14
公園のベンチに腰を下ろすと、史香は買ったばかりのリンゴを鞄から取り出した。周囲に人がいないことは、すでにリュークによって確認済みだ。「きちんと残さず食べてくださいね、リュークさん」
「わかってるって」
応えながら、リュークはもうリンゴにかぶりついている。
鞄から今度はノートパソコンを取り出し、膝の上で開く。自由にさせてもらえるという約束があっても、さすがにこれの持ち出しや持ち込みの際には中身を検閲されるなどの制約があるが、史香の目的の妨げにはならない。
起動までの手持ち無沙汰な間、史香のことなど目に入らない様子でリンゴにがっつくリュークの姿を眺めた。
この死神は、リンゴを買い与えることで史香がどれだけのリスクを背負うことになるのか、しっかり理解しているのだろうか? これまで引きこもりどおしだった史香がこうやって外に出て人気のない公園で時間を潰しているなど、あからさまに不審な(山中で穴掘りも十分に不審だっただろうが)行動なのである。もう少し落ち着いて、このありがたみを噛みしめつつ味わって食べてほしいものだ。
史香はそれらの不満をすべて口に出してぶつぶつ呟いた。
「第一、リンゴ代だって馬鹿にならないんですからね」
「恩着せがましい奴だな、おまえ……」
リンゴをすっかり食べてしまったリュークが、手の甲で口元を拭いながらぼやく。
史香は微笑んだ。
「ええ、だって、着せていますもの。見返りは、あって然るべきだと思いますけど?」
「あ、そう来る?」
リュークはクククと笑うと、史香に顔を近付けた。異形の眼に間近で見つめられるのは薄気味悪く、思わずのけぞってしまいそうになるのを寸前で堪えて、笑顔を保つ。
「私はリュークさんにリンゴを提供する、リュークさんは私に協力する。つまりはギブアンドテイクです」
「けど、俺はフミカの味方ってわけじゃない。ライトの味方でもないのと同じようにな」
「ですから、これは純然たる取引ですよ」
「ふーん、取引か」
リュークの声音には抑揚がない。表情からは内心が察しにくいから、声の調子から推測しているのだが……どうも、あまり気乗りしないらしい。史香はリュークからパソコンへと視線を移し、ディスプレイの角度を調整し始める振りをした。
「気に入らなければ、破棄してもらっても構いませんよ。その代わり」
関心を失った素振りをしつつ、脅しにかかる。
「私に憑いている間は、リンゴを一切口にできないということに……」
「ちょっ、ま、待て! それは困る、とても困る」
リュークは途端に慌て出し、両手を振った。史香がちらりと見上げると、
「でも、えーと、そうだな」
言って、右の人差し指で顎をかく。
「それで面白いものが見れるなら、ちょっとは協力してやってもいいぞ」
「ありがとうございます、リュークさん」
単純で、助かる。
リンゴを貰えなくなるなら、史香の名前をリュークのデスノートに書いて殺す……という方面には、思考は向かなかったようだ。史香はこっそりと安堵した。まあ、もしそうなれば、試してみたいこともあったのだが――この段階で命を危険に晒すべきではないか。
「ところで」
史香の思案を断ち切るように、リュークが言った。リンゴを食べたばかりにも関わらず、しきりに変な踊りを披露している。
「その呼び方、何とかならないか?」
「呼び方、ですか?」
話題の転換についていけず、史香は目をぱちくりとさせた。逆立ちのリュークを見やる。
「『リュークさん』なんて呼ばれると、体がかゆくなる」
「そうですか。では、リューク?」
そうやって呼びかけると、リュークはやっと変な踊りを止めた。
「ああ。で、俺は何をすればいいんだ?」
「その前に、一つ確認したいんですけど……」
言いさし、ノートパソコンに目を落とす。キーを操作してあるファイルを開くと、顔写真と氏名のリストが画面に表示される。
「夜神月に、竜崎さんの――Lの名前を教えなかったのは、何故ですか?」
「そりゃ、アレだ。俺が教えたって、面白くないだろ? それに死神界のルールにも、見えた名前や寿命を人間に教えてはならないってあるしな」
「なるほど。しかしですねリューク、ルールというものは」
死神を振り仰ぎ、厳粛な口調で続ける。
「破るためにあるのだとは思いませんか」
「まあ、賛成だけど……そんなもったいつけて言うようなことか?」
リュークは呆れている。
死神はユーモアを解さないとかつては断じたが、どうやらその認識を少し改めてあげてもいいようだ……と、捜査本部の皆が冗談のあしらい方を覚えてきてしまったために、近頃ツッコミにひどく飢えていた史香は思った。
「じゃあ、フミカは俺に誰かの名前を教えてほしいってことか」
「ノートで殺すためでなければ――例えば、私が素姓の知れぬ男性に恋をしてしまったとして、その人の名前を私に教えることでリュークの楽しみが損なわれることはありません」
レムが弥海砂に夜神月の名を教えなかったのは、デスノートの所有者の名を人間に教えてはいけないという、別のルールがあったからのはずだ。ヨツバキラの正体を彼女に直接教えることをしなかったように。
「まあな。名前を教えてほしい奴って、Lか?」
リュークの問いかけに、史香はちょっとの間むっつりと押し黙った。それから、口を尖らして言う。
「……どうしてそこで竜崎さんが出てくるんですか」
「素姓の知れない男を好きになったんだろ?」
「私は『例えば』と言いましたし、今のたとえが真だとしても、同じことを問いたいですが」
「いやおまえ普段からあれだけいちゃついといて今更だぞ」
「どうやら、リュークのその大きな目は節穴のようですね」
皮肉を言えば、リュークは黙ってしまった。
史香はやれやれと溜息をついて言葉を継ぐ。
「話を戻しますよ。リュークが目にした誰かの名前を意識せず声に出して呟いてしまったとして、そして私が偶然その独り言を耳にしてしまったとしても、ルールを破ったことにはなりませんよね?」
「なるだろ。何その屁理屈……」
……即答である。
史香は無言のまま鞄の中に手を突っ込んだ。もう一つリンゴを取り出し、死神に差し出す。ウホッと奇声を上げるやいなや、リュークはリンゴに食らいついた。
リュークがリンゴを貪り尽くすのを待って、口を開く。
「……で?」
「うーん。グレーだな」
あっさりと前言を翻すリューク。史香は満足して頷いた。
「その答えが聞けただけで、十分です」
「なあ、フミカ……」
不意に、死神が史香の名を呼んだ。その呼びかけには、それまでのふざけた物言いとは違って、ぞっとするような響きがあった。怖気を感じたが、おくびにも出さないように努めて、静かに返事をする。
「何です?」
「名前を知りたい奴がいるなら、死神の目の取引をすればいい」
リュークは笑った。笑い声を立てずともそうとわかるほどに、吊り上がった唇の端をさらに吊り上げて。死神が不気味に笑うさまを、史香はじっと眺めていた。
しばらくして、自身もクスッと笑みを零す。
「……可能なんですか?」
「ん?」
「目の力を与え、代わりに半分の寿命を得るというような取引が、死神にも寿命の見えない――この世界の人間でない私と?」
「…………」
リュークは変なふうに首を傾げた。そのとぼけた動作に、張り詰めていた空気がふっと和らぐ。
「そ、それは……どうだろうな」
どうやらその事実はすっかり頭から抜け落ちていたらしく、額に汗をかいてうろたえている。
……いっぺんに気が抜けてしまった。苦笑なのか溜息なのか自分でもわからないものを吐き出しながら、言う。
「では、そんな不確かな取引には応じられませんね。そもそも私がこうして受験生のように人名を覚えまくっているのは何のためだと」
「……結局、名前を知りたい奴って誰?」
「その辺りのことは、追い追い」
史香は笑顔でリュークの疑問を封殺した。
とりあえず、今はリュークの興味をできる限りで引いておければ、上々だろう。リュークの傍観主義は、これから先で頼りにするにはリスクが大きすぎる。完全に味方に引き込むことなどはもちろんできないだろうし……史香が「面白くない」とでも判断されたら、どうなるか知れなかった。
数時間後、新しい捜査本部――竜崎が建設させたこの対キラ捜査拠点に移ったのは、つい昨日のことだ――に戻ると、広々としたフロアには模木以外の皆が集まっていた。
「……私がいない間に、何かありました?」
ぽつりと尋ねる。
竜崎と夜神月は手錠があるため並んで椅子にかけているが、月はパソコンを操作していて、竜崎は何故か背もたれの方を向いて足を抱えていて、互いに背中を向け合っている。二人とも、何だかボロボロだった。
松田が興奮しながら身振り手振りを交えて説明してくれた。
「いやあ、すごかったんだよ! あの二人が、殴り合いのケンカを……」
ああ、そう言えば……そんなことも起こるのだったか。背後では、「面白そうだな、それ。ちょっと見たかった」とリュークが呟いている。史香は肩をすくめた。
「はぁ……夜神さんも竜崎さんも、らしくないですね」
「……史香に言われなくても、自覚はしてるよ」
夜神月が、苦々しく応じる。
彼は監禁を解かれてから、史香を呼び捨てにするようになっていた。あるいはキラとしての記憶を失ってから、なのかもしれない。いずれにせよ、月におべっかを使われても嫌な気持ちしかしなかったし、あの白々しいちゃん付けよりはマシかと思って、彼のしたいように任せている。
背を向けていた竜崎が、ちらっと月を見た。
「最初に仕掛けて来たのは、月くんですけどね」
「それはもともとおまえが……!」
月が椅子を蹴倒す勢いで立ち上がったのを、松田が泡を食って止めにかかった。
「ストップ、ストップ! さっきのでもうおあいこだって、ね!」
「……今日の夜神さんは、血気盛んですねえ」
遠巻きに見物しながら、史香はそんな感想を漏らした。これまではことさらに爽やか好青年を演じていたからああだったのであり、本来の彼は少々気が短いのだろうか。
「夜神さ――お父様は、一度心臓発作で倒れられているんですから、気を付けないと」
史香が言うと、月はばつが悪そうな顔をして頷いた。
「あ、ああ、わかってる。軽率だったよ」
「なに、息子を持つ父親は、このくらいでは動じんさ。たびたびでは困るが、たまにはケンカぐらいするだろう」
余裕の言を吐く夜神の笑みは明るい。息子の疑惑がとりあえずは晴れたことで、ストレスも大幅に軽減されているに違いない。
「――ああ、そうだ、史香」
「何ですか? 夜神さん」
「前から言おうと思ってたんだけど……父も僕も夜神さんじゃ、お互い紛らわしいだろう? 名前でいいよ」
「えっ……」
月のいきなりの申し出にびっくりして、返す言葉に詰まる。
こちらを見つめてくる夜神月を見返すも、彼は監禁前までの、どこか含みの感じられた態度とはまるで違う、混じり気なし百パーセントの明朗快活オーラを全身から発している。つい、うろうろと視線をさ迷わせてしまった。
「史香、私のことも――」
椅子を回転させて史香の方を向いた竜崎が、横から口を挟む。
ちょっと呆れつつ、史香は返した。
「……『竜崎さん』。他に、一体どんな呼び方が?」
「そうでした」
何がやりたかったのか、竜崎はそのまま大人しく引っ込んだ。よくわからないが、たぶん考えてもわからないので、史香は今のについて考えるのは止めて月に向き直った。
「ええと、でも、その……嫌じゃないですか? 私なんかに、名前で呼ばれるのは」
「何言ってるんだ? そんなこと、あるわけないだろ」
「そうですか、それじゃ……」
さっきもこんなやりとりをしたっけ、などと思いつつ、史香はコホンと咳払いをする。
「――総一郎さん?」
一瞬しんと静まり返った部屋の中で、
「ぶっ! そ、そっちかよ」
史香の真後ろにいるリュークが盛大に吹き出した。汚いなあ……と眉を顰めかけたが、それだけ受けたということなので、まあ、許してあげようと思い直した。
「ゲホゲホッゴホッ」
「きょ、局長! しっかり!」
夜神は激しくむせている。
月は手を額に押し当て長い長い息を吐くと、口元を引きつらせながら史香を見た。
「…………史香?」
「はい、月さん。冗談です」
にこにこして、史香は応える。それから、ぐっと手を握って拳を作った。
「よし。今後はこういう路線で行こう」
「あなたの発言の方が、夜神さんの心臓に負担をかけていますよ……」
竜崎が、反対向きに椅子にかけたまま、ぼそりと呟いた。