11
刑事たちの視線が、ちらちらと史香に向けられている。「――では、夜神月くんに捜査協力してもらうという方向で行きましょう」
「ああ、息子には私から連絡しよう」
竜崎が会議の結論を締め、夜神が携帯電話を手にする。
その時になってようやく、ずっともの言いたげだった一人、松田が問いかけてきた。
「あのさ、史香ちゃん。さっきから、何食べてるの?」
史香は答えなかった。
無視したのではなく、咀嚼中だったために口を開けなかったのだ。しかし特に慌てることなくのんびり飲み込んで、さらに次の獲物にフォークを突き刺してから、答える。
「ご覧のとおり、リンゴです」
「うん……それはわかるけど、何で、リンゴ? しかもこんなに」
松田が指し示す先には、籠いっぱいに盛られたリンゴがある。史香が食べているのは、さすがにそのまま丸ごとではなく、そのうちの一つを皿の上に切り並べたものだ。ちなみに、ワタリに切ってもらった(ウサギの形に)。
「だって、死神はリンゴしか食べないらしいじゃないですか? だから、死神の気持ちでも理解してみようかなあって」
「そ、そう……」
史香のとぼけた返事に、松田は言葉もない。相沢や、月への電話を終えた夜神も、呆気に取られた顔をしている。
「死神がどうとかより、ただ単に、史香が食べたいだけでしょう」
二の句が継げない松田に代わってそう言ったのは、竜崎だ。あの妙な手つきでティーカップを持ち上げ、砂糖濃度が通常の何倍もあろう紅茶に口をつける。
史香はムッとした。
「そんな、私が食いしんぼうみたいな言い方はやめてください」
「みたいではなく、そのとおりですよ」
「……竜崎さんだって、いつも何か食べているくせに」
「今は紅茶だけです。史香とは違います」
反撃に出てみた史香だったが、さらりと流されてしまった。現状については事実なので、ぐうの音も出ない。眉根を寄せながらも、リンゴを口に運ぶ作業を再開する。
と、二人の言い合いを眺めていた松田が、笑顔を浮かべた。
「史香ちゃん、完全に復活したみたいだね」
言われて、史香はきょとんとする。
竜崎は松田を一瞥し、それから史香を見やった。
「……ほら、松田さんにすら呆れられているじゃないですか」
「松田さん……ヒドイです」
竜崎の言に乗っかって、肩を落とす史香。
松田はあたふたと椅子から立ち上がった。
「そっ、そういう意味で言ったわけじゃ……って、竜崎! 『すら』って何ですか? 松田さんにすらって」
「他意はありません」
非難がましい視線を送る松田にも、竜崎はしれっとしている。空になったカップをソーサーに置くと、ポットから新しい紅茶を注ぎながら顔も上げずに言った。
「そんなことより、松田さん。そろそろロビーに下りて月くんの到着を待っていてください」
「そんなこと……」
松田はしばらく憮然として立ち尽くしていたが、やがて観念したのか深い深い溜息をひとつ零すと、大人しく部屋を出て行った。松田がいなくなると、部屋の中は途端に静かになる。
「二人とも――」
しかめっ面の相沢が、ゴホンと咳払いをした。
「あまり、松田で遊ばないでくれ」
「ごめんなさい。打てば響くものですから、つい」
史香は謝ったが、にこにこしてちっとも悪びれていない。
いつもどおり無表情の竜崎は、紅茶をすすって言った。
「別に、遊んでいませんよ、私は」
「あ、竜崎さんってば……自分だけ逃げて、ずるいです」
「逃げていません。本当のことです」
史香と竜崎の応酬が始まると、相沢は無言で引き下がった。それ以上の抗議は諦めてしまったようだ。
どこまでも苦労性の夜神は、その場のやりとりには一切口を挟まず、頭を抱えるようにずっと額を押さえていた。
松田が夜神月を伴って部屋に戻って来たのは、それからほどなくしてだった。
「夜神くん、ありがとうございます」
「いや。僕も、キラを捕まえたい思いは一緒だよ。流河」
迎え入れる竜崎に、爽やかに応じる月。好青年モードだ。
「ここでは、私のことは竜崎と呼んでください」
竜崎がそう告げると、月はちょっと眉を動かした。史香に目をやる。
「……『竜崎』?」
まだリンゴをむしゃむしゃやっていた史香は、その視線にあえて気付かない振りをした。月の背後で、死神が指をくわえたことにも。
月の小さな困惑をよそに、刑事たちが口々にそれぞれの偽名を名乗る。
「それじゃ、僕は朝日月ってことかな。でも……竜崎さん?」
問いかけは、竜崎ではなく史香に向けられたものだ。
ちょうどよくウサギのリンゴをすべてたいらげた史香は、月に向かって微笑んだ。
「私のことは史香で結構ですよ。皆さん、そう呼ばれていますので」
その名字は大学に通うために便宜上決めたものなんです、と続けると、月はさらに怪訝そうな顔つきになった。しかし、月が重ねて尋ねてくる前に、竜崎が話を遮った。
「早速ですが、月くんに見てもらいたいものがあります」
「ああ……」
先導する竜崎の後に、月が従う。二人が行ってしまう前にと、史香は声をかけた。
「竜崎さん。私、もう自分の部屋に戻ってもいいですか?」
「構いませんよ」
振り向かず、竜崎は即答した。理由も聞かれない。あの日の約束どおり、本当に史香の好きにさせてくれるつもりらしい。
「……ありがとうございます」
ほんの少し声を落として、史香は言った。そして、リンゴの籠を胸に抱える。
「それじゃ、失礼しますね」
刑事たちに断り、踵を返した。胸元のリンゴへと注がれる死神の視線を、ひしひしと感じながら。
ものは試しだ。
夜神月は史香がリュークを釣るための策としてリンゴを用意していたとは、よもや考えもしまい。……策と呼ぶには、安直すぎることでもあるし。
自分でも、単純でお粗末なアイディアだということは十分に承知している。さすがに、リンゴをちらつかせたくらいで事がうまく運ぶことはないだろう。けれども、時間には限りがある。決定的な手を思いつけない今は、少しでも可能性のある手段を片っぱしから試していくしかない。
ところが――結論から言うと、史香の予想は外れた。
自室に引っ込んでから数時間、日も暮れた頃になって、白い壁から黒い影が頭を出したのだ。
史香はあまりのことに息を呑んだ。
夜神月は今、第二のキラへのメッセージを書いている頃合いか? いや、もうテレビ放映まで段取りが進んでいるかもしれない。とにかく、たまたま手持ち無沙汰になったリュークが気まぐれを起こして、史香の狙いどおりにここへやって来てくれた。
壁をすり抜けて現れたリュークは、史香には目もくれなかった。サイドテーブルに置きっぱなしだったリンゴの籠に、もの欲しそうに顔を近付けている。
鼓動が速まる。自ら蒔いた種ではあるが、まず失敗するに違いないと断じていたし、それを抜きにしてもどうしたって緊張は募る。口から心臓が飛び出してしまいそうだなんて、こんな気分は久しく味わったことがなかった。
史香は動揺をせいいっぱい抑えつけると、
「こんにちは、リュークさん」
と、にこやかに挨拶した。リュークが振り返る。
「ああ。なあ、このリンゴ、食ってもいいか?」
「…………」
……あれ?
そんな声こそ上げなかったものの、史香は目をぱちくりとさせてリュークを見つめた。どういうわけだか、リュークは平然と史香に応えてみせたのだ。
拍子抜けだった。今のはこの死神の興味を引くための、シンプルながらもパンチの効いた演出のつもりだったのに。まさか、史香に己が見えているということを、リュークはすでに知っていたのだろうか。
「ええっと……おかしいなあ。あの、驚かないんですね?」
史香は首を捻りつつ、かけていた椅子の背にもたれかかった。緊張の糸が切れたのか、途端に気が抜けてしまった。あんなにうろたえてしまっていた自分が、馬鹿みたいだ。
死神は、ククッと不気味に笑う。
「いや? 十分驚いてるぜ。人間に紛れている死神なんて、初めて見たからな。なあ、それより、リンゴ――」
「待ってください」
片手を上げて、史香は死神の言葉を遮った。
「……今、何て?」
「リンゴ」
「その前です!」
ふざけた返答に噛みついて、再度、強い口調で問う。
「誰が、死神ですって?」
「そりゃ……」
リュークの、奇妙に歪んだ輪郭を持つ指が、史香を示す。
史香は椅子に座り直し、ぴんと背筋を伸ばした。
「生憎ですが、私は人間以外に生まれついた覚えはありません」
「そうなのか? でも、寿命が……」
「寿命?」
史香が聞き返すと、死神は黙ってしまった。裂けた口の両端が吊り上がっているが、それが史香を嘲笑っている故なのか、もともとの顔かたちなのか、判別がつかない。
寿命――名前、ではなく? 寿命が、何だ?
史香は頭をフル回転させる。死神と人間とを区別するもの。
「寿命が――」
閃いた。
「見えないんですね? 私の寿命が!」
思わず手を打って、立ち上がる。
史香の突然の動作に驚いたのかリュークは一瞬ビクッとなったが、すぐに元の――感情の読み取りにくい顔に戻った。
「ああ、そうだ。死神同士は相手の寿命が見えないだろ。な、それで、リンゴを……」
まだ何か言ってくるリュークを完全に無視して、史香は考え込んだ。
もはやリュークなどを相手にしているどころではなかった。この事実は夜神月に対して、史香が未来を知っていることに加え、大きなアドバンテージにはなりえないだろうか?
死神の目には、史香の寿命が見えない。「死神同士は相手の寿命が見えない」? デスノートを持っている人間だって、寿命は見えない。いや……それは、死神の目を持った人間からは見えないというだけで、死神からは寿命が見えたはず。それは、どういう理由からだった? 死神が寿命を見ることができない人間とは?
そもそも、妙なのはそれだけではない。夜神月が持っているデスノートに触れていないのに、史香にリュークの姿が見えることだっておかしいのだ。デスノートの数々のルールからの逸脱。それは、史香が――
「私が……この世界の人間じゃないから?」
「ふーん。おまえ、そうなのか」
死神の呟きに、史香ははっと我に返った。知らず、考えたことを口に出してしまっていた。
そんな史香を見下ろして、リュークはくぐもった笑い声を上げる。
「それで、寿命が見えないんだな」
「……やっぱり、驚かないんですね」
「だから、驚いてるって。でも、人間界と死神界があるんだから、他に別の世界があっても不思議じゃないよな」
果たして、そういう問題だろうか。
リュークの反応はいやに淡々としている。興味のある事柄――今のところは、夜神月と竜崎の勝負の行く末か――以外は、心底どうでもいいのだろう。リュークは背を丸めて、史香に顔を寄せた。
「で、リンゴは……」
……史香の存在は、リンゴ以下らしい。
まあ、いい。とりあえず、この死神の関心をなるべく得ておくという当初の目的は、達成できたわけだ。こんなにあっさり果たされるとはまったくの想定外だったが、幸先がいいと前向きに受け止めることにしよう。
史香は浅く息を吐いて、言った。
「わかりました」
籠から一つリンゴを取り、リュークに差し出す。
「このリンゴは、リュークさんに差し上げましょう」
「ウホッ!」
「――ただし」
嬉々としてリンゴへと伸ばされたリュークの手を、史香はひょいとかわした。
「お、おい……くれるんじゃないのか」
死神のくせに情けない声を上げるリュークに、にっこりしてみせる。
「今日あったこと、夜神月には内緒です。私というイレギュラーな存在のことも。できますか?」
「…………」
リュークは沈黙した。頭を傾けて、史香を見返す。
「おまえ、やっぱりわかってたんだな。俺が誰に憑いているのか」
しまった――今のは、失言だった。夜神月がキラであるという事実を知っていることを、自らばらしてしまった。
史香は内心冷や汗をかいたが、表情には出さなかった。泰然と微笑む。
「だからって、あなたの楽しみの邪魔をするつもりはありませんよ。それで、どうなんです、この条件は?」
「ああ。……いいぜ」
黒い死神は、今度は史香にもわかるほどはっきりと、裂けた唇で笑みを形作った。
「それも面白そうだ。俺は、ライトの味方ってわけじゃないしな」
「私の存在を婉曲に教えたり――例えば、私がいる時に笑い声を増やすのも禁止です」
「わかった、わかった。おまえのことをライトに教えないし、ライトがおまえに注目するような行動は取らない。これでいいだろ? なあ、早くリンゴくれよリンゴ」
リュークはとうとう変に体を捻り出した。史香の念押しも、軽い調子で受け入れる。
ここに来て、史香は少し不安になった。けれど、もう後戻りはできない。今この場でできる、思いつく限りの最善の手は打った。リンゴを渡せば、これで取引成立だ。
ほんの幾秒かの逡巡の後に史香の手から放られたリンゴは、放物線を描いて死神の口の中に収まった。
リンゴを食べて満足した死神は、部屋からすぐに姿を消してしまい、夜も更けると、夜神月と一緒に帰っていった。こうして過ぎ去ってみると、夢の中で起こった出来事のようでもある。……何だか、ひどく疲れてしまった。
深夜、史香は自室を出て、キッチンへ向かった。
考えることがありすぎて、常ならば就寝している時刻をとうに過ぎているというのに、ちっとも眠れない。水でも飲めば、少しは落ち着けるかもしれなかった。
途中、リビングを横切る。
この時間、ましてや第二のキラの出方待ちという状況では、刑事たちも誰も残っていない。――と、史香は「ひえっ」とすっとんきょうな声を上げてしまった。
暗がりの中、ぼんやりと白いものが浮かび上がっている。
けれども、よくよく目を凝らして見ると、それはトレーナーの色だった。明かりの消えたリビングで、竜崎がいつものソファーに座っていたのだ。
「りゅ、竜崎さん……?」
おずおず呼びかけたが、返事はない。
いや――耳を澄ますと、規則正しい呼吸音が聞こえてくるではないか。まさか、眠っているのだろうか? ここで。一人がけのソファーの上で膝を抱えた、こんな窮屈そうな格好で。
史香はつい服をはたいて、持ちもしない携帯電話を探してしまった。
……惜しい。もし携帯があったなら、写真に撮って明日みんなで笑いものにするのになあ。悔しがったが、しかし、ないものはないのだから諦めるよりほかない。そこで、仏のように心優しい史香は、親切にも竜崎を起こしてあげることにした。
「竜崎さん、竜崎さん」
側に近寄って、声をかけてみる。
竜崎は目を覚まさなかった。明かりも消されているし、これはうたた寝ではなく、部屋に戻るのを面倒がった結果なのかもしれない。普段から徹夜してばかりの竜崎だが(そういえばこちらに来て半年になろうかというのに、一度も寝姿を見たことがない)、一旦眠りに陥ってしまうととても深い性質だったりするのだろうか。
史香はちょっと思い立って、竜崎の正面に回ってみた。屈んで、寝顔を覗き込んでみる。ああ、やっぱり、カメラが欲しかったな。惜しみつつ、頬をつっつく。
途端に、ぱちりと竜崎の目が開いた。
「あ」
びっくりして引っ込め損ねた手を、竜崎に掴まれる。
竜崎はまるで見たこともないものの正体を確かめているかのように、自分が掴んでいる史香の手をしげしげ眺めた。しばらくそうした後に、少しかすれた声で「史香」と名を呼んで、こちらに視線を移す。
「何をしてるんですか……」
「まだ、何も。もう少し待ってくれていたら、いろいろできたんですけどね」
「…………」
立ち上がる史香を仰ぐ竜崎は、心なしかぼんやりしている。
史香は構わずに続けた。
「ちゃんとベッドで寝ないと、この季節じゃ風邪は引かないでしょうが、見た人の心臓に悪いと思うんです」
もし見つけたのが史香ではなく夜神だったら、再入院ものだ。
せめてこっちの長椅子にしてください、と竜崎に掴まれたままの手を引っ張る。
「わかりました」
意外にしっかりした受け答えをして、竜崎はソファーから降りた。そして、史香が示した方のソファーにごろりと転がる。史香の手を掴んだままで。
「ちょっ、竜崎さ――痛っ」
抵抗する間もなく倒れ込んだ史香は、肘かけに頭をぶつけて悶えた。しかも、竜崎が史香の上に乗っかっているために、身をよじることもままならない。
「竜崎さん、何してくれるんです……って、」
抗議の言葉を言いさして、瞬く。竜崎は、もう寝息を立てていた。
「最悪だ……」
ぶつけた頭は痛いし、覆い被さっている竜崎は重いし、ソファーは三人がけのものとは言え二人で横たわるには狭苦しいし、こんなことなら、仏心など出すのではなかった。
とりあえず竜崎の下から這い出そうとしても、なかなか叶わない。竜崎の身体を押し返そうにも、ひょろりとした体型に見えて、トレーナーの下の胸板は案外厚く、びくともしなかった。
長時間の苦闘の末、何とか上半身だけは脱出することに成功したが、その頃には、史香は精も根も尽き果ててしまっていた。おまけに、いつの間にやら、史香の腰には竜崎の腕ががっしりと巻きついている。これ以上抜け出すことはできなそうだ。
「竜崎さん、放してくださいったら」
遠慮なしに頭をぺんぺん叩いても、竜崎は一向に起き出す気配がない。
億劫な気持ちで、史香は溜息を漏らした。まったく、こんな夜中に無駄な体力を使わせないでほしい。
「まあ……膝枕くらいなら、勘弁してあげます」
腰にしがみつかれているようなこの体勢をそう呼んでいいものかどうか、わからないけれども。
朝を迎えてもこのままだったらと思うと、いささか憂鬱になる。この姿を見られたら、松田は騒ぐだろうし、相沢は怒るだろうし、夜神は今までよりももっと憔悴した顔を見せるだろう。そして、ワタリは……史香は思い巡らせたが、想像もつかなかった。もっとも、先の捜査会議で彼はこのホテルに出入りしないことになったから、あり得ない仮定だが。
「……何とかワイセツ罪で捕まっちゃっても、知りませんからね」
悪態をひとつ。
仕方なくここで夜を越すことを決めた史香は、肘かけに寄りかかって目を閉じた。