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 竜崎は、自分がLだということを史香に教えはしたが、それ以上のこと――例えば捜査をしているキラ事件のこと――には一度も触れなかった。
 関わらせたくないのなら、ホテルを転々とするのに史香を連れ立たないで、どこか適当な一室を宛がってそこに置いていけばいいのに。そう言ってみると、竜崎はしばらくの思案の末に否定した。
「私が移動した痕跡を残すのは、得策とは言えません」
「私から竜崎さんのことがキラに伝わるかもしれないから? そんなヘマはしませんよ」
如月さんがそのつもりでも、口を割らせる手段はいくらでも存在します」
 筋は通っているので、史香は納得して引き下がった。
 後で、ワタリがこっそり教えてくれた。
「竜崎は如月さんを心配しているのですよ。自分の目の届く範囲にいてもらった方が、安心するのでしょう」
 Lを狙うのは何もキラだけではないそうだ。そういった不届き者が、史香に目をつけないとも限らないとワタリは告げる。
「ですが、それだけではないかもしれませんね。あなたといる時の竜崎は楽しそうですから」
 そう言うワタリも、何だか嬉しそうだった。
 史香は何の感慨もなく、そうなんですか、と頷いた。


 史香はあれから引きこもり生活を送っている。必要なものはワタリに頼めば用意してくれるから、特に不自由はない。
 時々、竜崎が難しい顔をしていたり、ワタリに何か言いつけたりしているのを見かける。漫画のストーリーはどこまで進んでいるのだろう……そんな疑問が頭を掠めることはあるが、積極的に答えを得たいとも思わなかった。
 その日――大晦日の夜にも、史香はリビングにある大きなソファーに寝そべって、だらだらしながら本を読んでいた。
如月さん」
「何ですか?」
 竜崎に呼ばれて、史香は顔を上げた。
「あ、もうこんな時間。夕ご飯を頼むんですか?」
 窓の外はもう真っ暗だ。ワタリはまだ警察庁から帰っていないようだった。
 竜崎も史香も、物事に没頭すると時間を忘れる質なので、ワタリがいないと食事は不規則になりがちだ。空きっ腹を抱えた史香が仕事中の竜崎にそうやって声をかけることはあっても、その反対はこれまでまったくなかったため、竜崎の方からこうしてやって来たことに史香は内心びっくりしていた。
「いえ、違います。今から人が来るので、部屋にいてもらえますか」
「いいですよ、わかりました」
 史香は本を閉じて、立ち上がった。
「お客様って、珍しいですね。お茶を用意しましょうか?」
「お願いします」
 ワタリがいない場合、それは史香の仕事である。客人の数を尋ねて、その分のカップを用意する。やって来たばかりの頃よりは慣れたが、それほど回数をこなしていないため、手つきはいまだ危なっかしい。
「誰が来るんですかって、聞いてもいいですか?」
「はい。警察庁の刑事です」
「え……」
 史香はカップを載せたお盆を手にしたまま、一瞬言葉を失った。
如月さん?」
「……安心してください、竜崎さん」
 史香は一旦お盆を置き、わざわざ竜崎の前まで歩いていった。目の前に立つと、その手を取って両手でしっかりと握りしめる。怪訝そうに眉を顰める竜崎だが、振りほどくようなことはしなかった。史香はあえて力強く、真摯に宣言する。
「私、監禁中はずっと親切にされていましたって証言しますから。きっと情状酌量の余地はあります」
「…………」
 沈黙。二人の間に、白けた空気が漂う。
 史香はいつまで待っても竜崎がうんともすんとも言わないので、しょんぼりして手を放した。
「……反応がないのって一番傷つきます」
「あなたの冗談は笑えないんですよ」
 竜崎はやれやれと言わんばかりに溜息をついた。


 終わったら呼びに行きますからと竜崎は言ってくれたが、日付が変わる頃になっても、史香の部屋を訪れる者はいなかった。
 また放置なのか? 最初の日のことを思い出して、史香は苦々しい気分になる。
「お腹すいたなあ」
 これほど時間がかかるとは思っていなかったので、夕飯はお預けのままだった。
 竜崎はいい、徹夜も食事を抜くのも日常茶飯事だろうから。けれど史香は、最近は生活リズムが乱れてはいるものの、決してそうではない。特に空腹にはめっぽう弱い。
 ワタリはまだ戻っていないのだろう。彼なら竜崎と違って、その辺りのことにも心を配ってくれる。
 部屋に閉じこもる前にお菓子を補充しておいてよかった。心底そう思った。しばらくはこれで持たせよう。
「糊口を凌ぐってこういうことを言うのかな……」
 ソファーでくつろぐ史香はクッキーをつまみながら、暇潰しのための本のページをめくった。断じて違う、と史香の言葉に訂正を入れてくれる人物は、そこにはいない。
 しかし、そんな余裕も一時のものにすぎなかった。
 夜が更け、眠り、朝になって目を覚ました後も、竜崎はやって来ないのだった。忘れられているのでは……そう危ぶむが、史香はそれでも待った。警察庁の刑事というのは、デスノートの登場人物のはずだ。物語の進行には手を出さないと決めている。なるべくなら顔を合わせないままでいたい。
 その決心を鈍らせんとするかのように、史香のお腹は激しい自己主張を繰り返す。お菓子のストックはとっくに底を尽いていた。
「おーなーかーすーいーたー」
 史香は呻きながらベッドの上を転がって耐えた。
 日は昇りきり、すでに太陽は中天にある。読書や睡眠で紛らわすのももはや限界だ。このままでは三食食いはぐれる羽目になってしまう。
「やっぱり、竜崎さんに忘れられてる?」
 史香はデスノートに関する記憶を掘り起こした。それほど読み込んでいないから細部までは思い出せないが、今日はきっとLが初めてその姿を見せたシーンに該当する。その時、刑事たちが帰った描写はあっただろうか。あったなら、何時頃だろう。
 起き出して、史香はドアに耳をつけた。何も聞こえない。防音がしっかりしているので、向こうに誰かがいても無音だろう。
「もう帰ったよね、さすがに」
 史香は勝手に決め付けて、外に出た。
 すると、リビングの方から複数の声が聞こえてきた。やっぱり、まだいたのだ。
 部屋へ引き返そうか。今ここでそうすれば誰も史香には気付かないだろう。でもお腹すいた。
 史香は葛藤して、五秒で折れた。食欲の方に。
「竜崎さーん、お腹がすきました」
 おそらくそこにいるだろう竜崎に声を投げかけて、歩き出す。リビングへ到着すると、竜崎と見知らぬスーツ姿の男たちがテーブルを囲んでいた。彼らの視線が、一気に史香に集中する。
「……部屋にいてくださいと言ったじゃないですか」
 竜崎が呆れたように言った。
「だって、お腹がすいたんですもん」
 史香は口を尖らす。
 刑事たちはしばらく唖然として史香を見つめていたが、口髭をたくわえた眼鏡の中年男性――おそらく夜神某――が最初に我に返った。
「竜崎! か、彼女は……!?」
「彼女は――」
「私、史香といいます」
 史香は竜崎を遮って自己紹介をした。竜崎の咎めるような目は無視して、続ける。
「名字は秘密です。ここにいるのは、竜崎さんの恋人だからです」
「へええ、L、じゃない、竜崎の恋人か……って、こっ、こここ恋人ぉ!?」
 五人の中で一際若い刑事が、おおげさな身振りでノリツッコミを披露してくれたので、史香は満足した。捨て身のギャグを放った甲斐があるというものだ。
 他の刑事は言葉もないようで、あんぐりと口を開けて呆然としている。
「嘘をつかないでください」
 史香をたしなめる竜崎の表情はどこか恨めしげだ。史香は胸を張る。
「赤の他人を監禁しているよりは、恋人を監禁しているという話になった方が体面がいいと考えました」
「相変わらず、笑えない冗談を……」
「わりかし本気です」
「ますます質が悪い」
 その時、リビングに軽い電子音が鳴り響いた。竜崎の携帯電話だ。
「……失礼」
 一言だけ断って、電話に出る竜崎。対応の様子から、相手はワタリなのだと推測できた。案の定、携帯を閉じた竜崎は「ワタリがここへ来ます」と皆に告げた。


 ワタリがホテルへ戻って来て、刑事たちに偽造の警察手帳やら発信機付きベルトやらを渡している間、史香はルームサービスを取って、ようやくの食事にありついていた。胃に優しい和食だ。お腹も満たされて、史香は幸せになった。
 夜神は相沢という刑事に警察庁に戻るよう指示を出した後に、ちらりと史香を見やった。
「竜崎。彼女が何者なのか、まだ説明を受けていないが……」
「ああ、史香は私の縁者です。身寄りがないので、警護も兼ねて引き取っています」
 膝をぼりぼりかきながら、竜崎はしれっと嘘をついた。
「同棲かあ……」
「おい、松田」
 若い刑事が明るい声で呟いて、背の低い刑事に肘でつつかれている。
 夜神は大きな咳払いをした。
「その、警護というのは?」
「私の正体を探ろうとする者が彼女に行き着いては困りますから」
「なるほど……しかし、これからは竜崎のいるホテルが捜査本部となるのだろう? 逆に危険ではないだろうか」
 竜崎は何とも応じずに、考え込むように爪を噛んだ。
 史香は、自分のことが話題の中心になっていても素知らぬ顔で食事を続けていたが、竜崎が黙り込んだところでそっと彼らを盗み見た。竜崎は何を躊躇っているのだろうか。結論は出ているのだろうに。
「――史香
「はい」
 史香は箸は止めずに、短く返事をした。
「先ほど、名字を名乗りませんでしたね。何故ですか?」
「……わかってるくせに。ご飯が食べられないので、あまり喋らせないでください」
 竜崎はきちんと史香の意を汲んで、さっきから史香を名前で呼んでいる。いちいち解説する必要はないはずだ。それにこの場でそうするのは非常に望ましくない。
史香の口から聞きたいんです」
 いつになく強い語調の竜崎に、史香は未練がましく箸は持ったままで、しぶしぶ話し始めた。
「私の名字は竜崎さんとワタリさんしか知りません。お二人とも勝手に第三者にばらしたりはしないでしょうから、私が教えない限りは誰も私のフルネームを知ることができないので、安全です」
「どう安全なんですか?」
「キラは私を殺せません。それには顔と名前が必要だから」
「…………」
 それ以上何も聞かれなかったので、史香は食事を続けることにした。
 竜崎は爪を噛むのをやめない。
「竜崎、どうしたんですか? 竜崎だって、さっき『キラの殺人には顔と名前が必要なのを前提とする』って言ったじゃないですか」
 重苦しい沈黙に耐えられなかったのか、若年の刑事――松田が、うろたえた声を上げた。
 竜崎は頷く。
「はい、言いました。史香がここへ来た後に」
 刑事たちは「あっ」と小さく叫んで、お互いに顔を見合わせた。史香が名乗ったのはリビングへやって来てすぐ――竜崎がそれを口にする前だ。史香は竜崎の話を聞く前からそのことを理解していて、他ならぬ自分自身の判断で本名を伏せたことになる。つまり、彼らが至らなかったその結論に自力で推理して辿りついた――そのことに気付いて驚愕したのだ。
「昨夜、私たちの話を聞きましたか?」
「盗み聞きってことですか? そんな竜崎さんみたいなことしません」
「……人聞きの悪いことを言わないでください」
 ああ、まだこの時点ではやっていないか。史香は竜崎の恨み言を聞き流して続けた。
「特番で見たんです、Lの宣戦布告。本物のLとリンド=L=テイラーの違いは、顔と名前を晒していたかどうか……まあこれだけでは根拠薄弱ですし、テレビだと顔だけだって報道していましたけど、念のため」
 史香は箸をくわえて、失敗したなあ、と考えた。
 もちろん、史香は推理などしていない。キラのことも、殺しの仕組みのこともあらかじめ知っているだけだ。
 キラの正体は、後に捜査本部のメンバーに加わる夜神月である。竜崎は違うが、この刑事たちは夜神月を信じきってしまう。だから、用心のために彼らには何としてでも本名を明かしたくなかった。
 しかし、ここまで注目されるつもりはなかった。あまり有能だと勘違いされると、夜神月のブラックリスト入りしてしまう。こうやってもっともらしい理由まででっち上げたのは、ただ竜崎のある一言が欲しかっただけだ。
史香、今日から捜査の場にいてください」
 来た。これだ。
「え? でも……」
 史香は内心の喜びを抑えて、ためらってみせた。一応、不自然でない程度に困惑した振りくらいはしておかねば。
「私たちの話を聞いた上での、史香の意見を教えてもらうだけで結構です」
「……それくらいなら」
 おずおずと頷く。
 何とか狙いどおりになった。
 知識の一端を示すことで、卓越した頭脳があるように思わせる。竜崎ならきっとそれを見逃さない、そう考えてのことだった。これで、もう部屋で断食するような事態には陥るまい。
 それでも、ここにいるメンバー全員に知られることになってしまったのは大きな誤算だ。強引な性格の竜崎ならすぐにでも史香を引っ張り込むと思ったのに、随分迷っていたようだった。……もしかして、何か不審に思われているのだろうか? 多少の信頼は得ているとは思うが、何せ最初から疑ってかかっていた夜神月に捜査協力を請う張本人だ、わからない。
 史香の新しい恋と身の安全のためにも、史香がデスノートの知識を持っていることを誰にも悟らせないよう、次からは慎重に行動しなければならない。
「これからは史香にも捜査に協力してもらいます。彼女の思考力はこの先必要になると思うので」
「……わかった。彼女にまで危険が及ばないよう、我々も一層努力しよう」
「ありがとうございます、夜神さん」
 思考に沈む史香をよそに、話は順調に史香の望む方へ進んでいった。