実に殺されてしまう。
 竜崎が死のうと、生きようと、どうでもいい。所詮、誰かの空想の中のキャラクターなのだから。
 唯一困るのは竜崎の保護が打ち切られてしまうことだが、それまでに金銭の工面ができればいいのだ。
 史香は笑顔で竜崎と言葉を交わしながら、そんなふうに考えていた。元々他人への情に薄い史香は、この虚構の世界を、住人を、冷めた目でしか見られない。

 次こそ最後だ。もう間違えない。私の愛し方を貫いてみせる。そして至福を得てみせる。
 今度は、好きになったから殺すのではなく、殺したいから好きになるのだ。

 根本から間違えている殺人者は、まだ至らぬその瞬間を夢想する。そのやり方では己を満たせる日は永劫にやって来ないということには、気付かない。


 ああ、早く恋をしたいなあ。