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「竜崎さん……その格好で入学式に出るんですか」「そのつもりです。何か問題が?」
聞き返してくる竜崎は、いつもどおりの、くたびれたトレーナーとジーンズという出で立ちである。
史香だって、人の服装にケチをつけるなんて野暮なことは好きではない。が、これは、どうなんだろう。今から東大の入学式に、しかも新入生代表として出席するという人間の格好ではないと思う。
問い返された史香はしかし、しばし考えてから「いいえ、ありません」と首を振った。
「私は、他人のふりをさせてもらいますから」
「…………」
「……反応なしは傷つきますったら」
「冗談には聞こえませんでした」
竜崎はいじけたように顔を背けた。どうやら、今のでひどく機嫌を損ねてしまったらしい。
「そんなことありませんよ?」
首を傾げてとぼけてみせる史香。
自分でも、最近は歯に衣着せぬようになったと感じる。元の世界では、人前ではもう少し猫をかぶっていたのだが、竜崎があまりにも「普通」のカテゴリから外れているからか、彼の前でもそうしようという気がなかなか起きないのである。竜崎の側が居心地よいのは、ある程度はありのままの己を曝け出せる、そういった理由があるのかもしれなかった。
そんなことを考えて、史香は常の笑顔に一割だけ真のそれを追加して、話を他へ向けた。
「竜崎さんっていつも同じ格好ですよね。もしかして、クローゼットを開けたらずらっと同じ服が」
「近い状態ではあります」
「わ、漫画みたい」
まあ、漫画なのだが。
たわいない話をしているうちに、ワタリの運転するリムジンは入学式の会場に到着した。
「あっ、夜神月」
真新しいスーツに身を包んだ彼を偶然に見つけて、史香は車中で思わず声を上げる。
「どこですか?」
竜崎が、ひょいと史香の方へ身を乗り出してきた。史香は竜崎の視界が開けるように体を少し反らして、窓の向こうを指差す。ちょうど、桜の木の下を歩いている。入り口付近は人で溢れているのだが、死神を連れているのでとても目立っていた。
史香の半身に覆いかぶさるような格好のまま、竜崎は首だけこちらへ巡らせて聞いてくる。
「よくあんな遠くにいるのを見つけられますね」
「――ええ、美形ですもん」
内心ぎくりとしたが、史香は澄まして答えた。
竜崎は座席の元の位置へ戻ると、またあの膝を抱える座り方をした。
「史香は元の世界に恋人がいるのでは?」
……怪しまれた?
ごまかしの手段として何度となくその類の冗談を口にしてきた史香だったが、ずばりそのことを問いただされてしまうほどの頻度だっただろうか。ただでさえ元の世界のことが二人の話題に挙がったのは、最初の一度きりだったと言うのに。
史香は気を引き締めるべく姿勢を正した。
「はい、確かに。いましたよ」
「います、ではなく?」
「竜崎さんったら、何ヶ月前のことを言っているんですか。もう過去のことになってもおかしくない時間が過ぎています」
「そうですか。随分冷めていますね」
「ええ、私がこちらへやって来たのは、私が――私たちが、終わった直後でしたから」
史香は目を伏せて、淡々と告げる。
この時、史香の胸に去来したのは、あの時間の打ち震えるような歓喜の余韻ではなく、漠然とした悲しみだった。
「彼は結局、私のことを、真に理解してはくれませんでした」
それを求める方が間違いなのだと、史香は知っている。ただ、恋人同士の時間の中で、彼があんまりに優しかったから、ついしてはいけない期待をしてしまったのだ。あの最後、首筋にナイフを滑らせる瞬間まで、史香は願っていた。誰に受け入れられなくてもいい、身勝手なのもわかっている、でも――
結局、史香が懸命に史香なりの愛を囁いても、彼の瞳からは、怯えも侮蔑も怒りも、消え去ることはなかったけれど。
「男女の仲って、難しいんですね」
ぽつりと呟くと、竜崎が言った。
「すみません」
「え?」
ハッとして、竜崎の顔を見返す。話を逸らすだけのつもりが、意に反して熱のこもった語りに発展してしまったようだ。相変わらずの無表情で、竜崎はじっと史香を見ていた。
「辛いことを聞き出しました」
史香は三度瞬きをして、それから力強く首肯した。
「はい、とても」
「…………」
「ふふっ」
心外そうに押し黙る竜崎が何だか小さな子供のようで、史香は吹き出してしまった。
「……どうしました?」
「いえ。竜崎さんがこの先出会う女性に過去の恋人のことを聞く時は、もっと気を付けないと、すぐに嫌われちゃいますよ」
「そうします」
笑いながら史香がそう言うと、頷いた竜崎は裸足の指をもぞもぞさせて、今度こそ黙り込んだ。それが、本格的に拗ねたという合図だったようで、その後史香は会場に入るまで竜崎の機嫌を取るのに一苦労した。
偉い人の話というのは、得てして長いものである。
式辞の間、うつらうつらどころか爆睡していた史香が目を覚ますと、ちょうどよく式は終わりがけで、新入生挨拶に移るところだった。
「あれ? 今年は二人か?」
どこか近くで、誰かの囁く声がした。
幸いと言うべきかどうか、竜崎の席がある最前列と比べれば遥かに劣るだろうが、史香のところからも壇上に上がる二人の姿がよく見えた。
夜神月と竜崎、ただでさえ代表が二人であり、しかもその二人がいたって対照的な姿をしているものだからだろう、会場内のざわめきが大きなものになる。
謎の名探偵のくせして、こんなに目立っていいのだろうか。あくびを噛み殺しながら史香はぼんやり思った。
「……あの二人、全教科満点だって噂だよ」
史香の二、三列前にいる数人が、ひそひそと話を続けている。真実味がありすぎる噂である。
「あたしは断然右だなー」
「ええっ、普通左でしょ」
隣は隣で、女の子同士が盛り上がっている。右=竜崎、左=夜神月だ。
それを聞きつけて、何となく、むかっと来た。
その後に、史香ははて、と首を捻る。私は今、一体何にイラついたのだろうか。二人の挨拶の内容も、その後に竜崎から夜神月に何か告げている様子だったのもそっちのけで、史香は考え込んだ。
入学式が終わると、退席する新入生たちで会場は混雑し、とても竜崎の側には寄れそうにもなかった。夜神月が近くにいるだろうから、あまり寄りたくもない。そういうわけで、史香は一人で駐車場へ赴くことにした。
右手で口を押さえ、小さくあくびをしながら歩いていると、不意に声をかけられた。
「史香さん」
「あ、ワタリさん……み、見ました?」
史香にも、あくびする姿を見られて恥らう程度の羞恥心はあるのだ。ワタリはにこにこと笑みを深めるだけで、そのことには触れなかった。ばっちり見たんだろうなあ、と史香はちょっと顔を赤らめた。
「すぐに車を回しますので、こちらでお待ちください。流河も、じきに来るでしょう」
「流河?」
咄嗟には、それが誰のことだかわからなかった。時間をかけて、理解する。ああ、そうか、これから大学では竜崎のことをそう呼ばないといけない。どうも、まだ寝ぼけているらしい。
「いえ、私、ちょっと歩きたいですから、一緒に行きます。……いいですよね?」
「ええ、もちろん構いませんよ」
ワタリの声音はどこまでも穏やかである。
史香とワタリは連れ立って、歩き出した。駐車場までは少し距離があるが、眠気覚ましにはちょうどいいだろう。
「小さな女の子って……」
「はい」
隣にいるワタリに届くか届かないかくらいの声量で史香が語り出すと、すぐさま軽い相槌が返ってきた。
史香は前を向いたまま続ける。
「好きなものを共有することができませんよね。例えば、仲間うちでピンク色が好きな子が一人いたら、二人目を許さない。私、うんと小さい時に、『この色は私のものだから、あなたの好きな色は違う色にしてね』って友達に言ったことがあるんです」
「子供の心理とは、そういうものなのやもしれませんね」
「ええ。それで、私、思ったんです。私の思考は、まだその時のままなのかもしれないって」
「史香さんと同じものを好きになる人間を、許せない?」
史香の縺れた心のうちを、ワタリは丁寧に解きほぐしてくれる。
「……そうです」
史香はゆっくり頷いた。
入学式の最中のいらいらを、史香は長考の末に自身でそう解釈したのだ。
しかし、そうすると、史香の「好きなもの」とは――
話が途切れたところで、二人はリムジンを停めてある場所に辿り着いた。ワタリがドアを開けてくれるのを待って、史香は座席に乗り込む。それから、さらに考えを巡らせた。
史香の嗜好の根底には、そういうものが流れているのだろうか? この手で殺めれば、対象はいつまでも、永遠に、私一人のもののまま……殺したいものは殺したいのだと単純に考えて、己の嗜虐性の発端を解き明かそうとしたことはこれまでなかったのだが、ひょっとするとそんな認識がある故だったのだろうか。
だとすれば、史香は竜崎を……さなければならない。そうやって、手に入れなければならない。
いや、結論を出すのは性急すぎる。竜崎を前にしてそうしたいと思ったことは、いまだないのだから。それに、これが恋とは限らない。チャンスは一度きり。もう間違えられないのだ。
「……史香さん?」
急に口をつぐんだ史香を、運転席からワタリが窺った。車はすでに発進している。
顔を上げると、ルームミラー越しに目が合った。
「ワタリさん。さっきの、やっぱり私の独り言です」
「そうでしたか。では、私が聞いたことは忘れましょう」
ワタリがそう言ったので、史香は何か、救われた気がした。
考えごとは、もう終わりにしよう。キラとLとの対決にしても、まだ時間はある。はっきりした結論が出るまで、とりあえずは、この傍観者というスタンスを変えることはない。
と、リムジンが停止した。
窓の外に目をやれば、会場の前である。すぐ近くの歩道に、竜崎が背を丸めて立っている。そのさらに向こうには、夜神月と死神リューク。
ワタリが運転席から降りて、後部座席のドアを開けた。風が吹き込んできたので、史香は目を細める。
「夜神くん、今度はキャンパスで」
「……そうだね、よろしく」
風に乗って、二人の短いやりとりが聞こえてきた。
車が再び走り出してから、史香は聞いてみた。
「夜神月、どうでした?」
「揺さぶりはかけました。これからです。……そういえば」
竜崎はじろりと史香を見た。
「聞こうと思っていたんですが、何ですか、あの名前は」
「あの名前って?」
史香がきょとんとして聞き返すと、その態度の真偽を判別しようとするかのように、竜崎は史香の瞳を覗き込んでくる。
「史香の偽名です」
「ああ、あれは……竜崎さんがびっくりするだろうと思って」
竜崎は僅かに、だがはっきり見て取れるほどに目を丸くした。
「そのためだけに?」
「はい。そのためだけに」
「ややこしくなるだけでしょうに。まったく、趣味が悪い……今に始まったことではありませんが」
「その言い方、ひどいですよ、竜崎さん」
いつもの応酬を続けながら車に揺られていると、史香はだんだんと眠気を催してきた。中途半端に睡眠を取ってしまったのがいけなかったのか、少し体を動かしたくらいでは、それはどこかへ消え去ってはくれなかったのだ。
史香は竜崎を見やった。竜崎は行きと同じように、わざわざスニーカーを脱いで膝を抱えている。
「竜崎さん、どうして車の中でまでそんな座り方を?」
「私はこの座り方をしないと推理力が四十パーセントも下がってしまうんです」
「でも、今は推理することなんてありませんよね?」
「いいえ、そんなことはありません。夜神月への今後の対応や、逆に向こうからはどう接触してくるか、それにキラ事件自体への」
「――ありませんよね?」
史香は実力行使に出た。竜崎の足を引っ掴んで、無理矢理に下に下ろさせる。直後、シートとほぼ平行になった腿の上に、さっと己の頭を乗せた。
我ながら惚れ惚れとする早業であった。
「史香――何をするんですか」
あまりのことに、竜崎はそれ以外の文句が出てこないようでいる。
「眠たくなってしまいましたので、寝ます。ホテルに着いたら起こしてください」
「この格好は?」
「いわゆる、膝枕というものです」
「足が痺れます」
「我慢です」
次の言葉まで、少し間が空いた。
「……スーツが皺になりますよ」
「じゃあ脱ぎます」
史香は起き上がるとさっさっと上着を脱いで、それを布団代わりにすることにした。その間に竜崎の膝が立てられることもなかったので、再び色あせたジーンズの上に頭を置く。
頭の下の感触は、とても枕として適しているとは言えず、硬い。快適さを追求するために何度か頭を置き直したり位置をずらしたりすると、さらに硬直した。
あれが最後の抵抗だったらしく、それ以降、竜崎は何も言わない。代わりに、聞こえよがしな溜息だけが聞こえた。この暴挙になす術もない様子の竜崎に、推理力四割減というのは本当なのだなあ、などと史香は考える。
瞼を閉じて、頬を擦り付ける。まだ殺さなくたって、今伝わるこの温度は、私のものだ。私だけの。暗い喜びに心を浸して、史香は安堵して眠りについた。
「…………」
竜崎が何か言ったが、現実との境を飛び越えて夢に落ちていく意識のせいで、その内容を知ることまでは叶わなかった。