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「つまんないです」大学から戻った竜崎がリビングに入って来たのを認めるなり、史香は言った。
竜崎はちょっと眉を顰めて、「今度はまた何を言い出すんだか」みたいな顔をする。だが、実際にそうやって苦言を呈することはなく、素直に応じてきた。
「何がですか? 主語を抜かされると、意味がわかりませんよ」
「私が、竜崎さんを、つまらないと、思っています」
当てこすりの意も込めて、ゆっくり文節ごとに切って言い直す史香。
「…………そうですか」
相槌が打たれるまで、随分と間が空いた。竜崎はソファーの上に背を丸めて座る。その姿は、打ちひしがれているように見えなくもなかった。
しかし竜崎の様子など気にかけるどころではない史香は、続けて抗議する。
「そうですよ。だって竜崎さんったら、夜神月にかかりっきりじゃないですか!」
――大学生活一日目を終えての、史香の感想はとにかくそれに尽きる。竜崎は夜神月にストーカーのごとく付き纏い、一日中べったりだった。史香のことはほったらかしで。
あらかじめ竜崎から、夜神月には不用意に近付かないようにと言い含められていたし、言われずともそんな危険な真似はしたくなかったため、史香は竜崎(と夜神月)を置いて帰宅した。そして、竜崎が帰ってきたら一言文句を言ってやろうと待ち構えていたのである。
竜崎は、史香が何故腹を立てているのかわからないといったふうだった。
「それは当然でしょう。私が大学に通う目的は、夜神月に接触することなんですから」
「だからって、私を完全無視して、夜神月を追い回すなんて……」
史香はぷりぷりしながら、傍から見た竜崎の粘着っぷりと、そのおかげで史香がどれだけ退屈していたかを説き続ける。その理不尽な説教を大人しく受けていた竜崎だったが、やがて史香が一息つくなり、指をくわえながらこう言った。
「史香。それではまるで、私に構ってほしいと言っているように聞こえますよ」
「竜崎さん……」
気勢を削がれた史香は気の抜けた声を上げた。それから、すぐにツンと顎を上げて言い返す。
「そういう寝言は、寝ていても言ってほしくありません」
「……違うんですか?」
「まったく違います。幻聴です。妄想です。勘違いです」
きっぱり否定すると、竜崎は「そうですか」とだけ返事をした。それは、先ほど発されたのと同じ音をした言葉だったにもかかわらず、先のものとは異なって、随分楽しそうに聞こえた。
史香はムッとして、肩をそびやかす。
「私の所見は以上ですけど、何か応じるところはありますか?」
「それは諦めてください。私が大学に行くのは、学ぶためでも遊ぶためでもないんですから」
竜崎の物言いはいつも率直だ。
そのくらい、史香だってわかっている。このまま駄々を捏ね続けても、竜崎が己を曲げることはないだろうということも。ただ、少しくらい、私のことを顧みてくれたっていいのに……
「史香」
今突き放したばかりなのに、史香を呼ぶ竜崎の声は悔しくなるくらいに優しい。
「……わかりました、もういいですよ」
とうとう史香は観念して折れた。
「竜崎さんがストーキングに精を出している間に、私は新しい彼氏でも作りますから」
とにかく、史香は二度目の恋を成就させたい。
新しい環境とは、新しい恋を運んできてくれるものだろう。昨日から手に入れた大学生という身分はそれにぴったりだし、そうとなれば、こんな聞かない竜崎なんかにいつまでもかかずらうことはないはずだ。すっかりいじけてしまった史香は、そんなことを思う。
「それは駄目です」
竜崎はさらっと言い切った。
「な、何でですか!?」
「何ででもです」
人生の生きがいをあっさり禁止されてしまって、史香は咄嗟には二の句が継げなかった。
竜崎やワタリとこうして生活を共にし、そしてその生活の場がキラ事件の捜査本部となっている以上、史香が深い人間関係を築くことは多くの不都合を生むのだろうか。ならば仕方がないことなのかもしれないが、頭ではそうと理解できても、竜崎を見返す目は自然と据わってしまう。
「でも、大学だけでの付き合いなら、問題ないのでは?」
史香の反論に、竜崎は怪訝そうな表情をした。ほんの一瞬で消えてしまったので、史香はそれが意味するところを考える暇もなかった。
「……問題は、大いにあります」
刺々しい口調である。史香は目を瞬かせた。この場合、怒りを覚えるのが正当なのは史香の方だろうに。
「何を怒っているんですか、竜崎さんってば」
「怒っていません」
「だったら、彼氏くらい許してくれたっていいでしょう」
「怒っていなくても、駄目なものは駄目ですから」
「そんなに目くじら立てなくても」
「駄目です」
「…………」
「駄目ですよ」
「まだ言ってないじゃないですか!」
史香たちの隣のテーブルを囲んでいる刑事たちは、捜査資料をまとめる傍らで、いつまでも続く押し問答を生ぬるく見守っていた。
「あの二人、本当に付き合ってないんですかねえ」
「犬も食わない……か」
もちろん、そんなものは刑事だって食わないのだ。
「――隣、いいかな?」
講義の開始を待っていると、不意に声をかけられた。
二日目も、竜崎はやはり史香を置いて行ってしまったために、史香は講義室の席に一人腰かけていたところだった。
「ええ、どうぞ」
史香が席に着いた時にはまだ講義室はがらがらだったが、考えごと(主に竜崎への不平不満)に没頭している間に、受講生でいっぱいになっていたようだ。自分の荷物を取って隣の席を空けてやってから、史香は何気なく相手の顔を振り仰いだ。
「やっ……」
ぎょっとした。
その考えごとの元凶とも言えるにっくき男と、異様な姿の死神がすぐ側に立っていれば、誰だって驚く。
「や?」
夜神月は、座席の背もたれに片手をかけたところで一旦動作を止めた。僅かに首を傾げて史香を見る。
史香は口をぱくぱくさせた。
「や……がみ、月……さん」
一体、竜崎のあの攻勢をどうやってかわしてきたのだろうか、史香が呆然としているうちに、夜神月は史香の隣にすとんと腰を下ろすと、好青年よろしく話しかけてきた。
「どこかで会ったかな? ごめん、人の顔を覚えるのは得意なつもりだったんだけど……」
「あ、いいえ、違います。あの、入学式で」
「入学式……ああ、あの挨拶で?」
「ええ、それで」
もったいぶって言葉を切り、史香は考えを巡らせる。夜神月の正体を知らない、そして取り立てて気を引くようなところもない女の子は、彼に対してどう振る舞うだろう。
何が面白いのやら、夜神月の背後で死神が笑っている。まず、当然ながらリュークに目を向けてはならなかった。史香は己の仕草に気を配りながら、慎重に言葉を継ぐ。
「それで、夜神さんのことが、印象に残っていて」
「そう。君みたいなかわいい子に覚えてもらえてたなんて、得したな」
夜神月が爽やかにそう言い放つので、史香はさらに窮地に陥った。
何故もっと当たり障りのない会話を選んでくれないのだ、この男は? まさか入学式で竜崎の車に史香が同乗していたのに気付いていて、こうやって取り入ってLへの足がかりにするつもりなのだろうか。ぐるぐる悩み出すと、もう何もわからなくなってしまう。
「私じゃなくても、新入生ならみんな夜神さんのこと、覚えていると思いますよ」
「それって、いい意味に取っていいのかな」
「もちろんです」
史香は微笑んだ。そっけない態度を取るよりは、いくらか気のある素振りを見せる方が、夜神月の目にはありふれたものとして映る、はずだ。苦肉の策である。
「君の名前、聞いてもいい?」
「あ、すみません。私――史香といいます。竜崎史香です」
「竜崎さん、これからよろしく」
偽名の出所をまだ知らない夜神月は、何の疑問も持たない様子でそう応じる。
「ええ、こちらこそ」
危ない綱渡りの最中にもかかわらず、史香はワクワクして楽しくなってきた。この先、史香が名前を呼ばれる場面に居合わせた竜崎がきっとするだろう嫌そうな顔や、捜査本部入りを果たした夜神月がLの通称を知った時の反応などを、こっそり想像したからだった。
間もなく教授がやって来て、二人の会話は一時中断した。
まだ二日目だが、大学の講義は憂鬱になる。何せ、以前の高校生活と比べて、授業の時間が長すぎる。それにこの時期はまだ講義に関しての全体的な説明ばかりで、大して面白い内容でもない。
さらにリュークが夜神月に話しかけたり変な踊りを踊ったり飛び回ったり壁に首を突っ込んで遊んでいたりするので、気が散ってどうしようもない。夜神月はこの黒いのによく耐えられるものだ、と史香は妙なところで彼を尊敬した。
講義に集中できていないのは史香ばかりではないようで、学生たちはあちこちでおしゃべりをしている。そしてちょうど史香の前列にいた学生たちは、キラについて論じていた。キラは正義だとか、いや、どんな理由があれ殺人を犯すのは悪だとか、そんな内容だ。
史香のところにまで聞こえるということは、必然的に、史香の隣にいる夜神月の耳にも届いていることになる。
果たして、彼はどんな顔をしてこの論争を聞いているのだろうか? 多少意地悪な気持ちで夜神月の方を窺うと、どうしてだか向こうも史香に目を向けていて、視線がかち合った。
ここで目を逸らしてしまうのも何だか不自然なように思え、史香は大した意図もなく、声を潜めて夜神月に問いかけた。
「……夜神さんは、キラのこと、どう思います?」
「ん? そうだな……」
史香が前列の会話に意識を向けているのに気付いていたのだろう、夜神月はいきなり振られる話題に疑問を差し挟むことなく、乗ってくる。
「キラの存在が、犯罪者の抑制に繋がっているのは事実だと思うよ」
「夜神さん、キラ派なんですか?」
史香は目を丸くして聞き返した。本当に驚いたので演技の必要はなかった。てっきり、正義漢ぶった答えが聞けると思ったのだが。
すると、夜神月は首を横に振った。
「いや、今のはただの一般論だよ。だから、そういった理由でキラを支持している人は多いだろうってこと」
「じゃあ、夜神さんは?」
「僕自身は、もちろん、キラは悪だと思ってるよ。法によって裁かれなければならない、ね」
夜神月がそう言った途端、後ろにいるリュークが笑い出した。
「よく言うぜ、ライト」
史香も、死神とまったく同意見である。しかし、さらに言えば、史香は感心していた。夜神月は顔色ひとつ変えずに、キラは悪だと言い切ったのだ。
史香が黙していると、今度は向こうから尋ねてきた。
「竜崎さんはどうなの? 僕だけじゃなくて、君の意見も聞かせてほしい」
「私は、そうですね、正直なところ……」
どうでもいい――と、少し前までの史香ならそう思っただろう。だが、今は違った。
史香は月を見て、ちらと笑う。
「案外、嫌いではないんです」
彼は、本心を曝け出せる相手も真の理解者も心許せる存在も何も得られないまま(死神は数に入れないでおく)、一生嘘の仮面をかぶって生きていくのだ。……漫画を読んだ限りでは、その一生もそう長くはなさそうだが。
たった今史香の中に芽生えたもの、それは月に対する同情などでは決してない、違えようのないほど強い親近感だった。
「嫌いじゃない? 随分遠回しだね。それは、キラの考えに賛同しているということ?」
月の瞳が鋭く細まった。何も知らない人間ならば、それを、純粋な正義感から来る反発の光だと取るのかもしれなかった。けれど史香は、月の本心を知っている。だから気付く。その目は、史香を値踏みするものなのだと。
「いいえ、言葉のまま受け取ってください。賛否ではなく、好き嫌いの話をしているんです。私には、キラが善か悪かを断ずる資格はありませんから」
考えてみれば、月と史香はよく似ているのだ。二人とも、世間一般的な倫理に反した主義を、ひそやかに抱えている。殺人さえ許容する、いや、誰かを殺してこそ成り立つもの。それは、彼にとっては正義であり、かたや、史香にとっては愛情である。
「……資格がないって?」
月は机の上に肘をついて、ほんの少し史香に顔を寄せた。
変わらず笑みを湛えて、史香は告げる。
「キラのことをどうこう言えないということです。私も、人を殺したことがありますから」
「……えっ……」
息を呑んだ月はそれから口を開けかけたが、何度か躊躇した後に結局は閉口した。まずまずなリアクションだ。史香はにっこりした。
「なんて、冗談ですよ」
「……竜崎さん」
「ごめんなさい。夜神さんがあんまり怖い顔をするものだから、つい。場を和ませたくて」
「あれでか? 本気で言ってるなら、相当おめでたいヤツだな……」
「…………」
水を差す一言を放ったのは、リュークである。史香は微笑を貼り付けたまま内心で憤然となった。どうやら死神にはジョークのセンスが備わっていないようだ。
月は束の間、史香を見つめてから、言った。
「もしかして、まだからかってる?」
「どうでしょう?」
「……参ったな」
軽く肩をすくめ、苦笑いをする。友人の悪ふざけを「仕方がないなあ」と許す時のような、気安さを感じさせる笑い方だった。その裏では、あるいは疎んでいたり呆れていたりするのかもしれないが、とにかく月はわかりやすく史香に 友好を示して見せた。
史香もまた、その誘いにわかりやすく乗ることにした。
「ね、夜神さん。私たち、お友達になれますか?」
「ああ。少なくとも僕は、そうなれるよう望んでいるよ」
「よかった。私もです」
たくさんの可能性を考えれば、きっと月と史香はいい友人になれただろう。実際にそうなるかどうかというのは、また別の問題なのだけれども。