6

 画面に、翼の生えた黒い異形の姿が映っている。
 史香は息を呑んだ。
 夜神家の監視モニターである。十二ある画面のほとんどは、夜神月の私室を写している。机に向かい受験勉強に勤しんでいる――あるいは犯罪者裁きに勤しんでいるかもしれない夜神月。その背後に、いる。
 死神リュークだ。
「どうしました? 史香
 モニターの真ん前に陣取って座っている竜崎が、振り向いて史香を窺った。
 我に返る史香。部屋に入るなりモニターを見つめて立ち尽くすなど、挙動不審そのものだ。傍らに立つ夜神も、怪訝そうな顔である。
「いえ……」
 死神の姿を見るには、デスノートに触れなければならない。そして、当然ながら史香にそんなことをした覚えはない。だが、死神とデスノートの存在を知っていて、かつこの世界の人間ではないとなれば、諸々のルールに当てはまらないこともあるのかもしれない。何とか理屈付け、平静を取り戻す。
「夜神さんの息子さんって、とってもかっこいいんですね。びっくりしました。と言うか惚れました」
「…………」
 史香の軽口に、竜崎はあからさまにげんなりとした。夜神月への疑念を五パーセント以上に引き上げるような回答でも求めていたのだろうか。夜神の方はと言うと、何と答えていいものやらと、困惑した様子でいる。
 それが面白かったので、史香は笑顔で付け加えた。
「あ、夜神さんも、かっこいいですよ。もっと早く生まれてればよかったです、私」
史香さん」
 夜神はいよいよ困り果てたような声を上げた。
史香。どうでもいい話は慎んでください」
 竜崎がぴしゃりと言う。史香はめげない。
「あら、どうでもいいなんて、夜神さんに失礼じゃありませんか」
「……では、捜査に関係のない話は慎んでください」
「はーい」
 場を引っかき回すのはもう十分だろうと判断して、史香は素直に下がった。モニターから少し離れたところにあるソファーに腰かける。それから、再び監視に戻った竜崎と夜神を一瞥し、画面に写るキラと死神を眺めた。
 やはり、他の二人にはリュークが見えてはいないようだ。――何故、史香だけが?
 納得はできないが、幸運だったとは言える。夜神月との初対面の前にそれを知ることができたのだから。心の準備なしにあの実物を見たなら、きっと誤魔化せないほどにうろたえてしまっていただろう。


 それ以外は何事もなく一週間が過ぎ、カメラと盗聴器による監視は終わった。
「映像を見ている限りでは、北村家、夜神家に怪しい者はいませんでした」
 竜崎がそう告げると、リビングのテーブルを囲んでいた刑事たちは、詰めていた息を吐き出した。夜神などは特に気の抜けた表情である。刑事たちがそれぞれの反応を見せた後に、竜崎はさらに続ける。
「……が、あの中にキラがいるという疑いは解消されていません」
「何っ!?」
 夜神はぎょっとして腰を浮かすと、それから悄然と肩を落として、「そうか」とだけ言った。
 史香はさすがに同情を禁じえなかった。隣にかけている竜崎をちらりと見る。
「竜崎さん、わざと持ち上げてから突き落としてませんか?」
「何の話ですか」
 無表情の竜崎は、テーブルの上の箱からチョコレートをつまんだ。
「カメラは駄目か。なら、こっちは顔を見せないようにして、一人一人を尋問していくとか……」 
 松田が呟きに近い声で言う。そして史香を見やった。
「どう思う? 史香ちゃん」
 どうしてこちらに振ってくるのか。さりげなく箱からチョコレートを掠め取るところだった史香は、恨めしい思いで松田を見返した。自分で招いた事態なのだが、実際に知っていることと本来なら知らないでいるはずのことを、吟味しながら発言するのは非常に厄介なのである。
 史香はチョコレートをゆっくり呑み込んで、時間稼ぎをしてから言った。
「もう少し証拠がないと難しいと思いますよ。それに、尋問の方法も問題です。キラの能力を考えれば、拘束具をつけて一ヶ月くらい監禁しておきたいところですよね」
 言い終えてから、もう一つを口に放る。
 刑事たちの間に、何とも言えない空気が流れた。「さすが、竜崎の親戚……」と、そう漏らしたのは松田である。
 そちらが聞くから意見を述べたのに(まあカンニングじみてはいるが)、失礼なものだ。史香はへそを曲げて、それ以降の刑事たちの話には加わらずに食べるのに専念することに決めた。
 幸い竜崎は紅茶を前にしてぼんやりしている。このまま独り占めしてやれと調子に乗ってパクパク食べていると、
史香
「な、何ですか」
 突然に声がかかったのでぎくりとした。
 咎められるものと思い、そろそろと箱から手を離しながら竜崎の方へ顔を向ける。だが、竜崎の瞳は史香でなく、ティーカップの中身を見つめていた。そのまま、史香を見やることもせずに竜崎は問う。
「神は存在すると思いますか」
 史香は、軽く一分くらいはフリーズした。
 やがて頭が再起動すると、いつもの己を取り繕う微笑みを浮かべて問い返す。
「竜崎さん、大丈夫ですか? 変なツボでも買っちゃったんですか?」
「違います」
 すぐさま否定の言葉が飛んでくる。普段と変わりない平坦な響きだったが、腹を立てているように聞こえなくもない。仕方がないので、史香は少しだけ声を落として、真面目に答えた。
「そうですねえ、最近は、もしかしたらいるんじゃないかと思うようにはなりました。この世界にやってきたことを考えると。……でも」
 竜崎の、この唐突な問の意図は何だろうか――漫画にあった出来事を思い返すまでもなく、容易に想像できた。竜崎が考えているのはいつもキラのことだからだ。だから、その答えを教えてやる。
「キラは、人間だと思いますけど」
 竜崎はハッと顔を上げると、今度は穴が開きそうなほどに史香を凝視した。史香はにこりと微笑んで、嘯く。
「考えてること、違いました?」
「いえ、合ってます。……史香は、そう思うんですね。キラは人間であると」
「はい」
 ――本当は、知っているだけなんですけどね。
 笑顔の裏にすべてを呑み込む。少々喋りすぎただろうか? 一瞬考えたが、すぐに思い直す。いや、この程度、竜崎に疑われる要素にも、キラ事件へのヒントにもなりえまい。
「…………」
 竜崎は親指を口に当てて、若干の沈黙を挟んでから言った。
「そうですか、ありがとうございます」
「いえいえ」
 応じて、史香はちょっとだけ首を傾げた。ここは果たしてお礼を言われるような場面だろうか。
 ……別に、どうでもいいか。史香はすぐに思考を打ち切った。己の嗜好以外のことに関しては、史香はどこまでも迂闊で、いい加減であった。
 と、突然、史香の手の上に竜崎の手が重ねられた。
「――あっ」
「ですがこれは食べすぎです、史香
 チョコレートの箱へと伸ばそうとしたのを、阻まれてしまったのだ。史香は眉根を寄せる。
「そんなこと。まだ半分も食べていないんですよ」
 言い返しながらもう一方の手をサッと動かすが、その手も即座に掴まれた。
「まだとは何ですか。それが食べすぎだと言ってるんです」
 竜崎は右手だけで素早く史香の両手首をひとまとめに掴み上げると、左手で箱を取り上げてしまう。慌てて拘束を振りほどいたが、竜崎は箱を抱え込んで向こうを向いてしまった。
 史香は竜崎のトレーナーの背中を引っ張り、憤然と抗議する。
「ちょっと、竜崎さんったら、返してください!」
史香のものじゃないでしょう」
「何を言ってるんですか、竜崎さんのものは私のものです!」
史香こそ何を言ってるんですか。ジャイアンですか」
 その後、二人の争いは熾烈を極め、それから周囲の呆れ返った視線が注がれ始めて、さらに夜神が懸命に空咳を繰り返すようになるまで続いた。




 捜査に進展もないある日、朝食の後で、ワタリが竜崎に言った。
「竜崎、そろそろ時間です」
「わかった」
 その短いやりとりを傍らで聞いていた史香は、不思議に思って尋ねてみる。
「竜崎さん? どこかへお出かけですか?」
「はい。史香は留守番をしていてください」
「ええっ!?」
 史香はひっくり返りそうなほどに驚いた。
 そんな史香を竜崎は、自分から尋ねておいて何を、とでも言いたげに見た。史香だってまさか、肯定の返事が来るとは思ってもみなかったのだ。冗談のつもりだったのに。
「竜崎さんって、引きこもりじゃなかったんですか」
「失礼ですね」
 史香は突き刺さる竜崎の視線をものともせずに、重ねて聞いた。
「一体、どこに何をしに行くんですか?」
「東応大学です」
 おやっ、と史香は思った。夜神月が受験する大学ではないか。連鎖的に思い出す。デスノートの漫画の中で、竜崎は一時夜神月と同じ大学に通っていなかったか? 普段は漫画の内容を思い返しもしないので、すっかり忘れていた。
 案の定、竜崎は史香が思い出したとおりのことを口にする。
「センター試験を受けるので」
「――ずるい!」
 史香は咄嗟にそう言っていた。
「ずるい?」
「ずるいでしょう。竜崎さんだけ学校に行くなんて、ずるいです」
「まさか、通いたいんですか?」
 問われた史香は、言葉に詰まった。
 竜崎は目を見張っている。これまで史香はそんな主張を一切してこなかったのだから、驚かれるのも当たり前と言えば当たり前だ。主張するどころか、実際に史香は望んでもいなかった。自分でも、何故こんなことを言い出してしまったのか不思議だ。
 まあ、ずっとホテルにこもりっぱなしだし、学校と聞いて急に行きたくなったのだろう。史香はそう納得した。
「そうです。私も東大に通いたいんです」
 竜崎に頷いてみせる。竜崎は探るようにじっと史香を見て、そうして言った。
「そんなに夜神月に会いたいんですか?」
「は?」
 史香はぽかんとした。どこをどうしたら、ここでその名前が挙がるのだろうか。しばらく悩んで、「ああ、竜崎さんの目的がそれだから、私も同じだと考えたんだろうなあ」と答えを出した。
「夜神月と接触したいのは、竜崎さんでしょう」
「……史香は違うんですか」
「私が会ったって仕方ないじゃないですか。結局推理するのは竜崎さんなんですから」
 仮に史香が夜神月に探りを入れる役目を担ったとして、そして何かを掴んだとする。しかし竜崎なら、それをはっきり自分の目で確かめないと気がすまないに違いない。だったら、そんな二度手間になるような無駄なことはしたくない。そうでなくても、するつもりはないが。
「では、何故?」
「何故って言われても……」
 困る。史香は言葉を探した。
「竜崎さんは、行くんでしょう」
「はい。キラの出方にもよりますが、しばらくはそのつもりです」
「だったら、私も行きたいです」
 深く考えて言ったのではないが、口に出してしまうと、それはすとんと史香の心に当てはまった。これ以上の理由はないように思える。何も悩んだりするような難しいことではない、簡単なことだ。
「駄目ですか?」
 竜崎はややあって頷いた。
「……いえ、わかりました。ただ、今から試験を受けるのは無理です。正規の手段では入学できません」
「じゃあ、正規でない手段で入学させてください」
「そのつもりです。私が帰ってくるまでに、名前を考えておいてください」
「名前?」
 偽名か。そう言えば、竜崎もアイドルの名前か何かを使っていた気がする。
「竜崎さんは、何て名前なんですか?」
「流河旱樹です」
「ふーん、じゃ、私は、松浦亜弥とか大塚愛とかにしようかな」
 適当に挙げたのだったが、この世界にも同じ、あるいは似た名前の芸能人がいるらしく、竜崎にも史香の発言のニュアンスは通じたようだ。
「……今、うわって顔しましたよね。うわーって」
「いえ、別に。好きに名乗ってください」
 竜崎は白々しく言う。もっと追及したかったが、後ろでワタリが待っているので史香はそれで誤魔化されてあげることにした。
「じゃあ、お土産を期待してます」
「受験に行くんですよ」
「いいじゃないですか。ね、ワタリさん」
「はい。何かご希望があれば、お聞きしますよ」
 呼びかけると、ワタリは優しく応じてくれる。
「ワタリは史香に甘い」
 竜崎はそれが不服なようだった。ワタリは竜崎にだって十分すぎるほど甘いと、史香は思うのだが。史香がそれを指摘する前に、珍しくワタリの方が反撃に出た。
「それは、竜崎もでしょう」
「ですよねえ」
 うんうんと首を振り、ワタリに同意する。
 竜崎はものすごく複雑そうな顔をして、何かを言いかけたが、結局は閉口した。