17

 史香は笑った。
 それは優位に立つためのポーズでもあったし、うまくレムとミサを分断し、かつこの時点で両者ともに接触するという計画が怖いくらい思いどおりに進んだことと、愕然としたレムの表情がおかしくて仕方ないという気持ちから自然と浮かんだ笑みでもあった。
「あ、おまえ、レムも見えるのか」
「当然です」
 自信たっぷりに頷く。実はそれも賭けに近い要素であったことは、黙っておいた。
「……どういうことだ?」
 半身が壁に埋まっていたレムはそこから抜け出ると、史香とリュークの前に立った。
 先ほどはレムの驚きようが手に取るように伝わったが、やはり死神の表情は読み取りづらく、見上げた先のレムが何を思っているのか史香にはわからなかった。疑念、困惑、興味、狼狽、驚嘆、さて、いずれのものか。
「何故、私の姿が見える。私の名を知っている? それに……」
「はい、そこまで」
 史香は右手をかざし、白い死神から次々と出てくる疑問を遮った。
「答えてさしあげたいのは山々ですが、私にも、そう時間があるわけではありません。あなたも、そろそろ火口の元に戻らないと不都合があるでしょう? ですから、用件のみを単刀直入に言います」
 死神に口を挟ませないよう、史香は畳みかけて言う。
「――夜神月に協力するのをやめなさい」
 レムは押し黙った。
 簡単に説き伏せられるとは思っていない。レムの気持ちは、火口といることで夜神月に傾いてしまっているはず。けれど、それを覆すカードは史香の手元にしっかりと存在するのだ。
「彼の計画どおりに事が運べば、遠からず弥海砂は殺されます」
 まずは一枚目。
 ピクリとレムが反応する。どうにも思いどおりに進み過ぎて、やはり笑みが零れてしまいそうになる。
「夜神月に尽くし、利用し尽くされ、彼に殺されるのは――あるいは彼女にとっては、幸福なことかもしれませんけどね。何しろ弥さんは『ライトのためなら何だってする』そうですから?」
 意地悪く笑って、わざわざ先の海砂の言葉を繰り返してやる。史香に指摘されずとも、レムの脳裏には、史香のわかりやすい甘言にも単純に喜んでいた海砂の姿が蘇っていることだろう。
「そんなことはさせないよ。そうなる前に、私が夜神月を殺す」
 瞳孔の細いレムの目が、史香をきつく見据える。
 史香は洗面台に後ろ手をつき、いかにも呆れ返って、という素振りをした。
「本気でそう思っているのだとしたら、あなたは結構な楽天家なんですねえ」
「どういう意味だ」
 異形の顔に苛立ちが滲んでいるようなのが僅かに窺えて、史香は今度は笑い声を抑えきれなかった。
「さっきの台詞、夜神月に聞かせたことは?」
「…………」
「夜神月はとっくにあなたを無力化する策を立てているはずです。そんな脅しがいつまでも通用すると思っているなら、あなたは彼をあまりに過小評価しています。……第一、夜神月を殺して得る生を、弥海砂が大人しく甘受するとも思えませんし」
 レムは何も応えずに、ほんの少し顔を伏せた。
 仮に月を殺して海砂を救ったとしても、月を失ったことで海砂は自ら命を絶つこともありうる――それは当然、夜神月のために寿命を縮め一度は死のうとまでした弥海砂をずっと傍らで見守ってきた、この死神が懸念することでもあるに違いなかった。
 最初の揺さぶりとしては、まずまずだ。
 再び黙り込んでしまった死神に、「それともう一つ」と史香は片手を挙げ、人差し指を立ててみせた。
「夜神月の手であれ、あなたの手であれ――Lが死ねば」
 二枚目のカードを切り、微笑む。
「私が弥海砂を殺しますよ、デスノートでね」
 そう告げた瞬間、レムの眼に強烈な憎悪が輝き、史香ははっとたじろいだ。
 だが、ここで少しでも怖気づいた様子を見せれば、その時こそ、史香の命は真に脅かされるだろう。鼻の先で史香を睨んでくるレムに、笑みは崩さないように努めつつ手を差し出す。
「私を殺しますか? どうぞ、できるものなら、やってみてください」
「何?」
 レムは目を眇めた。史香は微笑をさらに深くする。
「私はすべて知っています。死神のことも、デスノートのことも、夜神月のことも弥海砂のことも。火口のこともね。だって私はこの世界の人間じゃない――だから、この世界の死神には私を殺せません」
 完全なハッタリだった。
 ただ史香の考えでは、死神に史香の寿命が見えない理由はそれだ。史香が異世界の人間で、彼らが寿命を奪う対象とは異なる存在だから――もちろん事実はそうではないかもしれないし、この推測が正しかったとしても、デスノートに名前を書かれれば史香とてやはり死ぬのかもしれない。
「もっとも、あなたが私を殺そうとした場合は……」
 けれども肝心なのは真実ではなかった。今、この場で死神を欺けるかどうか。
「弥海砂の寿命が尽きる日は今日、ということになってしまいますが」
「ククッ」
 リュークが、突然に笑い声を上げる。
「まさか死神を脅すとは……おまえ、ホントとんでもないな」
「あら。お褒めの言葉、ありがとうございます」
「褒めてないけどな」
「……とは言え私も、なるべくなら、そんなことはしたくないと思っているんですよ? ええ、本当に」
 失礼極まりないリュークとの会話を無理矢理に打ち切って、史香はレムに向き直った。レムはじっと史香を見下ろしている。史香の真意を測ろうとでもするように。
「何が言いたい」
「そうそう、単刀直入に言うのでしたね。レム、私と取引をしませんか」
「死神と取引するの好きだなあ、おまえ」
 リュークは自分の立てた膝の上で頬杖をつきながら、横槍を入れてくる。うるさいですよとそれを一蹴し、史香はレムに向かって厳かに言い放った。
「私が弥海砂を幸せにしてあげます」
「ブフッ!」
 背後のリュークが盛大に吹いた。
「ちょっとリューク」
 史香は眉根を寄せ、不機嫌さを隠さずにリュークを振り返る。
「毎回、私の真後ろで吹くのはやめてください。まったく、汚いですね」
フミカ、おまえ、今のはしょうがないぞ」
「……妙な勘違いをしているようですが。今のは、弥海砂にかかっている嫌疑を晴らすという意味です」
「明らかに言葉間違ってるだろ、それ……」
「言いがかりですよ。恨むなら、自分のリアクションのよさを恨んでくださいね」
「あっ、やっぱりわざとか」
 史香とリュークが言い合っているのを、レムはつくづく見ていた。ややあって、ぽつりと漏らす。
「……取引と言ったね」
 その言葉を拾い、史香はレムに視線を投げやった。
「はい、言いましたね」
「それなら、おまえが望むことは何だ。何か、私への要求があるということだろう?」
「あ、そういや、そうだな」
 こちらの要求を尋ねてくるということは、史香の提示した「弥海砂の無実」に、レムが心動かされている証だ。黒と白の死神の注目を受け、史香はにっこりと宣言する。
 弥海砂の無実と引き換えにしてレムに要求するもの、それは――
「あなたに死んでもらうことです、レム」





 海砂の面接が無事に終了し、史香たちは捜査本部に引き揚げてきた。
「はーっ、疲れた~」
「ミサミサ、面接はどうだった?」
 早速、松田が海砂に勢い込んで飛びついて来る。
 その様子を横目にしながら、さて、と史香は考えた。弥海砂を第二のキラとしてヨツバに接近させる作戦は、ここで中止となる。次の――レムと海砂の分断に成功した今、史香にとっておそらく未知のものとなる――作戦が始まる前に、すべての布石を終えておかなければ。
「作戦中止!? ここまで来て何でよー!」
「私ではありません、月くんの意見です」
「えっ、ライトが……」
「ミサ、言うことを聞いてくれ。このやり方ではミサが危ないんだ」
「…………うん、ライトがそう言うなら」
 海砂が騒いでいるのを遠巻きにしていた史香は、おやと思った。
 作戦中止を知った海砂が竜崎に噛みつき、月がそれをなだめる。海砂は大人しく引き下がる。これは、史香の知識どおりの流れだ。しかし漫画では、海砂が引き下がったのは己で火口がキラという証拠を掴むためであり――
「ミサ疲れちゃったから、部屋で甘いものでも食べたいな。ねっ、マッツー」
「わかった、ミサミサ、すぐ買って来るよ」
 マネージャー精神が染みついてまだ離れないらしい松田は、海砂の一声ですぐに駆け出そうとした。
「おい、松田――」
「あっ、そうか。マネージャーはもう止めたんだった」
 夜神に制止され、踏みとどまって照れ笑いをしている。
「甘いものなら、竜崎の分がいくらでもあるだろ」
 苦笑しながら腕組みをする月。その拍子に、左手に嵌まる手錠が音を立てる。手錠が繋がる先の竜崎は、椅子の上でパソコンに向き合ったまま、紅茶に口をつけつつ応じた。
「はい、私の分はいくらでもありますよ。ミサさんの分ではなく」
「少しくらいいいじゃないか、竜崎。今日は、ミサには頑張ってもらったからな」
 渋る竜崎をたしなめ、月は海砂に優しく笑いかける。しつこく食い下がると思っていた海砂が大人しく退いてくれたので、内心ほっとしているのだろう。
「やったー! ライトが褒めてくれたっ」
 海砂は万歳をして喜び、それから史香を振り返った。
「ね、史香も一緒に食べるよね?」
「は?」
 不意をつかれ、ぽかんとする。
 一体、何を言っているのか――思わず海砂を凝視するが、彼女はにこにこして史香を見ているだけだ。咄嗟には返事ができずにいると、いち早く松田が反応した。
「あれっ? ミサミサと史香ちゃん、いつの間に仲良くなったの?」
「今日、ちょっとね」
 にっこり笑顔のまま、海砂は史香の腕を取って寄り添ってみせた。
「でも今までも、別に仲が悪かったわけじゃないし。それに、ライトに関しても心配ないってわかったしー。ここオジサンばっかなんだもん。たまには女の子同士で恋バナもいいよね!」
「オジ……」
「恋……」
 松田と史香は、揃って絶句した。
 月が胡乱気に史香を見る。
「……まさか、ミサに妙なことを吹き込んだりしてないよな?」
「失敬な。私はいつも誠意の心を込めた発言しかしていません」
「嘘はよくありませんよ、史香
「竜崎さんまで! 失礼ですったら」
 月と竜崎と話しているうちに、だんだんと自分のペースを取り戻せてきた。
「あっ、ライトがデートしてくれるなら、もちろんミサはそれが一番だからね」
「いや、僕は捜査が……デートの日は今日じゃないだろ?」
「ぶー。史香ー、彼氏が仕事仕事でミサに構ってくれませんー」
 海砂は唇を尖らして、だだをこねるように史香の腕を揺らす。何なんだ、この唐突な馴れ馴れしさは……ヨツバの化粧室でちょっと持ち上げはしたが、そのせいで史香に友好的な感情を抱いたのだとしても、これはおかしい。
 訝しく思いながらも、海砂の先の申し出を受け入れる。
「……まあ、私が弥さんの恋愛相談を受ける分には、一向に構いませんが」
「何言ってるの、史香だっていろいろあるでしょ?」
「ありません」
「えーっ、でもこの前、竜崎さんにちゅーされむぐっ」
「さあっミサミサ! あっちの部屋でゆっくりお話しましょうか!」
 史香は極めて素早い動作でその口を塞いだ。大声を張り上げて背中を押し、彼女の部屋へと押し込む。「何よ急に」と不満を漏らしながらも、海砂は大人しくされるがままだった。
「あの二人、今日何があったんだ?」
「さあ……」
 背後からそんな話し声が届くが、海砂の部屋に入ってドアを閉めてしまうと、聞こえなくなった。
 ふう、と息を吐く。
 史香がそうしている間に海砂はハンドバッグをそこらに放って、手近なソファーに腰を下ろした。背もたれに片肘を置き、こちらに視線を寄越す。
「でさー。史香って、実際のところ竜崎とどうなの?」
 ……えっ、本気で恋バナ?
 史香はムッとなった。
「どうもないですし、弥さん。お忘れかもしれませんが、ここの会話はすべて向こうに筒抜けです」
「じゃあ内緒話」
 右手を縦にして口元に添え、耳打ちのジェスチャーをする。
 確かにそうやって小声で話せば、唇の動きを読まれることも、マイクに音を拾われることもあるまい。だが、それにしたって……抗議を続けようと口を開きかけたが、海砂に言い聞かせるのも何だかひどく億劫だ。諦めて、海砂の隣に座った。
 海砂は鋭く囁く。
「火口を捕まえる話、詳しく教えて」
「弥さん――」
 ぎょっとして、海砂を見やった――いや、見やろうとしたが、彼女がそれを許さなかった。耳打ちの体勢でさりげなく史香の頭と体を押さえたまま、海砂は声をひそめて言う。
「ヨツバのビルで、言ってたじゃない。ミサに協力してほしいって」
 カメラがある手前、おそらく海砂はさも屈託のない顔で笑っているのだろう。しかしその声には焦躁や、ある種の必死さが、隠しきれずに滲み出ている。
 火口の話は、いずれ史香の方から持ちかけるつもりでいたけれど――なるほど、これなら会話を聞かれることもなく、またそれを不審に思われることもない。海砂の機転に、史香は舌を巻いた。
「……危険な作戦ですよ」
 彼女に倣って手で口を覆いつつ、囁き返す。
 すぐにでも飛びつきたい海砂の言葉だったが、それでは露骨だ。どうやら史香は彼女を侮りすぎていたようだから、ここは慎重に、一旦は引いてみせて向こうからさらに踏み込んでくるのを待つのがいい。
「さっき月さんも言っていたとおり。下手を打てば、弥さんの命が脅かされることもありえます」
「ミサはキラを捕まえて、ライトの役に立ちたい……そしたら、ライトはきっと喜んでくれる」
 史香の用心は、しかし不要だったようで、海砂はもう完全に心を決めている。こと夜神月が関わると、より頭が回るようになるのと同時に視野が狭くなるのだろうか。史香にとってはありがたいことだが。
「ライトのためなら何でもする。ライトの役に立てるなら、それで死んだっていい。史香は違うの? 竜崎のためなら……だから、自分で作戦を考えたんじゃないの?」
「…………」
 すでに、海砂の手は史香を押さえていない。史香は海砂から体を離し、座り直した。
 史香は違うの?
 私は、――違う。
 竜崎の意志や、望みとは関係のないところで動いている。すべては自分のためにやっていることだ。竜崎の命を救うため――史香の価値観を貫きとおすため。史香のしようとしていることを知れば、きっと竜崎は史香を許さないだろう。
「ミサは、ライトのためなら喜んで死ねる」
 どこか熱に浮かされたように、うっとりと海砂は呟いた。そんな海砂を眺めながら、史香は思う。この人はなんて健気で、一途で、まっすぐで……どうしようもなく愚かなのかしら。
 それでも彼女を羨ましく思う気持ちもほんの僅か、己の中にあることにも、史香は気付いていたけれども。