10
「史香ちゃん、今日もいないんですか?」捜査会議の途中に、ぽつりと零したのは松田だった。
ケーキをつつく手を止め、竜崎はそちらに目だけを向けた。
「部屋にいますよ。呼べば来るでしょう」
ところが、竜崎が空いた方の手を備え付けの電話機へと伸ばそうとすると、松田は慌てた様子で止めてくる。
「あっ、いや、そういう意味じゃ……」
彼の制止が届かなかったのでも間に合わなかったのでもないが、竜崎は構わずに受話器を上げた。内線のボタンを押す。呼び出し音が数回鳴った後、
『はい』
短く、応答があった。
声を聞くのも幾日かぶりだった。夜神総一郎が入院してからというもの、史香は会議にも顔を出さず、一人で部屋にこもるばかりだったからだ。
『……もしもし? 竜崎さんですよね?』
「そうです」
抑揚のない声で応じる。竜崎はそう努めずとも、感情を表へ出さずにいられる術を心得ている。
「今からリビングまで来てもらえますか」
『それは……捜査に参加しろってことですか?』
「はい、史香の意見も聞きたいので」
まったく、ひどい言い訳だ。
捜査は大して進展しておらず、新しい証拠も挙がっていない。史香がやって来たところで、プラスになるようなことは一つもなかった。己の嘘のあまりの出来の悪さに嘆息したい気分になりながら、付け加える。
「それに、松田さんが心配していますよ。他の皆さんも」
いつもならここで軽口の一つや二つ叩くだろうに、史香は長く息を吐いただけだった。溜息だったのかもしれない。
『……わかりました。すぐ、行きます』
随分迷っているようではあったものの、結局はそう言って電話は切られた。通話終了音を流す受話口を束の間眺めてから、竜崎は受話器をフックへと置く。
「――やっぱり、局長のことが原因でしょうか」
「ああ、あの時目の前にいたって言うんだから、それがショックだったのかもな」
誰も言い出さないだけで気にかかってはいたのだろう、電話の間に、史香の不在がその場の話題をさらっていた。
……史香の変調の原因。果たして、夜神のことだけが理由になりえるだろうか?
確かに、明らかに様子がおかしいと感じたのは病院で居合わせた時が最初だ。当初の印象とは裏腹に、夜神たちに心を許し始めている様子のあった史香が、その件で意気消沈しているというのは頷ける。
だが、史香が部屋に引きこもって何をしているのかと言うと、ひたすら紙に何か書きつけているのだ。その現物にも目を通したが、内容はキラ事件の考察のようだった。断片的すぎて意味の掴みにくい文章と、繋がりの見えない単語が書き連ねてあるばかりのもの。第三者に盗み見られても問題のないように、わざとそうしてあるのか……
「竜崎!」
竜崎のとめどない思考を、ワタリの声が遮った。彼にしては珍しく若干声を荒らげ、足早にこちらへやって来る。
「どうした、ワタリ」
「大変です。さくらTVを――」
史香は書きかけのメモを手のひらでぐしゃぐしゃに丸め、ゴミ箱に投げ捨てた。
もう何日も同じことを繰り返している。こうして、「未来」の詳細を思い出そうとすること。
けれどその途中で、どうしても我慢できなくなって、放り出してしまう。私は何故こんなことをしているのだろう。思い出して、それからどうするつもりなのか? そう考え始めるとひどく心が乱されて、そこから一歩も先に進めなくなってしまうのだ。
ややあって、史香は立ち上がった。
竜崎から呼び出しを受けたのだから、リビングへ行かなければならない。暗い顔のまま、のろのろと部屋を出て、歩を進める。
「あっ」
と、誰かが勢いよく目の前に飛び出してきて、史香は驚いて声を上げた。ぶつかりそうになったのを避けようとした拍子によろけ、壁に手をつく。そして、顔を上げると――
「宇生田さん……」
ひやりと、嫌な予感が心臓を撫でた。
「ああ、あんたか、悪い」
リビングから駆け出てきた宇生田は、口早に謝罪の言葉を述べた。すべて言い終わらぬうちに、体はもう玄関の方へ向いている。引き止めるように、史香は尋ねた。
「あの、何かあったんですか?」
尋ねながら、いつもの微笑が強張っているのを自覚する。
彼の表情は険しく、尋常でないことが起こったのだとは軽く察しがつく。そして先の展開を知っている――まして、ここ最近何度もその内容を頭の中でなぞっていた史香は、「尋常でないこと」の正体もすでに理解していた。
「すまんが、急いでるんだ。事情は向こうに行きゃわかる」
「宇生田さん!」
思わず叫んだ。しかし宇生田の腕を取ろうとした手は空しく宙をかき、彼は史香を振り返りもせずに外へ出て行ってしまう。その姿は玄関のドアに阻まれて、すぐに見えなくなった。
「待ってください! 宇――」
続けて外の廊下へ走り出そうとした史香だったが、
――引き止めて、どうする?――
ふっと湧いて出た疑問に、手足が鉛のように重たくなった。
宇生田はもう間もなく死ぬ。
だから? 宇生田が死ぬから、何だと言うのだろう。その運命は、とうに知っていたことだ。彼の死はストーリーどおりの出来事で、史香にはまったく関係のない、瑣末なこと。だから史香は傍観者の立場を貫くことを決めていたし、事実、そうしてきた。史香自身の未来を考えるなら、下手に介入すべきではない。
ドアノブにかけようと伸ばしていた手が、だらりと体の脇に垂れ下がった。足はもはや完全に止まっている。宇生田に追いつくことは、もう不可能だろう。
「宇生田さん」
何か異物を呑み込んでしまったように、胸が苦しい。
「今、行ったら……死んじゃいますよ」
ぽつりと漏らした言葉は、誰に届くこともないまま消えてしまった。
――随分と長い間、呆けていたかもしれない。
史香はふと自分を取り戻して、奥へ取って返した。
いつまでもこうしてはいるのは不自然だ。早くリビングへ行かなければ。……史香の恋をいつか成就させる、そのために、変に怪しまれてはならない。それが、それだけが史香の行動原理なのだから。
リビングでは、ソファーの上の竜崎と、その隣に立つ刑事たち三人ともが、固唾を呑んでテレビの画面を見守っていた。
史香がやって来たのに、松田がいち早く気付く。
「あっ、史香ちゃん! 今、大変なことに――」
『さくらTV前に倒れている人物がいるとの情報が入りました!』
松田の声に、アナウンサーの興奮した声が重なった。
画面には、局の正面玄関の様子が映し出されている。そのほぼ中央辺り、ガラス張りになっている入口のすぐ前に、倒れている小柄な背中があった。
つい先ほど、史香が見殺しにした背中が。
相沢がモニターに飛びついた。
「宇生田!? くそっ!」
悪態づいて、すぐさま身を翻す。それを竜崎が引き止めた。
「どこへ行くつもりですか、相沢さん」
「さくらTVだ! 俺が行って放送を止めさせる。テープも回収する」
「駄目です。のこのこ出て行けば殺されます」
すげない物言いに、相沢は顔を真っ赤にして怒鳴る。
「じゃあ何だ、ここで黙って見てろって言うのか!?」
史香は二人の衝突に口を挟まなかった。宇生田が飛び出して行って、まだ三十分も経っていないだろう。
「相沢さん、わかってください。宇生田さんが死に、これでもし相沢さんまで殺されてしまったら……」
竜崎の、膝を抱える手が震えている。それを見てようやく、激昂していた相沢も頭が冷えたようだった。
タイミングを計っていたのだろうか、史香と同じくその諍いを遠巻きにしていた松田が、史香にそっと囁きかけた。
「大丈夫? 史香ちゃん」
「……え?」
視線を上げると、松田は心配そうに眉を曇らせている。
「顔色が悪いよ。真っ青だ」
「私は、大丈夫です……大丈夫」
史香は松田から顔を背けて、言った。そうだ、私は動揺などしていないし、してはいけないのだ。
「本当? あまり無理はしない方が……」
「あの」
松田を遮って、大きな声を上げる。松田に向けてではなく、この部屋にいる全員に向けて。
「どうしました? 史香」
竜崎が応えた。
「姿を見せないように、あの場に向かうことはできませんか?」
……どうしてこんなことを言い出しているのか、史香自身にもよくわからなかった。宇生田はすでに死んでいる。この後は、夜神が警察車両でさくらTVに突入し、弥の送ったテープを回収してここへ戻ってくるはずだ。今さら史香がヒントを与えても、どうにもならない。ただ――宇生田の死を目の当たりにして必死になる相沢を、自身も青い顔をしながらこちらを心配してくる松田を、そして竜崎の後ろ姿を見て、口にせずにはいられなかったのだ。
相沢と松田が、ハッとなって頷き合った。
「なるほど、そうか!」
「何か顔を隠せるものがあれば――竜崎!」
竜崎は親指をくわえて、思案する。
「いい案ですね。キラが局内にいるとしたら、危険な賭けではありますが」
しかし、竜崎が何らかの指示を出す前に、
『――あっ! と、突入です!』
「な、何だ!?」
TV画面の中、すさまじい騒音が聞こえてきそうな勢いで、夜神が運転しているのだろう護送車がTV局内へ突っ込んでいった。
それからは、目まぐるしかった。
護送車でさくらTVに突入したのは、入院中のはずの夜神総一郎だった。竜崎は北村次長と連絡を取り、TV局一帯の道路を封鎖、機動隊を出動させ、局前にバリケードを作り夜神を脱出させる。
そうして夜神はビデオテープを押収し、竜崎たちのところへ無事戻って来た。
疲弊しきった夜神を休ませ、押収した物品を鑑識へ回す手配を済ませた頃には、夜更けになっていた。
「それでは、私はこのコピーのテープで内容を確認します」
「……あ」
竜崎がちょうどすべての指示を出し終えた時に、松田が何かを見つけたような声を上げた。
「何ですか?」
「史香ちゃん、眠っちゃってますね」
「ああ……」
見ると、ソファーにかけた史香が、背もたれに頭を預けて寝息を立てている。
あまりに蒼白な顔色をしていたので、手伝うと言い張ってなかなか自室に戻らないでいたのを、皆で言い聞かせてここで休ませていたのだった。
「緊張の糸が切れたのでしょう。最近はあまり眠れていなかったようですし」
竜崎が言うと、松田はぎょっとした顔になった。隣の相沢に耳打ちする。
「まさか竜崎、史香ちゃんの部屋も監視してるなんてことないですよね……?」
「……ないと言い切れないのが痛いな」
丸聞こえだ。
竜崎はじろっと二人の方を見上げた。
「相沢さん、鑑識の方はお任せします」
「あ、はい、わかりました」
「えっと、じゃあ僕は史香ちゃんを部屋に」
「いえ、結構です」
咄嗟に断る。
……我がことながら、少々驚いてしまうくらいには、きつい言い方になってしまった。松田は呆気に取られたようにこちらを見ている。ちょっと考えてから、竜崎は付け足した。
「起こすといけませんから」
「あー、そっ、そうですね! じゃ、僕は向こうに行ってますから!」
松田は妙な笑顔で、頭をかきながら出て行った。
何だ……? 松田の引っかかる言動に、僅かに眉根が寄る。竜崎は声にして問いかける代わりに、突っ立ったままの相沢に視線を移した。
「わ、私も失礼します」
が、相沢も逃げるように退出してしまう。
一体何だと言うのだろうか。頭を捻っても答えが見つからないので、仕方なく竜崎はビデオの方へ移ることにした。
ビデオの内容は、なかなか興味深いものだった。ここのところ停滞ぎみだった捜査だが、うまくやれば状況は大きく前進するだろう。あらかた目を通し終わると、すでに数時間が経過していた。
その頃になって、史香が起き出した気配がした。
振り向くと、眠たそうに眼をこすりながら辺りを見回している。しばらくそうした後で、史香はようやく竜崎の方に目をとめた。
「……竜崎さんだけですか? 他の皆さんは?」
「ここにはいません。それぞれで動いてもらっています」
「そうですか」
頷いた史香は少し顔を伏せ、それきり黙った。
竜崎はソファーから降りて史香の前に立つと、丸めている己の背をさらに曲げてその顔を覗き込んだ。史香はちらと竜崎を見たが、すぐにまた俯いてしまう。
「まだ顔色が優れませんね」
手を伸ばして、頬に軽く触れてみた。伝わった温度は、色の失せた様子に反して存外あたたかかい。史香はやはり何も言わず、身を引きもしなかった。
彼女に聞きたいことは様々にある。
この数日、何をしていたのか? 何故沈んでいたのか? 何を知っているのか? そして……
ほんの数秒間ほどの吟味の末に、竜崎はこう口にした。
「あなたは、何をそんなに怖がっているんですか?」
「私は……」
言いかけて、口をつぐむ。そうやって何度も躊躇った末に、史香は恐る恐るといった様子で切り出した。
「皆さんに……竜崎さんに……死んでほしくなんか、ないんです」
「…………」
――やはり史香は、この先の未来を知っている。
だったら、吐かせればいいのだ。いつか彼女自身に忠告したことがあるように、多少強情な性格の史香だが、このくらいの年頃の少女を屈服させるやり方などいくらでもある。そして竜崎は、事件を解決するためなら手段を選ばないことも必要だと思っている。
けれどそうしないのは――確証がまだ見つけられないからだろうか。史香のことだ、口先で逃げられる可能性も十分にある。それとも己の性格上、ただ解答を与えられるのではなく、自らの手でそこまで辿り着き、キラを打ち破りたいと思っているから――いや、違う。どんな理屈を上塗りしたところで、それがごまかしにしか過ぎないことを、自分でも薄々感じ始めている。
竜崎は、膝の上に置かれた彼女の手を握った。
「私は死にません。そしてもう誰も、殺させません」
史香は少しの間、目を細めるようにして竜崎を見やる。それから、額を竜崎の肩に押し付けて、呟いた。
「嘘ばっかり」
二人の間に、長い沈黙が横たわる。
やがて、史香から口を開いた。
「……しばらく、私に行動の自由を与えてもらえませんか」
「何をするつもりですか?」
「私は決して竜崎さんを――竜崎さんの、不利になるようなことはしません」
史香は顔を上げ、竜崎を見上げる。
「お願いします。少しの間だけでいいんです。半年――いえ、三ヶ月、その間だけ、私を信じてもらえませんか、竜崎さん」
「――史香」
史香があまりにも思い詰めた顔をするので、竜崎は史香をまじまじと見返しながら言った。
「いつもの傍若無人ぶりはどうしたんですか」
途端に史香はむっと膨れる。
「失礼な。私は本当は、とっても慎ましい女の子なんですよ」
「……そうは見えませんが」
「竜崎さん以外には、そうなんです!」
「そうですか。それは嬉しいですね」
「はあ?」
自分の言ったことがどう取れるかよく理解していない史香は、訝りながら眉を顰める。竜崎も、そういう反応が返ってくるのをわかった上で告げてはいるのだが。
「だから、あなたはわがままでいいんですよ」
竜崎の言葉を、史香は嘘だと言った。それは竜崎の推測を裏付けるものだったが、おそらく、史香がその仔細を打ち明けてくることはないのだろう。それならそれでいい、と竜崎は思う。
キラとの対決の先にあるのものが竜崎の死だと言うのなら、回避し、その上で勝つだけだ。史香がすべてを語らなくても、その言動からどんな小さな手がかりでも拾い上げて、真相を得る。それこそ、己の得意とするところではないか。
竜崎は、握っている手にぎゅっと力を込めた。
「それに、まだ疑っていたんですか? 最初に言ったでしょう。あなたを信じますと」
だから史香がこのままを望むなら、そのとおりにしてやろう。
どうやら理屈ではもう説明しきれないほどに、竜崎ははこの少女に心を渡してしまっているようだから。少なくとも、そのわがままを叶えてやりたいと思うくらいには。
こうして振り回し振り回されるのが、楽しいのだ。
「……竜崎さん」
史香は、ずっと目を逸らしてきたものそのものを、ずばりと眼前に突き付けられたような気がした。
死に至らせるという形で誰かを愛したいとあれほど切望していて、そして一度はやり遂げておいて、なのに今では人の死を厭っている。誰かの死は、心地よい感情だけをもたらすものではなかったと知ってしまったから。
それはとんでもない矛盾だ。
人格も価値観も人生も、史香の築いてきたすべてを突き崩してしまう不整合。だからきっと無意識に閉じ込めて、ずっと気付かないままでいたのに、とうとう完全に蓋が開いてしまった。
いまだ自分の手に重ねられている竜崎の手を、史香は見つめた。
あの、心がからっぽになるような喪失感。それを覚えている限り、史香はもう誰の命も奪えないのかもしれない。
でも、そんなの今さらだ。今さら、ふつうの恋愛など求められるはずがなかった。それは彼へのひどい裏切りのように史香には思えるし、何より、もはや己を構築するすべてとなっているものを否定することなどできない。
けれど、竜崎は史香を信じると言った。
以前にも貰ったその言葉は、今はまったく違う響きを伴って史香の耳に届いた。
手から伝わる体温、微かにする甘い菓子の匂い、それらのすべてが、史香に決意させる。
「私……これから、好き勝手に動き回ります。その間、私に干渉してほしくありません。私がどんなに奇異で不審な行動を取ったとしても、全部見逃してください」
「――わかりました。そうしましょう」
我ながら随分無茶なことを言っていると思ったが、竜崎は、彼自身の発言を証明するように難なく頷いた。そのことに、史香は言い表しようのない感動を覚える。
「ありがとうございます……」
竜崎の、彼らの死を防ぎたい。そこに理由なんて、必要ない。そうだ、もともと史香のあの衝動にだって正しい理由は見つけられていないのだから、そんなもの繕おうとしていたのが間違いだったのだ。
ただし――この気持ちは、恋とは別のところにあるもの。
それだけは線引きしておかないと、きっと動けなくなって、何もできなくなってしまう。宇生田の時のように。
不幸だろうが何だろうが、もう突き通すしかない。この世界で、恋を求めて生きると決めた。史香の目的は、誰かを「愛する」こと……その誰かは、竜崎では決してありえない、あってはならないのだけれど、それでも。
「私は、竜崎さんに生きていてほしいんです」
でも、もし――と史香は考える。もしどうしても、その死が避けられないというのなら――死神にも弥海砂にも、夜神月にも、他の誰にだって、その権利は渡さない。
時同じくしてそれぞれの心を決めた二人は、抱き合うほどの距離にいながらもやはり互いに平行線を辿っていることには、とうとう気付かなかった。