13
住宅地の路肩に駐車されている自動車に近寄ると、史香はスモークガラスの窓を手の甲でノックした。するすると窓ガラスが下りていき、暗い車内から、運転席に座るいかつい男の顔が覗く。模木である。
「お疲れ様です。ここ、開けてもらっていいですか?」
「はい」
ドアロックの外れた音を聞いてから、助手席に乗り込む。
「無理を言ってすみませんでした、模地さん」
「いえ……」
「――あ、これ差し入れです。どうぞ」
史香は手にしたコンビニの袋から、アンパンと牛乳を取り出した。
「刑事の張り込みには必須かと」
力強く告げた史香に、模木は沈黙で答えた。もともとの寡黙な質によるものか、それとも返答に窮しているのか、どちらなのだろうか。根気強く待っていると、彼はようやく重い口を開いた。
「……せっかくですが、自分は甘いものはあまり」
「そうでしたか。邪道かとも思いましたが、カレーパンも買っておきましたので、安心してください」
「…………」
模木は何とも言えない顔をして、差し出されたパンを受け取った。
アンパンの袋を開けながら、史香は尋ねた。
「ところで、朝日さん――ああ、もちろん息子さんの方ですけど、今はご自宅に?」
「ええ、それは確認しました。しかし……」
フロントガラス越しに、模木は通りの向こうを見つめた。夜も更けており、光源はぼんやりした街灯と家々の窓から漏れる僅かな灯りだけで、見通しはよくない。
「少し遠すぎませんか。ここからだと、家人の出入りが確認しにくいと思うのですが」
「それについては、大丈夫です。気にしないでください」
月には常に死神が憑いている。仮に月を見逃すことはあっても、翼を広げ宙に浮いて移動する死神の姿を見逃すことはあるまい。むしろ、死神にこちらの存在を悟られないよう、慎重に距離を取っておかなければならなかった。リュークはどうするかわからないが、レムは尾行に気付けば必ずそれを夜神月に告げるだろう。何しろ弥海砂の命がかかっているのだから。
「そんなことより、朝までここに車を停めておいても平気でしょうか?」
「……念の為、必要な根回しはしてあります」
「それはそれは。さすが模地さんですね」
アンパンをたいらげた史香は、座席の背もたれを倒した。模木が怪訝そうに史香を見やる。
「じゃあ、私、少し仮眠を取りますので、三時間経ったら起こしてください」
「はあ……」
腑に落ちないというふうに頷く模木。
それはそうだろう。今日一日の夜神月の見張りを終えて警察庁捜査本部に戻ってきた模木に、「確かめたいことがある」と言って車を出させたのは史香だ。
けれども、夜神月が動き出すのは明け方のこと。レムが空を飛んでやって来て、彼の部屋の壁をくぐり抜けていったのはすでに確認した。堪え性のない史香に、無駄とわかっていてもあえて長時間の見張りを行うような根性があるはずがなかった。自覚はしている。
ただ、時間ギリギリを計って尾行するのは危険だし、月が史香の知識と異なる行動を取らないとも限らない。そこで一応の用心として、史香の代わりに明け方まで見張りをしてもらうために模木を連れ出したのだ。足が必要だったという理由も、もちろんあるが。
もの言いたげな模木の視線は気にせずに、史香はゆっくり睡眠を取った。そして三時間後に起き出して、模木に仮眠を勧めた。
「今度は私が見張ってますから、模地さんは寝ていてもいいですよ」
「……いえ、自分は起きています」
「そうですか? 模地さんがいいなら、それでも構いませんけど」
模木が起きていたところで困ることはない。
二人で見張りを続けていると、一時間ほど経って、死神が夜神家から出て来たのが見えた。夜明けの薄暗い中でも、黒と白の死神二体はよく目立つ。
「出てきましたね」
「ええ……よく、気が付きましたね」
模木の感心したような口ぶりに、史香は苦笑した。死神がいなければ、おそらく見落としていただろう。模木の方は史香に指摘される前に見咎めていたようで、やはり竜崎が認めるほどに優秀だ。
月が向こうの角を曲がるのを待つ。彼の姿が視界から消えても、死神のやたら大きな翼は見えているので問題はない。ふと、史香は模木に聞いてみた。
「こんな時間に出かけるなんてこと、今までにもあったんですか?」
「早朝にジョギングすることは、時々。今日は少し早いようですが」
……このための布石をすでに打ってあったとは。さすが、ぬかりない。
模木が、車のハンドルに手を置く。
「追いますか?」
「いえ――」
史香はかぶりを振った。車ではバレる。
「私が行ってきます。模地さんはここで待っていてください。たぶん後で迎えに来てもらうことになると思うので、携帯の電源は入れておいてくださいね」
それだけ言って、車を降りた。
遠くに見える死神の姿を頼りに、史香は迷いのない足どりで夜神月の後を追う。地図を購入して、この辺りの地理は頭に入れている。尾行はそう難しくなかった。
時刻は朝の四時。家族が起き出す頃には帰宅するつもりのはず。監視カメラなどに映るのは極力避けたいだろうから、公共の交通機関を使うとは考えにくい。夜神月の家から徒歩で一、二時間ほどの距離。この都会で人気のない森か山の中、かつ軽装で行けるような場所。いくつか当たりはつけてある。
彼らの目的地が史香の考えた候補のうちの一つである、という確証が持てる地点に差しかかると、史香は尾行を止めて公衆電話から模木に連絡した。
最終地点に辿りつくまで後をつける必要はなかった。夜神月にノートを託されたレムが飛び立つ様は、離れていた方が見つけやすい。――事実、そのとおりだった。
次の日から、山中のおそらくレムが飛び立ったと思われる辺りで、史香は木の根元をひたすら手当たり次第に掘って掘って掘りまくった。夜神月が埋めたデスノートを手に入れるためだ。
史香自身も呆れるほど体当たり的な手段だが、それなりの根拠はある。
漫画の中では具体的な地理の描写はなかったと記憶しているが――まず、デスノートの在り処は口頭のみで伝えることができる、すなわち目立つもしくは単純な目印がある場所だ。そして、小柄な体格の弥海砂が、園芸用の小さなスコップで苦労なく掘り起こせる程度の深さに埋められている。これらのことから考えて――
時間と労力さえかければ、必ず見つかる。史香はそう踏んだのだ。
「はぁ……暑い……」
とは言え、言うほど簡単なことではなかった。
「どうして私がこんな肉体労働を……」
知力では未来既知の底上げを以てしても敵わないのだから、自然と別の面で補うことになる。
六月頭から七月半ばまで、梅雨は挟むわ梅雨明けからは猛暑が始まるわ、この世界に来てからは高級ホテルのスイートでごろごろするだけだった史香には、地獄のような苦しみだった。
それもこれも夜神月のせいだ。まったく、あの男は、何だってこんな厄介な場所にデスノートを隠したりするのか。
「夜神月、許すまじ!」
八つ当たりの気持ちを込めて、穴を掘る。
……まあ、今頃は夜神月も苦行を強いられているのだが。監禁から一ヶ月以上が経過している。
捜査本部でちらりと耳にしたところ、ヨツバキラ火口はすでに活動を開始しているようだ。となると、史香の穴掘りもそろそろ中断しなければならない。竜崎は今は夜神月と弥海砂にかかりきりだし、刑事たちには「夜神さんたちや同じ年頃の女の子がこんな目に遭っているのを見るのは辛くて……」としおらしい態度でごまかしてみたが、三人が解放されたなら、あまりホテルを離れているのはよくないだろう。
本当ならそれまでにデスノートを掘り当てるのが一番なのだが、仕方がない。彼らの監禁が解かれたら外出の回数は抑えるようにして、最悪、レムが弥海砂に接触するまでに――
ガツン!と、スコップが何かにぶつかって高い音を奏でた。
「…………」
もちろん、木の根っこや大きな石ということもある。今日まで何度もぬか喜びをしてきた。けれど、この手ごたえがアタリかハズレかを確かめるにはとりあえずすべて掘り起こしてみなくてはならず、これがまた結構な手間なのだった。
史香は気力を振り絞るために、毎度恒例となっているかけ声を上げた。
「やーがーみぃー……らいとおぉ!」
ぐっとスコップを突き刺し、土をかき出す。やがて……
捜査本部に、史香が戻ってきた。
「ただいま戻りました」
「あっ、史香ちゃん。ちょうどよかった。今、連絡しようと思ってたんだ。月くんとミサミサが……」
史香に駆け寄る松田を見送りつつ、竜崎はおやと思った。まだ日も高い時間帯だ。
この二ヶ月近く、史香は朝早くにホテルを出ては日が暮れてから戻ってくるという生活を続けていた。約束したとおり監視もせずに好きにさせていたのだが、彼女の方にも、何か変化が起きたのだろうか。夜神月と弥海砂がとりあえずの身の潔白を示し、長らくの監禁生活から解かれたように。
松田による理路整然とは言い難い説明を聞き終えてから、史香は夜神月と弥に目を向けた。二人とも先頃ここに戻り、身なりを整えたところだった。
「そうですか。お二人とも、疑いが晴れたんですね」
と、笑いかける史香。
「完全に、とはいかないけれどね」
夜神月は苦笑して、手錠の嵌まった手首を持ち上げた。史香の目線が手錠の長い鎖を辿り、やがてもう一方の枷が嵌まっている竜崎の手首にとまる。
「その手錠は……」
問いかけを含んだ視線を投げかけられ、竜崎は頷いた。
「はい。これからはまた月くんに捜査協力してもらいますが、私と二十四時間行動を共にすることが条件ですから、そのためのものです」
「へえ、そうなんですか」
史香は軽く相槌を打った。微笑は変わらず湛えられたままだが、反してその口調はとても冷え冷えとしたものだ。
「竜崎さんと夜神さんが。ふうん。二十四時間一緒に」
「こわっ! 史香ちゃん、顔が怖いよ……」
松田が馬鹿正直に零すと、冷ややかなまなざしが送られる。
「失礼ですね、松田さん。面と向かって女性の顔を悪し様に罵るなんて」
「え、いや、罵ってなんかないって!」
「……うーん、そうか、手錠かあ」
史香は右の人差し指を口元に添え、ちょっと考えるような仕草をした。うろたえている松田は無視だ。
「ああ、まだ左手が空いてた」
「へっ?」
「松田さんは、手錠って持ってます?」
それまでのどこか含みのある笑みとは打って変わった、にっこり笑顔で尋ねる。
「あ、ああ、うん。そりゃまあ僕も刑事だし、一応ね、ホラ」
松田は戸惑った様子を見せつつも、わざわざスーツの内ポケットから手錠を取り出して史香の前に掲げてみせる。
――次の瞬間、史香は電光石火で松田から手錠を引ったくっていた。
あっと呆気に取られる松田。史香は笑顔を崩さず……いや、先ほど以上に輝かんばかりの笑顔で竜崎の方に向き直ると、手を差しのべてきた。もう片方の手には手錠を握ったままで。
「さ、竜崎さん。左手を出してください」
「出すわけないでしょう」
竜崎はぴしゃりと一蹴した。
即答で撥ね除けられた史香は、さも心外そうにまなじりを吊り上げる。
「なんですか、それ! 夜神さんとは二十四時間繋がっていたくて、私とは断固拒否ってことですか!」
「妙な言い方はやめてください。私だって、したくてしているわけじゃありません」
本日通算三度目となる台詞である。
……まったく、こんなことで張り合ってどうするのだか。
「だったらミサが代わってあげよっか、竜崎さん。ミサ、ライトとだったら繋がれてもいいな~」
夜神月にしがみついた弥海砂が、その腕にほおずりしながら能天気なことを言う。監視という言葉の意味を、彼女はわかっているのだろうか?
「それでは意味がありません。今言ったように、ミサさんには向こうの部屋にいてもらいます。ここに居座られても邪魔になるだけですから」
「もおーっ。そんなにライトと一緒にいたいなんて、あなたやっぱりホモなんじゃないの!?」
「…………」
弥とはさっきから話が噛み合わない。さすがにうんざりした気持ちになる。
「竜崎さん……」
すると、笑みを消し真剣な顔つきになった史香が、ひどく深刻そうに話しかけてきた。
「ホモなんですか?」
「違います」
どうしてそこに食いついてくるのだ。
ならいいんですけど……と応えて、史香は淡々ととんでもないことを口にした。
「危うく夜神さんのをちょん切らなければいけないところでした」
「――僕!? いやその前に何なんだ切るって!」
夜神月が女性に対しては珍しく、泡を食ったように声を荒らげる。
「いえ、もし竜崎さんが真性だった場合に、とりあえずの措置として夜神さんに男性をやめていただければ、と」
「…………ああ、そう……」
真顔で語る史香の言を、月は力なく流した。竜崎も、史香のこの手の冗談(だと思いたい)にはそれが一番だと判断して、突っ込みどころは多々あれど口を挟まないことにする。しかし、それを真正面から受け止める者がいた。
「ちょっと、さっきから何言ってるの? ミサのライトに変なことしたら許さないからね!」
「別にあなたに許してもらわなくたって構いませんけどね。切る時は切ります」
「何それ! だから、許さないってば!」
弥が騒ぎ出し、それに対して何故か史香も切って捨てるような言い方をするものだから、収集がつかない。松田が何とか二人を鎮めようと、おろおろしている。
「――いい加減にしてくれ!」
それまで部屋の隅で夜神とともにじっと耐えるようにしていた相沢が、ついに爆発した。激昂し、テーブルを叩く。
「さっきから黙って聞いていればホモだとか何とか……もっと真面目にやってくれ! これはキラ事件なんだぞ!?」
「す、すみません……って、何で僕が謝ってるんだろ……」
一人頭を下げた松田がぼやいている。
ひとしきり叫んだおかげで落ち着いたのか、相沢は今度は冷静な挙措で、弥を夜神月から引き剥がした。
「ほら、君たちはこっちだ」
「えーっ」
相沢は嫌がる弥と、そして史香の腕を掴み、隣の部屋へと追いやる。
「あ、あの、相沢さん? 私まで追い出すことないじゃないですか」
「そういうことはその手錠を放してから言ってくれ」
「ライト、三人でもいっぱいデートしようねっ」
「ああもう、いいから早く出るんだ!」
二人を追い出そうと、相沢は躍起になっている。
その様子を横目にしながら、松田が言った。
「……史香ちゃん、ちょっとおかしくないですか?」
「彼女がおかしいのは、何も今に始まったことじゃないと思うけどな」
と、史香いわく危うく男性をやめさせられるところだった夜神月が、疲労を隠さず応じる。
松田は「うーん」と唸って、続けた。
「時々変なことを言い出す子ではあるけど……今日はやけに落ち着きがないと言うか、はっちゃけていると言うか」
――確かに。
竜崎は指をくわえた。手錠の鎖が硬い音を立てる。
考える。例えば……史香のこの二ヶ月の行動。二ヶ月前と言えば、夜神親子の監禁を開始した頃だ。そして夜神月と弥海砂が解放された日に、史香は戻ってきた。それも、いつもとは違って落ち着きを失くした体で。これが、何を意味するのか――
「竜崎、どうした?」
「……いえ」
夜神月が声をかけてきたため、竜崎の思考は中断された。
気にかかることではあったが、とりあえず、今はこちらをどうにかするのが先決だった。彼がキラであることは間違いないのだ。
「何でもありません。それはそうと月くん、弥とは――」
松田の発した疑問は、外に追いやられる寸前だった史香の耳にも届いていた。
平静でいるつもりなのだけれども、私はやっぱり動揺していて、しかもそれは松田に看破されるほどらしい――と、閉ざされたドアを眺めながら半ば他人事のように思う。
「なあ、フミカ」
その動揺の原因そのものが、史香の内心を知ってか知らずか、呑気に声をかけてきた。
「リンゴないのか、リンゴ。そろそろ禁断症状が出そうだぜ。さっき食ったばっかりだけど……断リンゴ期間が長かったからなあ」
……呑気にもほどがある。こっちはこの異形が傍らにいることで、想像していた以上に落ち着かないでいると言うのに。
史香は己に憑いた死神リュークを見上げ、深く溜息を吐いた。