9

 講義が終わると、月はテキストを鞄にしまいながら尋ねてきた。
「竜崎さんは、この後は?」
「もう帰るだけですよ」
 史香はさっさと帰り支度をして立ち上がる。すると、続いて月も腰を上げた。
「じゃあ、もしよかったら、今から――」
「あっ」
 月がすべてを言い終える前に、史香は声を上げて遮ってしまった。月の向こうに、見知った姿を見つけたからだ。――竜崎である。退出する学生でどれだけ通路が混み合おうと、あの異様な風体を見逃すはずもなかった。
「? どうかしたの?」
 月が不思議そうに振り返るのと、竜崎が声をかけてきたのはほぼ同時だった。
「夜神くん」
「……流河」
 その刹那、史香は見上げた月の横顔に、冷たい表情が浮かんで、次に消えるのを見た。瞬きの間に、彼はもう涼やかな笑みを口元に浮かべていた。
「どうしたんだ? 僕に用事か?」
「はい。夜神くん、テニスをしましょう」
「ああ、朝もそんなこと言ってたな。親睦のためだっけ」
 なるほど、今日の危機の原因がこれでわかった。月が一人でいたのは竜崎を撒いたからではなく、布石を終えた竜崎がストーキングを一時中断していたからか。
 そんな考察をしつつ、月の背からじとっと竜崎を睨む。竜崎は今日も史香を無視してくれている。昨日折れてみせはしたものの、「夜神月>史香」の図式がすっかりできあがってしまっているのは、どうしたって気に食わない。
 だが、竜崎の方も史香を非難がましい目で見ている。はて、理由は見当もつかないが、竜崎の不機嫌指数は最大値に近い状態らしい――
 史香はあっとなった。そういえば、史香が月に近付くのは禁止されていた。
 と言っても、今日の遭遇は不可抗力である。むしろ竜崎のマークが外れたからこそ、月は史香に接触したに違いない。史香は己の無実を主張するため、月には気付かれぬように小さく首を振ってみせる。
「二人は知り合い?」
「えっ」
 ……が、ばっちり目撃されてしまった。
 月は史香と竜崎をかわるがわる見る。
「確か、入学式が終わった後で、一緒にいたよね」
「ええ、夜神さん、その……」
 史香はそっと竜崎に目配せをした。入学式の時も目撃されていたとなると、やはり今日のこの接触は「将を射んとすれば……」という策だったのだろう。
 竜崎は何も言わない。ということは、月に告げるのも、刑事たちに話したとおりの身の上で問題ないようだ。
「実は、最近籍を入れまして、新婚なんです」
「…………」
「…………」
 三人のいる空間に、沈黙が満ちる。
 リュークが「ブホッ」と短い奇声を発したが、本当にそれだけだった。竜崎と月、二人して史香を見つめたままだんまりを決め込むので、史香はいたたまれない気持ちになってきた。似たようなネタを使い回したのがいけなかったのかもしれない。
「あのう……冗談ですよ? 本当は、ただの親戚です」
「ああ、そうなんだ……」
 史香がもじもじしながら言い出すと、月は額を押さえて呻くように言った。これまでのスマートな仕草とは違って、いやに気怠げな所作だった。
 竜崎に至っては、
「一度はっきり言おうと思っていましたが、史香、あなたは冗談が壊滅的に下手ですよ」
 ずばっとそこまで言う。この日、初めて史香に向けて放った言葉がこれである。
「そんなことありません! そう思っているのは流河さんだけですって。ね、夜神さん」
「いや、悪いけど……」
「!?」
 気まずそうに視線を逸らされて、史香はショックのあまり絶句した。
 その隙に気を取り直したらしい月と竜崎は、史香そっちのけで話し始める。
「流河、親戚っていうのは本当なのか?」
「はい、そういうことになっています」
「……あまり口外しない方がいいんじゃないか」
史香を調べてもLに行き着くようにはなっていませんから、心配無用ですよ」
 史香は白けた気分になった。
 どうでもいい腹の探り合いに付き合う気も起きない。早いところ帰ってしまおう。やれやれと溜息をつきつつ、鞄を持ち直す。
「あっ、竜崎さん」
 史香のそんな気配を目敏く察してか、月が呼び止めてきた。
 つと足を止め、月を仰ぐ。次いで竜崎をちょっとだけ見やり、再び月に向き直った。
「何ですか?」
「よかったらテニス、一緒に付き合わないか? 竜崎さんが来てくれた方が、ずっと張り切れるよ」
 月のにこやかな笑顔から、史香はぷいっと顔を背けた。
「……私、テニスはわかりませんから、お断りします」
 白々しいおべっかも一刀両断する。
 そのままつーんとしていると、竜崎が横から余計な一言を放った。
史香がここまで臍を曲げるなんて、珍しい。さすが夜神くんです」
「さすがって何だ。怒らせたのは流河だろう」
 史香は憤慨した。
「ふ、た、り、と、も、です!」
 それを捨て台詞にして、今度こそ背を向けて立ち去る。
 何というユーモアを解さない男たちだろう。楽しみの一つが果たせたのに、まったく、腹立たしい一日となってしまった。


 ホテルに帰り着き、エレベーターに乗り込む際に、夜神総一郎とばったり出くわした。
「あら、偶然ですね、夜神さん」
史香さん。大学帰りか?」
「ええ、そうなんです。夜神さんは……」
 エレベーターの乗員は二人だけだった。ドアが完全に閉まるのを待って、 史香は口を開く。
「もしかして、警察庁から戻られたところですか?」
「うむ、いくら我々だけで捜査しているとは言っても、ある程度は上に話を通さなくては成り立たんからな」
 口振りに反して、夜神はひどく疲弊して見える。そうは言っても捜査内容を報告するなんてことはできないだろうから、もしかすると、上司と衝突でもしてきたのかもしれない。
 史香は早々にこの話題を終わらせることにした。
「……あ、そうだ、夜神さんの息子さんって、テニスは得意なんですか?」
「テニス?」
 突拍子のない話に思えたのだろう、夜神は訝しげに聞き返してくる。
「何でも竜崎さんとテニスをするんですって。私は先に帰って来てしまいましたけど」
「ああ、そうか」
 夜神は頷くと、顎に手をそえた。
「確か、高校に入るまで続けていたな。父親の私が言うのも何だが、ちょっとしたものだった。大会で優勝したこともある」
「へえ、すごいんですねえ」
 夜神がそこまで言うのなら、よほど上手かったのだろう。史香はにやりとした。
「だったら観戦してくればよかったかなあ。竜崎さんがこてんぱんにやられる姿が見れたかも」
「はは……」
 エレベーターが止まり、ドアが開く。夜神は苦笑しながら廊下へ踏み出した。
 その隣に並んで、史香は夜神の顔を見上げる。
「あの、夜神さん」
「ん?」
「……何だか、ものすごく疲れていませんか?」
 夜神はハッと不意を衝かれた表情をした。
「そんなことは――ああ、いや。そうだな、確かに、疲れているのかもしれん」
 一度は否定しかけ、しかし逡巡の後に肯定する。
 これは深刻そうだ。自分のような小娘の前で見栄を張りとおす余力もないとは。……思えば、初めて会った時と比べて、夜神は随分とやつれて老け込んでしまった。
 そう思ったことは口に出さずに、史香はにこっと微笑んだ。
「じゃあ、今晩は美味しいものでも頼みません? 夜神さん、お好きなものは? お寿司とか?」
史香さん。気を遣ってもらえるのはありがたいが、それは……」
「あっ、遠慮なんてしないでくださいね。全部竜崎さん持ちですから」
「……そ、そうか」
「はい、そうです」
 何しろ、夜神のやつれ方には、無茶苦茶な方法で捜査をする竜崎も半分くらいは原因として絡んでいるのだろうから。あとの半分は、彼の息子がやっていることだが。
「ね、ですから、うんと高いものにしましょうよ」
 何を頼んでやろうと史香があれこれ考えていると、夜神が立ち止まった。
「夜神さん?」
 夜神より数歩先に進んだところで、振り返る。
 異常は一目でわかった。夜神の顔は、血の気が引いて真っ白だった。ぐらり、と体が前のめりに倒れる。
「夜神さんっ!?」
 咄嗟に腕を伸ばしたが、史香の腕力でその体重を支えきれるはずがない。夜神と一緒に床の上を転がる羽目になってしまう。
 史香は急いで起き上がり、夜神を支え起こそうとした。
「夜神さん! どうしたんですか!?」
 我ながら間の抜けた質問だ。史香は先ほど夜神が倒れた瞬間に、漫画の中で彼が心臓発作を起こして入院する場面があったのを思い出していた。
 夜神は大量の汗をかいて、息苦しそうにしている。意識はかろうじてあるようで、震える手がベルトに伸びた。バックルを押す。ワタリを呼んだのだ。
「夜神さん、しっかりしてください! 夜神さん!」
 史香は声をかけ続けた。
 ワタリは部屋に待機しているはずだから、すぐに駆けつけてくれるだろう。夜神が命を落とすのはまだずっと先のことだったはず、だから大事には至らない。けれども、史香はそれを「知らない」のだから、ふさわしい行動を取らなければならなかった。
 廊下の向こうから、急ぎ駆ける足音が聞こえてくる。そちらへ向かって叫んだ。
「――誰か! 夜神さんがっ」
 叫ぶ声とは裏腹に、史香は冷静で、落ち着いている。当然だ。取り乱してしまうような要素など、何ひとつない。
 だと言うのに、何故だろう、こんなにも――
 史香は気を失っている夜神の、頬がこけ隈の浮かんだ青白い顔を見つめながら、そっと己の胸を押さえてみた。
 ……手のひらに伝わる心音は、早鐘を打っていた。



 ナースステーション前の革椅子に腰かけ、エレベーターの階数表示板を眺める。
 史香がいる階のランプが点灯する。もう何度目になるのか、開くドアを見守った。すると、ようやくの待ち人がドアの向こうから姿を現し、史香は立ち上がって二人を迎えた。
「夜神さん。竜――流河さんも」
「竜崎さん?」
 父親の大事を聞いて駆け付けた月は、史香の姿に大いに驚いたようだった。
「どうしてこんなところに……」
「夜神さん」
 史香は月の問いかけを遮って、身を翻した。
「お父様の病室まで案内しますから、ついて来てください」
 竜崎が躊躇なく史香についていくのを見て、月は腑に落ちない様子のままで従う。
「……父の容体はどうなんだ?」
「落ち着いているみたいです。意識も戻ったそうですよ」
「伝聞なんですか? 史香も、まだ面会はしていないんですね?」
 次に口を開いたのは竜崎だ。史香は頷いた。
「ええ、今は奥様がいらしていて。不倫相手と勘違いされて、夜神さんの家庭 が崩壊しちゃったら大変じゃないですか?」
 何も返答が戻ってこないので、史香がそっと振り返ると、月は『駄目だこいつ…早くなんとかしないと…』みたいな視線を無言でこちらによこしていた。
 竜崎が軽くなだめる。
「夜神くん、史香のいつもの冗談ですから」
「気遣いと言ってください」
 わりと真面目に発言したつもりだった史香は口を尖らした。
「刑事局長と女子大生が昼間から一緒にいたなんて、不自然でしょう。言い訳もすぐには思い浮かばなくて」
「父と一緒に? 竜崎さん、まさか君も捜査関係者なのか?」
 月はすぐに食いついてきた。何も知らぬ善良な「夜神月」、一刻も早く捜査本部の全容を把握したい「キラ」、どちらの立場にあっても出てくるのが当然の問だ。
 さて、どうするべきか。史香が答えあぐねていると、今度ばかりは、竜崎も助け舟を出してきた。
「夜神くん、その話は後で。病室はここのようですよ」
 竜崎が指さす先には、夜神の名の載った表札がある。
「ああ……」
 大人しく引き下がる月。二人に向けて、史香は言った。
「じゃあ、私はこの辺りで待っていますね」
「……史香は来ないんですか?」
 それは、竜崎にとっては意外な申し出だったらしい。珍しく感情露わに、目を丸くしている。
 史香は何でもない振りをした。
「ええ、さっき言ったように奥様もいらしていますし、お二人で面会して来てください」
 言い訳の間にも、竜崎はこちらをじっと凝視してくる。まるで、史香の真意を測ろうとしているかのように。史香は耐えきれなくなって目を逸らした。
「流河、竜崎さんがそう言ってるんだ。いいじゃないか」
 いつまでも動こうとしない竜崎に、月が痺れを切らした。彼はすでにドアの前で、ノブに手をかけている。
「ええ、どうぞ、そうしてください」
 はっきり言って月はいけ好かない史香だが、これはまさしく救いの一言である。その言葉に乗っかって、開いた手のひらを胸元で小さく振ってみせる。
 せつかれた竜崎は病室へ足を向けるが、もちろん納得したわけではなさそうで、白いドアの向こうに消えるまで、視線は史香からは外さぬままだった。


 二人ともが病室に入って、ドアが閉め切られると、史香は息を吐いた。ちょうどよく近くの壁際に椅子が設置されていたので、そこに腰かけて待つことにする。
 ……史香は、夜神と顔を合わせることが怖ろしい。
 会って、あの時の動悸の理由をはっきりと自覚することが、憔悴した夜神を見て自分がどんな心情を抱くことになるのかを知るのが、怖くてたまらないのだ。それはきっと、史香の人格を根底から覆してしまう――ほんの数ヶ月前までなら、どうだっていい、そんなことで揺らぐものなどないと、一笑に付してしまえただろうに。
 一人鬱々としていると、やがて、夜神夫人が病室から出てきた。彼女は史香には気付かずに行ってしまう。
 さらに日もとっぷりと暮れる頃になると、看護師が病室を回り始めた。面会時間の終わりが近いのだ。月と竜崎にも、一言伝えた方がいいかもしれない。
 史香は腰を上げ、夜神の病室のドアをノックした。
「いい加減にしろ、流河!」
 ドアを開けた瞬間、月の怒声が上がる。
「夜神くんの推理に補足をしただけです」
 どうやらちょうど口論の真っ最中のようで、史香のノックは誰の耳にも届かなかったらしい。病室はそれなりに広い造りをしており、仕切りカーテンもあって、月も竜崎も、ベッドに寝ているはずの夜神の姿も、史香の立つ位置からでは視界に映らない。史香はほっと胸を撫で下ろした。
「キラは悪だ……」
 その途端、夜神のか細い声がして、史香はどきりとしてしまう。
「しかし、悪いのは人を殺せる能力だとも思う。そんな能力を持ってしまった人間は不幸だ。人を殺した上での幸せなど、真の幸せであるはずがない」
 ――不幸。
 史香は息を止めて、夜神の言葉に聞き入っていた。
 竜崎がそれに同意し、死神の月を嘲笑う声が聞こえる。
 だが、月は何も言わない――史香は、月が口を開くのを待っていることを自覚して、愕然となった。そんなことは無理だとわかっているはずなのに、今この場で、月自身の本心からの言葉を聞きたいと願っていたのだ。
 史香は彼らに気付かれないように、黙って病室を出た。
 不幸? 真の幸せ?
 息がうまくできなくなって、史香はたまらず服の襟もとを握る。
 もし、キラが――夜神月が、彼が行っている正義ゆえに不幸であると言うのなら。私は? 彼とよく似た私は、どうなのだろう。夜神が言うように、やはり不幸なのだろうか?

 入れ違いにやって来た看護師が、すれ違う際に少し変な顔をして、史香を見た。